憧れの降伏 | ナノ


ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比


とてもたいせつだったのかもしれない、と頭のなかにうかんだ文字を端からよみあげると、それはひさしいことにきちんとことばになっていておどろいた。おどろいたのは隣に腰をおろしていた留三郎もおなじだったらしく、すこうしだけ、5ミリほど。口をぽかんと開けていた。手は震えたままであった。
ことばらしいことばを発したのは右の手をつかって数えてみると10と6日ぶりである。別にしゃべりたくなかったわけではなく、むしろことば以外にコミュニケーションの手段をもたない人間らしくどうにも不便で困っていた。いつもと同じように日は上って沈み、からだに悪いところはひとつもないものだからなおさらだ。だから治ってくれてうれしい、ほんとうに。治った理由はわからないままだけれどまあそういうこともあるだろう。わからないままでも不便はしない。「……しゃべれるのか」留三郎が、ゆっくり教科書を読み上げるみたいな、ひとつひとつの文字を丁寧に発音するみたいなことばを落とした。なんだか耳の中に入ってくる留三郎のことばが、しゃべれなかった先程とはすこしちがう気がする。ことばを発せないということはことばを受け取る器官にも影響を与えるのだろうか。「そうみたい」今はわたしもうことばを読み上げるでなく、こころに文字が浮かぶとほぼ同時に声がでた。「……よかった……」振り向くと留三郎は泣いていた。彼が泣いたのも、10と6日ぶりであった。

あの日、沈黙を保つはずの保健室に大きな音とともに飛び込んできた留三郎は、任務で、とだけ言って人形が糸を切られるみたいに膝から崩れ落ちていった。わたしはそのとき丁度伊作に頼まれた薬草を山から摘んできて、乱太郎を菓子で釣り選別を手伝わせていたところだった。崩れ落ちた留三郎はその場で肩を震わせ床にいくつかしおからいみずうみをつくる。「……ぁ、」そのときからもうすでにわたしのことばはどこかへ引っ込んでしまい、姿をあらわさなくなってしまっていた。




うららかな春の日に伊作は灰となった。虫たちがそろそろと活動を始め、木々はそこここから芽吹き、からだをつつむ太陽の光はほどよくあたたかくて鬱陶しかった。太陽の光を長い時間浴びていたから背中にはじわりと汗がにじむ。目の前の伊作の炎のほうがよっぽど冷やそうだと思った。
「伊作が……伊作ほど今日の天気に似合うやつはいなかっただろうな」
「送り出しているんだろう。世界も彼を惜しんでいるんだ」
留三郎の大きな手がわたしの手を抑える。わたしはとうとう、冷い彼の炎に触れることも、最期に彼の顔を見ても名前を呼ぶことも叶わなかった。

いたって普通の出会いをして、いたって普通に恋仲になったのだと思う。そのほかのことはよく知らないし、声に出したこともなかったけれどわたしはこの生活をしあわせと呼んでいたし、伊作もそうならいいなとこころのすみっこで考えていた。わたしたたちは特別裕福でも優秀でもなかったし、伊作はよく穴に落ちていたし、怪我をすることだってしょっちゅうだった。それでもわたしはわたしが知る限り世界でいちばんのしあわせ者のような気がしていた。どこにいても何をしていても何があっても、だいじょうぶだと思っていた。幼いながらに、伊作さえいればわたしの世界はまわると知っていたのだ。
「伊作は忍術学園を卒業したらどうするの?」
「うーん、一応考えてはいるけど」
「へえ?おしえてよ」
「内緒」
「えっ、なんで?」
「うーん……」
「?」
「じゃあ、ずっと私についてきてくれるなら、いいかな」伊作は頬を真っ赤にしながら、明後日のほうをみていた。
今思えば、うまく生きるなどへたくそなひとだった。なにもかも好きだった。あたまの先からあしの先まで、きらいなところなどすこしもなかった。世界にやさしいひとだった。自分よりも誰かをたいせつにできるひとだった。だからわたしはそんな伊作のかわりに、世界でいちばんに伊作を大切にしようとこころに決めていた。果たせなかった約束はリボンのように解けて落ちた。ひとつの手ではもう結べないというのに。




控えめに戸が叩かれて、現れた顔は留三郎だった。姿勢を崩さず、首だけまわして留三郎の方をむけば、留三郎は見たこともないようなへたくそなつくり笑いで返してきた。こんな時間に部屋を抜け出すなんて、きっと真面目な留三郎は初めての経験だろう。留三郎の上からは高く上った月が少し見えた。
「大丈夫か」
「……なにが?」
「なにがって、それは」
「ねえ、わたし」わたし、わたしと約束していたはずなのに。
「伊作がいなくっても、わたしの世界は何も変わってはくれなかったよ」
わたしの世界くらい、わたしの思うように動いてほしかった。わたしも伊作とおなじときおなじように、心臓はふくらむのをやめてしまえばよかったのに。留三郎は何もことばを返さずに、きゅっと口を一の文字に結んで、塩辛い水をいくつか落としていた。わたしは泣きたかったのに泣けなかった。もともとわたしのからだには泣くなんて機能はなかったみたいに、鼻がツンと痛むこともなく、視界が歪むこともなく、わたしの世界では留三郎が小さく肩を震わせて泣いているだけだった。こんなにもおおきなひとなのに、とてもとてもちいさなものに思えて、触れてしまえば壊してしまいそうで、わたしはなにもできないままにそこに存在していた。なにもかもが上手くいかない。留三郎を傷つけてばかりで、どうにか正常に生きていくことすらできそうにない。それもどれも、ぜんぶたったひとつ、伊作がここにいてくれないことが原因だ。





伊作の墓は少し離れた丘の上に在った。何度もふたりで訪れたことのある場所だったので、初めはすこしいやだったけれど今はここでよかったように思う。前も、今までも、これからも、ここにくればいつも伊作がいる。今日もまるで春が天気そのものになったような日であった。日差しがここちよく、暑いほどだ。
「伊作、昨日ぶりだね、今日はおはぎを持ってきたよ」
生前伊作が好きだったお団子屋さんのおはぎを供える。甘いものは蟻が寄るからやめろと仙造が前に言っていたけれど、まあいいか。伊作の好きなものだもの。しゃがんで、静かに目を伏せ両手を合わせる。どんなに耳をすましても、風が木々をこする音しか聞こえない。伊作の声なんて聞こえるはずもない。それでもわたしは毎日ここへ来る。雨だろうと雪だろうとここへくる。もし山崩れが起きるのなら、ここで伊作と一緒に埋まってしまえればいいとも思っていた。ここにしか伊作はいない。ここでしか伊作には会えない。わたしはここに来るしかない、伊作と一緒でなければとうてい生きてはいけない世界であるのだ。
膝の上でぼろぼろになった文庫本を広げる。いつだったか、伊作から貰ったものだ。貰った時にはもうすでにいくつかの頁の端が折れ、あちこちに泥のような沁みがついていた。「一緒に穴におっこちてしまってね」と笑っていた伊作を思い出す。「それでも、文字はきちんと拾っておいたから」伊作が わらっていた ああ、ほんとうに、やさしい世界であった。それなのに どうして一緒に終わってしまえなかったのだろう。ふしあわせな人生だ ほんとうに たったひとりの大切な人のために生きることすら許されないのだ。伊作の墓石によりかかるとひやりとして心地が良い。うまれかわるなら石になろう、と霞がかった視界のなかでおもいついた。わたしも伊作の墓石になってしまいたい ずうっと 朽ちることなくそばにいられる。今はもう 伊作を置いて醜く老いていく身体すら悪のようであった




「頼む……頼むから どうか、生きていてくれ」
左手に滴る赤い液体は留三郎の右手を汚く染め上げていく。着物が汚れる、と言えばそんなものはどうだってよいという風に留三郎は大きくかぶりをふった。生きていてくれさえすればよい それだけでいい 呪文のように渡された言葉が傷口から体内へ入っていく様をわたしは黙って見つめていた。どれも わたしが伊作に何遍となく語りかけた言葉でだ。生きていてくれればそれだけでいい たとえそばにいられなくてもいい 伊作が 伊作がこの世界にいるならばそれだけでいい。留三郎の言葉のどれもが 放たれた呪いが相手を見失い、術者であるわたしに返ってきたようですこし滑稽であった。失敗したのだ また。
それでもきっと留三郎は知らない。わたしが盆前に乗せている薬草のこと。生前伊作からこれは他の薬草とひどく似通ってるから十二分に注意しておかなければいけないよと口をすっぱくして言われていたものだ。案の定乱太郎が他の薬草と勘違いして採ってきてしまっていた。それを注意深く選別する私の仕事、先日ようやく終わったのだ。集めてきたその薬草を丁寧に擂鉢で細かくし、のみやすいように蜂蜜と混ぜ合わせた。こうしてみると本当に薬草と変わらない。伊作が教えてくれていなければきっとわたしも分らなかっただろう。先程飲み下したこの薬草 私はきっとあと半刻ほどで伊作の元へと行くのだろう。
「留三郎」
ずっと顔を伏せていた留三郎がはっと顔を上げる。こうして名前を呼んだのはいつぶりのことだっただろうか。伊作がまだ生きていた頃 わたしたちと一緒にいた頃 私はよく暇つぶしのように彼の名前を呼んで困らせていた。忘れてしまっていたかのような響きが耳にこびりつく。「ごめんなさい」空っぽの言葉を投げかけた。伊作と私のために泣き、私を生へと縛り付ける彼は とても強く悲しい人であった。
抱きしめられた留三郎の肩の向こう側から、曼珠沙華の咲く花畑が見える。他にも、水仙、桔梗、色とりどりの花々が地面を埋めている。留三郎にばれてしまわないように、私は頭を留三郎の肩に預けた。あなたの温度は きっとこれからもたくさんの人を救うのだろう。最期の時を楽しむように、私は留三郎をつよく抱きしめた。明日でもう四月になる。春が終わってしまうその前にどうか、私は伊作の元へと行かなければいけない。留三郎はやさしい温度を持っている。春の日差しのように押し付けるでもなく じわりしみてくるようなやさしい温度だ。心地いい、と感じた私は素直に目を閉じた。私は、私の望んだ春の中で死んでいける。

「……春だね」
「ああ、春だ」

きっとあの伊作を包んだ炎もこのような温度だったのだろう。明日から四の月になる やさしいひだまりの落ちる日のことであった。


title by エナメル


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