2st-07 | ナノ

第弐話 七


「―――じゃあ、今日はここまで」
「きりーつ、れいッ」

 号令に合わせて頭を下げる。
 教師が教壇から下りて出て行くと、クラスメイトたちは思い思いに移動し始めた。

 昼休みだ。
 俺も閉じたままだった教科書を片付けに動いた。板書されたものを写そうかとも思ったのだが、日直である女生徒がすばやく消し始めたのでノートも一緒に鞄に入れた。
 同じように隣で片付けた穂坂が強張った身体をほぐすように「う〜ん。ようやく終わったね」と背伸びをした。お疲れ、と声をかけると「さっきの問題、ちょっと難しかったね」と笑った。

「…剣道部の人たち、大丈夫かな。確か、もうすぐ大会だったはずなのに……。何だか、昨日に続いて、今日も色んなことが起こりそうだね。七代くんは大丈夫? 疲れたりしてない?」

 俺が頷くと「それならよかった。ただでさえ、転校してきただかりで慣れないことだらけだものね」と安堵した笑みを浮かべるとくるりと振り返った。

「壇くんは―――」
「………」
「壇くん?」
「ぐ……ぐごごごごごごご……」

 がっくし。机に突っ伏して高鼾をかいている壇の姿に笑うしかない。穂坂は「寝ちゃってる」と壇の肩に伸ばそうとした手を止めた。

「起こさないであげた方がいいかな……?」
「いいよ。俺が起こしてみる」
「そっか。…それじゃあわたし、今日は巴とご飯の約束してるから。また後でね、七代くん」
「ああ、また後でな」

 教室を出て行く穂坂を見送ってからもう一度、ぐおおおお、といびきをかいている壇を見やった。
 確かに気持ちよさそうだが、食べざかりの青少年にとっては昼飯を食いっぱぐれるのは痛いだろう。

「おーい、壇。昼だぞー、飯。飯食おうぜ」

 椅子に座ったまま腕を伸ばして、ゆさゆさと肩を揺さぶってから反応を待っていると、壇が何か呟いた。

「あー、あー……えっと……やっぱり生で―――牛……」

 生で牛? ユッケか?

 さらにそれをじっと眺めると「うッ……。やべェ……それは……はんぺん―――」と魘されたような声を上げたので俺はフッと一笑した。はんぺんに襲われているのか何か知らないが一応起こそうと試みた俺は悪くないぞ、うん。
 正面に向き直って鞄に入れておいた財布を引っ張り出して中身を確認して――ちょっと悩んだ。少し切り詰めないと苦しい。

「……臨時収入と思って受けてみっかなあ」

 伊佐地センセから紹介された喫茶店のマスターが仲介者としてくれる報酬を伴った依頼の仕事。チラリと何枚か見せてもらっただけだが、そこそこいい値段からスタートできそうだった。

 羽鳥さんに衣食住の面倒を見てもらっている以上の甘えはできない。うん。受けてみよう。

 しかし取り敢えずは、鈴から頼まれたカギを先生に渡しに行こうと職員室に向かった。





 失礼しました、と一礼して職員室から出た俺は、さてどうしようかとポケットに入っているカギの感触を確かめて苦笑いした。食堂にいく途中だからと立ち寄った職員室に羽鳥先生が居たには居たが、慌しくて渡せずに終わった。

「おやあ、転校生じゃないか。なんだ、呼び出しか?」

 廊下からかけられた声に身体を向けた。

「…違いますってば。あと、おはようございます」

 かけられた声の先――ジーンズのポケットに手を入れていた牧村先生が「おはよう」と片手を上げた。昨日だけが特別怠かったわけじゃないらしく、緩慢な動きで顎に細い指を添えると「おや、今日は女連れじゃないんだな。さてはフラれたかあ?」とニンマリ笑った。

「転校生なんてそんなもんですよ」

 そう言って肩をすくめてみせる。昨日、穂坂に校内を案内してもらっていたことは、図書室に顔を出していたので牧村先生も知っている。そのときも「女連れ」とからかわれた。

 だからなるべく、からかわれるのは勘弁したい俺の返答だったが、牧村先生は「可愛くないやつめ、と言いたいがまだまだだな少年」と一笑されてしまった。……いらん世話ですよ。

「呼び出しじゃないねえ。昨日は朝子に叱られたらしいじゃないか」
「噂になってるんですか?」
「いや。この程度の小事は騒ぎ立てられないだろう、酒の肴になる程度だよ」

 つまり羽鳥先生が朝帰りになった原因はこの人のようだ。羽鳥先生がすすんで肴にしたとは思えないから、牧村先生があれよあれよといううちに聞き出したのが妥当な線だろう。
 この分だと俺が羽鳥家の居候ってこともバレるだろう。

「聞けば七不思議の解明だって? 学校探検に幽霊退治とは、君もなかなか青春を謳歌してるじゃないか」
「まあ、遅まきながら。…先生は今から昼ご飯ですか?」
「ん? ああ、こみ具合も引いてきたはずだし昼飯ついでにニコチ――…見回りもしようと思ってな。それで職員室には?」

 無理矢理修正されたことに無言の非難を向けそうになったが、いい機会だと思い至る。

「あ、なら先生に渡しておきますよ」
「ん―――……なんだ、酒じゃないのか」
「何を期待してんですか」

 ポケットから出したカギを、羽鳥先生が落としていたから渡そうと思っていたと説明する。しかし原本や教科書を探し回っていたのを手伝っていたら言いだすタイミングを失った。そこまで聞いてはくれた牧村先生だったが、いよいよ興味が失せたようで「いい。君が持っていろ」と言い放った。

「化学実験室の鍵ならすでに合鍵がかけられてる。今さらいらんだろ、ややこしい」
「…やっぱり」
「まったく、朝子のアレは誰に似たんだか。……それに君も君の仕事のためにはあって問題ないし、便利だろう? あと、女を連れ込むような悪さをするようは見えんしな」
「それはどうも」

 女を連れ込むって…。

 するつもりはないが、牧村先生も俺の背後事情を知っているからそんなことを言うのだろう。

「さて、用事が済んだならさっさと教室に戻れよ。残り10分は切ったぞ」

 うわ、マジかよ。
 慌てて食堂に走った俺に「廊下は走るなー」とこの日、教師らしい牧村先生の一声が聞こえた。





「それじゃ、校門出て左のポストの辺りで待ち合わせって事で」

 窓枠に足をかけた壇は「お先ッ」と視界から消えた。壁から剥き出しになっている配管を利用しながら器用に下っていく。
 なぜ、壇がそんな真似をするのか。それは昼飯を食べそこねた俺と壇が授業をサボタージュして、カレーを食べに行くからだ。

「もう……窓から出入りしたら危ないのに……」
「何処であーゆー業(わざ)を身につけてくるんだか」

 鮮やかな手際に拍手を送るしかない。壇が無事着地したのを見届けると、穂坂は「それじゃあわたしたちも行こうか」と促す。持っていたはずの化学の教科書やノートは片付けられていた。

 うーん、すごい気合いの入りようだ。ここで意外なのは堂々とサボろうとする俺と壇を咎めるのではなく、穂坂も行く気満々だということだろう。
 冗談でなく穂坂は「あ、えっと。バラバラに、だね。巴の教室を通るのは怖いから……少し遠回りしようかな」と真剣な表情で何度か頷く。

「それじゃあ、また、後で!」
「うん。気をつけて」

 穂坂は「七代くんもね」と教室を出ると飛坂のいる教室とは逆――左の方から階段を下りて行った。

「…………ふむ」

 さて、俺はどうしよう。遠回りして迷う可能性もあるし、頭のなかにある最短ルートで行くか。

 そのためには飛坂のいる教室の前を通らなくてはならない。廊下に出た俺は誰もいないのを確認して地面にべたりと這って匍匐前進をしていたら、「あ」とくぐもった声が前を塞いだ。
 目の前にずんっと四角い紙袋と登場してきたのに思わずビクリと震えた。

「七代センパイ……?」
「………や、やあ」
「すごいね。これは、お導き?」

 さっきの紙袋くん。
 じゃなかった宝方くん。

 とりあえず「お導き、かもな」と応えておく。わざわざしゃがんで見られていることが恥ずかしいとかじゃないから。うん。
 とはいえ普通、三年の廊下に一年の宝方くんがいるのはおかしい。俺のお導きというよりは彼が何らかのお導きを受けたのかもしれない。

「くふふ」

 宝方くんに他意はないんだろうが、俺はちょっと今の自分が恥ずかしくて起き上がりたい気持ちに駆られが我慢だ。

「四角……はね、けっこうすごい、よ。四角は、文明の始まり、だから。人は、曲線に囲まれた自然の中から直線を見いだし、そこから四角を構築して進化した。四角は、文明。四角は、叡智……。でも、世界から四角を切り取ったらそこには裏と表が生まれた。四角は人に世界の真実を、教えた……。万象が持つ表と、裏。七代センパイにも、ある?」
「いやまあ、見せたくない面がある、っていう意味ならあるよ。どっちが自分の表で裏かまでは区別してないけど。そんなのみんな同じだろ」
「……うん。ぼくも、あるよ。いまが、表。裏、はね……くふふ、内緒」

 宝方くんは独特の笑い方で空気を震わせると、ごそごそとポケットから駄菓子袋を出した。

「四角い話、すごく楽しい。だから七代センパイにこれ、あげる」
「ど、ども」

 東京BMチップスと印刷された駄菓子だ。カードつきとあるが、カードがあったであろう場所には剥がされた糊の跡がついている。
 うーん、合理的。こういうのが四角なのか?

「……そう。さっき、言い忘れた。花札、あるよ。菊と、紺色の細長い四角。すごく、綺麗な秋のカード―――」
「なに…?」

 這いつくばって受け取った俺は思いがけない言葉に彼を見上げる。詳しく訊こうとしたそのとき、厳つい男子生徒が現れた。

「おォい、蒐。おどれ、どこ行ったかと思えば、なにをしゃがんどるんじゃ。次の授業は生物室じゃろが。―――あァ?」

 ………増えた。