よばれないモーニングコーヒー | ナノ



夜と朝しか知らないわたしたちだった。ワンルームの狭いわたしの部屋はさながら誰にも言えない秘密で満たされているようなもので、その秘密の鍵を持っているのは彼だけだった。大きな錠前のような鍵を皮ひもに通して首から下げて 笑顔ともよべないような顔で笑っていた。
もともと名前もつけられない関係だったのだ。だからわたしは彼のことをなんて呼べばいいのかわからずに、いつのまにか ねえ、とか、あのさ、とか そんな風にしか呼べなくなってしまっていた。今となっては、もっとちゃんと名前を呼べばよかったとか かたちだけはそういう風に、ニックネームで呼んだりとかすればよかった。大人げないのはわたしだった。つらいというのも 十分すぎるほどにわかっていた。ずるい と そう言われても仕方がない。だって手離せなかった。
「彼氏さん、もうすぐ来るんじゃないですか?」
「……ううん 今日は残業だって言ってたから」
この部屋に及川くんのものはなにひとつとしてない。だってそういう風にしてきたわたしたちだ。それでもたったひとつ、このマグカップだけは及川くんのものとして彼が置いて行ったものだ。これに コーヒーをいれて おさとうふたつ。いつも ベランダから見える 誰のためのものかわからないような朝日を見ながら飲んでいた。そんな朝がもう何回あっただろう。ちらばった洋服もそのままに キャミソールとパンツでいたら叱られた。みっともないですよ 後輩の前でしょ。そうか もう及川くんはわたしのそういう風なひとじゃないのだ。おとなしく洋服を拾う。


「これ 返すね」
テーブルに音もなく置かれたのはわたしの部屋の合鍵だった。ふたつしかない鍵をわたしはじぶんと そして彼氏ではなく及川くんに渡していた。ふたりで行った旅行先で買ったキーホルダーと 鈴がひとつ ついている。失くさないようにねって それもわたしがあげたものだ。及川くんからは歩くたびにちりんと鈴の音がしていた。猫みたいだねって言えば笑った。
「彼氏さんに渡すんでしょ。結婚 するんだから」
文字はそのままわたしの中に入ってくる。結婚 するのかあ。大学生のころから付き合っていた彼氏に結婚しようとプロポーズされたのはつい1ヶ月ほど前のことだった。高校生のときから一緒にいた及川くんにそのことを伝えると そっか、よかったね と言って笑った。及川くんはいつも笑っていた。
「今まで ありがとうございました」
なんでそんな風に笑うの。いつも いつも 喧嘩をしたときも わたしがわがまま言ったときも 覚えているのは及川くんの笑った顔だけだ。


「……ごめんなさい」
「なんで謝るの。怒ってなんかないのに わかるでしょ」
「ごめ、なさい、ごめ、ごめん」
「だから なんで泣くんですか。おかしなひとだね」
「お 及川くん 本当に、……わたし、ほんとうに」
「うん だいじょうぶ」
ちりん、及川くんが笑う
「俺も、ずっとおんなじ気もちだったよ」


ぐすん、と鼻をすすると やっぱり子どもっぽいよねと言われた。だって悲しいんだもん さみしいんだもん、すねるようにそういうと これで何もかも終わっちゃうわけじゃないのに、つらいなんてうそばっかりと笑われた。
「うそじゃないよ」
「うそにしなきゃだめでしょ これからお嫁さんになるひとが」
「……及川くんは?」
「俺?そりゃあ……」
さみしいし 悲しいです、もちろん。何も終わらないとしても。
及川くん今日はおさとう みっつに増やしたのかもしれない。角がほどよくとれて まるい さみしくてやさしい言葉だった。
おめでとうございます 俺の世界でいちばん大切なひと。高校生のときみたいな顔で笑って 及川くんはぎゅっとわたしの両手をとる。あのころから なにもかも変わってしまったような気がしているのに、いつもわたしを苦しめるのはあのころからなにひとつとして変わっていないものだ。
「ねえ 鈴 鈴はつけたままでもいい?」
「わーあ 最低なお嫁さんだなあ」
「ちがうよ だって私にとっても大切なひとのものだから、そりゃあたからものになるでしょ」
わたしが こっちの鍵をつかうの。及川くんの使ってたほう。ことばのうしろのすこしの沈黙がゆげにあたためられたあと、及川くんは笑う。じゃあさ、
「ちりんて鈴が鳴るたびに 先輩が笑顔になれればいーな」


マグカップ。これもつかってていいかな。なんとなく持っていたいの。わたしの世界でいちばんやさしいひとがいた証。わたしが ほんのすこしでも、そのひとと生きていた証。またあそびにきてくれる?だって及川くんは いつまでもわたしのかわいい後輩なんでしょう?そしたら今度はもっとおいしいコーヒーを出すよ ベージュのねこのマグカップ。ねえ 大切にしておくから。



thanks a lot!
壁際のうそつき さま



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