幸せはとても不味かった





彼女は決して泣かなかった。それ程長い付き合いでは無いが、二年三年、付き合ってきた。その付き合いの中で彼女は拙者だけではなくルパンや次元にすら泣き顔を見せなかった。強い女子だ。近頃は女子だけに限らず軟弱な若者が増えている故、彼女を見ると感心してしまう。何時も凛々しく弱い所を見せない彼女は、皆に愛でられていた。あの不二子も彼女を気に入っていたのだ。彼女は気立ても良い、当然だろう。ルパンに抱きかかえられているのを茶を啜りながら眺めた覚えがある。

…昔の記憶に思いを馳せている内に、目的の場所についた。三度笠を僅かばかりあげて見ると、かつて修行に励んだ道場が眼前に聳えている。今は寂れて誰も本来の目的で使ってはいない。先代から譲り受けたこの古めかしい建物は、拙者の所有物となっている。一度大きく息を吐いた後、重々しい戸を開いた。
拙者が戸を開く音を聞き付け、奥から四十代程の着物の女性が姿を現した。現在、拙者がこの道場の管理を依頼している方だ。女性は恭しく拙者に頭を垂れ、「奥方はお静かになさっていますよ」と口にした。そうか、と短く返事を残し、草鞋を脱いだ。本来の目的地は此処では無いのだ。


寒気がする程静まり返った道場内で、拙者の袴が擦れる音だけが響く。枯れ木が見える縁側を程歩くと、庭の片隅に離れが見える。所有権が拙者の手に渡って直ぐ、拙者が作らせたものだ。道場と見合う様、立派に仕立ててある。
久しく見るそれを懐かしく感じながら、離れへの敷き石をひとつ、またひとつと踏んだ。真っ白な粒が敷いてあるのは至極風流だと思う。

離れの前に着く。三度笠を脱いで、戸の側に立てかけた。ここへ来ることは事前に知らせておいた、先程の女性が鍵は開けているだろう。ぐ、と横に引くと、戸は嫌な音を立てて開いた。その隙間から入る光に照らされる、小さな人影ひとつ。

「小雪」
「…五ェ門?」

壁に凭れていた彼女は、光に反応して微かに目を開いた。拙者に気付くと何度か瞬きをした。
何時だったか拙者が買い与えた極彩色の着物は、彼女によく似合っていた。ただ薄汚れてしまっていて、本来の美しさが失われている。其れを身に纏っていても彼女が美しいと感じるのは、只の拙者の盲目なのかも知れない。
お互いを照らす光が無くならない様に、戸は開いたままにしておいた。彼女が四つん這いで此方に近付いてくるものだから、拙者は少しばかり急いで彼女の側に寄った。膝をつき、彼女と視線を合わせると、彼女は弱弱しくながらも笑んだ。

「済まぬ、暫く来なかった」
「ううん…忙しかったんでしょう?」
「寂しくは無かったか、否、心細かったろう」
「…、うん」

気丈な彼女が本当にそう感じていたのかは定かでは無い。然し、肯定すれば拙者の気が済むと彼女はよく知っていた。微笑んで頷く彼女を見て、自分の不甲斐無さに虫酸が走った。
彼女の顔は以前会った時より若干こけていた。体も細くなっている。今ルパンがあの時の様に彼女を抱えれば、あまりの変わり様に言葉を失うかも知れない。拙者とて、そうだ。だが、彼女をこうしたのは、紛れも無く拙者なのだ。

「五ェ門?」
「…む、すまん」

考え事に耽る拙者を、彼女は心配そうに覗き込んだ。その黒く輝く眼に映る拙者は、酷く澱んでいる。全ては拙者の修行不足故。
然し、何処か満足している自分がいるのは否めない。この瞬間、それだけではない、彼女が此処にいる間、彼女は拙者だけを想い待つ。この離れへのたった一人の訪問者である、拙者をだ。ルパンでも次元でも無く。この拙者の醜い独占欲が、彼女の環境及び肉体をこうも変えてしまった。
拙者とて、好きでこうしている訳では無い。こうしなければどうしようもない衝動が、そう、彼女に近寄る全てを切り捨ててしまうのだ。全て拙者の不徳の致すところ。未熟なのだ。彼女は拙者の心境を見透かすかの様に、何時も同じことを言う。嗚呼、今のこの様に、頬に手を当て、互いの額を合わせて。

「私にはね、五ェ門だけだよ」

この言葉に、拙者が何度救われているだろうか。その小さい体を抱きしめると、細い腕が背中に回ったのを感じた。
彼女は決して泣かなかった。強く、凛々しく、美しい。抱きしめられているのは、恐らく拙者なのであろう。



幸せはとても不味かった







20110107




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