1 | ナノ

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『本日は、ポイント故障のためダイヤが大幅に乱れ――お急ぎのお客様には、大変ご迷惑をおかけ致しました。次は〜、巌戸台〜……』

 車内放送に、真宵は沈みかけていた意識が浮上した。
 このまま寝過ごしていたら危なかった、と真新しい学生用鞄の中から月光館学園入学案内と書かれた折りたたみの紙を開く――『巌戸台分寮』と書かれた学生寮とは別にあるらしい寮までの道筋を駅からどう行くべきかもう一度確かめた。

 ポイント故障は本当に災難だったわね。学校の方に相談したら、女子寮の門限まで間に合わないだろうから別の寮へ一時的に入寮手続きを進めておくって連絡があったから……日暮さん、入学案内は持ってる? …そう、よかったわ。そのなかに巌戸台分寮って書いてある場所に行ってね。大丈夫、駅から遠くないから。あ、それと、荷物は向こうに送っておくから心配しないでね。

 ポイント故障でダイヤが乱れるという旨を女子寮に連絡を入れたあと、折り返しで寮母からそう言われたのを思い出す。

 お金がある学校なんだなあ、と真宵は感心した。男女別の寮がある他にも寮があるなんて不思議だ。しかも、この分寮は真宵も乗っている新都市交通あねはづるを利用せねばならないが、本数は多いし駅も近い。どういう基準で入寮できるのか分からないが、人気があるかもしれないのに転校生である真宵を受け入れる余裕があるなんて――本当に不思議だ。

 この、月光館学園高等部へ転入に決まったことも。
 両親が死んだこの街に戻ることになったことも。

 世話になっていた親戚の娘が結婚して出戻り、二世帯住宅のために改築するということで真宵の立場は微妙なものになっていた。若い娘夫婦のなかに高校生の女子がいるのは良くない、という周囲の声と、親戚が持ってきた月光館学園の入学案内と一緒に補助金や奨学金がつくという話。
 真宵が首を振る理由はなかった。

「あ…」

 ひらり、ひらりと青い蝶が窓ガラスに映ったのが見えた。
 もともと車内には真宵以外いないため探すのには苦労しないはずだったが、青い蝶らしきものは見当たらない。真っ暗になった窓ガラスからは外の風景が映るわけがない。
 だが、その疑問は長く続かなかった。すぐに入った『巌戸台、巌戸台です』という車内放送に気が向いた真宵は一つしかない鞄を取る。

『この電車、辰巳ポートアイランド行き、本日の最終電車となっております。お乗り忘れの無いようご注意ください』

 改札を出てから、携帯電話のディスプレイを見ると日を跨ごうとしている。
 真宵はパンフレットの地図を持って寮への道を急いだ。




 ニューヨークの市街地にありそうな赤煉瓦造り。
 それは四階建ての建物で、寮というよりホテルのような外装に真宵は持っていた入学案内の地図で合っているか確かめる。間違ってはいないと思うのだが、

「え…と、訊ける人はいない…よね」

 ここまで道を訊くことができなかったように、通りには誰もいない。現在地を調べようにも携帯電話は何故か電源が入らなくなってしまった。建物のなかは真っ暗で気は引けるが、事前に真宵が入るのは向こうも知っているはずだ。間違えたときには謝ろうと、玄関のドアノブに手をかけようとした時、カチャリと扉が開いた。

「遅かったね」

 その声とともに少年が一人顔を出した。
 癖のある黒髪は短く、晒された顔やドアノブを握っている手は雪のように真っ白だ。今まで寝ていたのか白と黒のストライプ模様のパジャマにサンダルを履いている。そんなことが色々浮かんだが、まずは少年の言葉に応えることにした。

「あ、実はポイントの故障で遅れたとかで…」
「長い間、君を待っていたんだ」
「? 起きて待っていてくれたの?」

 真宵の問に少年は笑顔を見せたが答えず、すっと一枚のカードを差し出した。

「この先へ進むなら、ここに署名して。一応“契約”だからね。……怖がらなくていいよ。ここからは、自分の決めた事に責任を取ってもらうってだけだから」

 ね、と小首を傾げられてしまうと受け取らないことがおかしく思えて来る。

「……」

 少年の手から受け取ったカードをめくる紙が一枚貼られていた。そこには、『我、自ら選び取りし、いかなる結末も受け入れん』という短い言葉と、空白になっている署名の欄が鮮やかな青のインクで印刷されている。
 そして何処から取り出したのか少年は万年筆も真宵に渡した。

 万年筆のキャップを外し、名字の一画目で引いたインクも印刷字と同じ綺麗なベルベット・ブルー。
 少し驚いたがそのまま、日暮真宵、と署名すると少年が受け取り、目を伏せて確かめる。

 …あ、この子も、目が――青い。

「…確かに」

 パタン、とカードを閉じた音にハッとする。
 くるりと少年は手を翻すとカードは消えてしまった。脳が麻痺したみたいに、まるで手品みたい、と思う真宵に少年は手を差し出して「どうぞ」と奥に招いてくれる。しかし電気は点いていない。

「時は、誰にでも結末を運んでくるよ。たとえ、耳と目を塞いでいてもね」
「……。どういう意味なの?」

 やはり少年は最初と変わらぬ笑みを浮かべたまま答えず、一歩下がる。そしてまた奥へ下がるごとに真宵と少年の手が離れていく。

「…さあ、始まるよ」

 言葉も、少年も暗闇に溶ける。
 最後に白い指先が消える瞬間、それに手を伸ばそうとした真宵の耳に「誰!?」という声が飛び込んだ。




 三階に上がった一番奥の部屋。
 そこまで案内してくれたゆかりに「いちばん奥だから、覚えやすいでしょ?」と訊かれ、真宵は頷いた。今でこそ落ち着いているが、真宵がこの寮に入ることを知らなかったゆかりには不審人物と疑われてしまったようで、かなり胡乱な目をされたのはついさっきのことだ。それが引け目になっているのか、ゆかりは「あー…荷物、は。届いているんだよ、ね」と呟く。

「うん。ありがとう、岳羽さん」
「う…ううん。あー…えっと、何か訊きたい事ある?」

 訊きたい事?

 そう訊かれて真宵の視線が、背に隠されているゆかりの腕――正確には手に持っているであろう銃に向いた。なぜか会ったとき、ゆかりは銃を持っていたのだ。それが気になるといえばなる。が、真宵の視線に気付いて顔を強張らせたゆかりに訊くのは躊躇われた。

「……あ、あの子も寮生なの?」

 代わりに出た質問が、寮へ引き入れた少年のことだった。
 醒めるような青い瞳をした少年。確か月光館学園には初等部も併設してあったからそこの子かもしれない、と見当をつけた真宵だったが、ゆかりからの答えは「…誰のこと?」というものだった。

「え、ちょっと、やめてよ、そういうの…」

 眉根を寄せるゆかりの表情からも何も知らないのがわかる。
 あり得ないかもしれないが、もしかしてあの少年は幽霊だったのだろうか。それとも疲れたせいの幻覚だったのかもしれない。うん、寝た方がいいよね、と真宵は、変なこと訊いてごめんね。おやすみ、とドアノブに手をかける。

「あの…」
「え?」
「ちょっと訊きたいんだけど」
「う、うん」
「――……駅からここまで来る間、ずっと平気だったの?」

 平気だったよ。
 何が平気じゃなかったのかがわからなかったが、真宵がそう答えると「そっか…」とゆかりは言ったものの、安堵するわけでもなく少し強張った顔のままだ。

「…ならいいんだ。ごめん、気にしないで。じゃあ、私は行くね…」
「うん、おやすみ」

 だが、去ろうとしたゆかりが「あのさ…」と声をかける。

「色々と、分かんない事あると思うけど、それはまた、今度ね…おやすみなさい」

 今度こそ、ゆかりは振り返らず、階段を下りて行った。


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