とある部屋で、大きな決断が待っていた。柔らかそうなソファーに机を挟んで向かい合い腰を掛けている二人。照明が日光の代わりに視野を広げていた。
「あたし、一人で暮らすね」
少女は幼さが残る容姿に人形のような、感情のない表情を張り付けて、小さく言葉を漏らした。放たれた先にいる人物は困ったように眉を下げている。悲しそうな、仕方なさそうな、そんな表情で。
ほんの少し重くなっただろう空気を気にも留めずに、少女は茶色く、眠たそうな目を何度か瞬かせる。にこりともしない少女はどこを見つめるわけでもなく、けれども確かに真っ直ぐに射ぬいている。
どれだけの時間がたったのか、何時間、いや何秒、わからない。先に折れたのは少女の先にいる人物、寂しそうに微笑む男は薄い唇からその微笑みに違わない、甘さを含んだ低い声を溢す。
「…本当に、一人暮らしをするのかい?」
「もう、決めたの」
細く、儚げなソプラノ。だけどもどこか芯を纏っていて、どこまでも届くような不思議な声。耳に馴染んだ、幼い声。
男は込み上げてくるものを押さえ込んで、微笑みを崩さない。完璧に完成された笑みは見るものを安心させる。対照的な少女はにこりとも笑わない。
男は、僅かに目を伏せて少女の言葉を受け入れる。
「…わかった、…マサラタウンにいい家があるから…そこに住むといい」
「…ん、ありがとう」
話が終わるや否や、早々と立ち上がった少女はお礼だけ言うと男に背中を向けて部屋から出ていこうと足を踏み出す。それを止めることなく、男は少女を見送る。
かちゃり、とドアノブが音をたて、少女が正に部屋を出ていこうとした時、少女は今正に思い出したと言わんばかりに男の方に振り返った。
「おやすみ、院長さん」
ぱちり、院長と呼ばれた男が目を瞬かせている間に少女はまた背中を向けて今度こそ部屋から出ていってしまった。あんなところだけはやけに子ども染みていた。
少女が部屋から出ていった直後から数分間、男はソファーに縫い付けられたのではないかと思うほどにぴくりとも動かず、笑顔も固まっていた。それでも、無理やり時間を動かしたように唇を震わせた男は今ごろになって返事を放つ。
「…あぁ、おやすみ。 …夢依」
きっとこの言葉を言えるのももう最後なのだろうと思うと、男は言い様のない切なさに襲われた。
そしてようやく立ち上がった男も、部屋の照明を消してそこから立ち去った。残ったのは僅かな温もりだけだった。
はじまりの過去
(少女はからっぽになっていた)