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ざあざあと森のざわめきが一際よく聞こえる。夜は静かだった。耳を澄まさずとも、その音は耳に入って脳に渡る。それがどうにも煩わしく、眠気を奪っていく。
狭いベッドで寝返りを打つと、そこにはあどけない寝顔の子ども。……名前は、夢依。こうして見ていると、ただの子どもなのに。何の力もなさそうで、重い過去なんてこれっぽちもなさそうな。唯一目を引くのは、溶けるような藍色の髪の毛だけ。

それなのに、ワケアリというのだから。


『孤児院、か』


意識するわけでもなく零れた言葉に自分で驚く。起きてしまわないかと少し焦って息を潜めるも、起きる気配もなく、一息。
さて、この辺りで孤児院なんて施設は一つしか知らない。ここに来る途中にも少し見えた。そしてあれにも聞いたことがある。孤児院、ラティルト。多分、あそこの出身。あそこの詳しいことは知らないけれど、人柄のいい穏やかな院長がいると聞いた。そして孤児院には用心棒もいるだとか。知っているのはそれだけだが。

じっと、夢依を穴が開くぐらい見つめてもなにもわからない。知っていることなんてほとんどない。意志の疎通が簡単にできることぐらいしか。いや、本当は意志の疎通なんてできていないのかもしれない。これまで一緒に暮らしてきてはいるものの、この子のことを知れたことなんてほとんどない。何を考えているのか、何を想っているのか。

少し、やるせなくなると同時に空しくなった。


「……ん、」

『!』


僅かに上がった声に息を殺す。夢依は身じろぐと、俺の方に擦り寄ってきてまた大人しくなった。近くなった息遣いに、ようやくこの子が存在しているという認識がはっきりできたのだからおかしな話だ。どうにも、たまにふらっと消えてしまうのではないかと目を離せなくなることがある。夜に溶けるような深い藍色は、幻影のようだ。

おもむろに前足で髪の毛を撫でてみると、柔らかくて。少しの間撫でていると、自分の目的を思いため息が出た。この子どもを、連れていくのか。なにも知らない、真っ白で純粋無垢な、この子どもを。

命令に逆らうわけにはいかない、けど。


『……夢依』


滑り落ちるようにその名前を呼んで、言葉が詰まって。のしかかる何かに潰されそうで、気配を殺して傍を離れた。少し、外の風に当たろう。


適当に開いていた窓から外に出て、冷えた風に当たる。森を揺さぶる風は悪戯に葉を少しずつ散らしていく。すっかり目も覚めてしまった。


『……随分と傷心しているご様子で』

『!……お前』

『ふふ、どうですか?進歩の程は』


音もなく現れたのは微笑を携えたサーナイト、真音だった。
よりにもよって、と悪態をつきたくなったがそれをぐっと堪える。コイツはしとやかな振る舞いで、まぁ控えめな綺麗さは確かなものの、時折手の上で遊ばれているような気になる。一緒にいてあまり心地いいとは言えない。

ふいっと視線をそらすと、何も気にしていないのか真音は話を進める。


『ここの子はどうでした?』

『……ただの子どもだったよ。アイツが目をつけるような人材だとは思えないな』

『あら、幻利様の目は節穴だとでも?』

『……』


さて、ここから間違った発言をすると面倒なことになるので黙殺することにして。ただの子ども、というと嘘になる。最初に出会った時の、あの目。纏う雰囲気は。


『……強いて言うなら、似ていたよ』

『似ていた?』

『アイツに、雰囲気が』

『……そう、ですか。それは是非ともお会いしたいことです』


少し興味が沸いたのかはわからないが真音が後ろの家を見るのがわかった。ぶわりと俺と真音の間を風がすり抜けていく。そして、風に吹かれながら真音はちらりと俺を見下ろす。自然と、目線は真音の方に上がった。


『さて、貴方はこれからどうなさるおつもりですか?』

『……命令通りに、するさ』

『あら、そうですか』

『……何が言いたい』


睨んでも、軽くかわすように微笑みを絶やさない真音に苛立ちが募る。これだ、こういうところが。俺は。

ひゅっと風が一際強く吹く。刺さるように、刃物のように。この空間は刃物で覆われている。見下ろす真音が、振り下ろす。


『いいえ。ただ、そのように迷われているような方には幼子さえついてきてくれませんことよ?』

『っ……誰が、迷っているだって?』

『わからない程呆けてしまわれたのですか、何かまた薬でも打ち込まれたので?』


くすりと嘲笑った真音に、ざわりと毛が逆立つのがはっきりと感じ取れた。知っているからこそ、言ってのける。じくじくと傷口が疼いた。
だけど、今ここで攻撃するわけにはいかなかった。起こすわけにはいかない。
大きく息を吐いて、じとりと睨むことしか、できなかった。あぁそうだ、これは俺のためだ。


『……命令通りに動くさ、俺は。迷ってなんか、ない』


言い切ると、真音はつまらなさそうにため息を吐いた。真水のように冷え切った目が、呆れの色を含ませていた。だがそれはすぐに消え、代わりにスッと目が細められる。


『貴方は諦めが良すぎるのですよ。幻利様は、恐らく初めから……』


そこまで言いかけて、真音は口を閉ざした。妙に優しさを含んだ目には、恐らく主人の姿でも思い描いているのだろうか。
ひゅうひゅうと風が吹き通る中、真音の周囲だけ風が止まっているようにさえ見えた。

そして、にこりといつもの品のいい笑みを浮かべた真音は、言いたいことは済んだのかふわりと浮き上がる。


『……あとはご自分でお考えになって』


最後に、それだけを残して真音は瞬く間に消えてしまった。相変わらず、と言うしかない。
様子を見に来た体を装っているが、あれは恐らく塩を送りに来たようなものだろう。本当に、なんというか。

もう外に出ていても仕方がないため、中に入ろう。
出て行った窓からまた中に入ると、そこには夢依が、起きていて。


『……夢依』

「……ブラッキー、どこ、いたの?」

『少し、外に……』

「……外は寒いよ。それに、ブラッキーのいないベッドも寒いよ」


寒い、ともう一度呟いた夢依は俺をじっと見つめる。茶色の眠たげな目が俺のことを見透かすように、月明かりに照らされた。その目は、やはりあれに似ていた。
止めていた足を夢依の方に進めると、夢依の雰囲気が少し柔らかくなったように感じた。

そして、夢依の隣にまた戻ると、俺を抱きしめてまた横になった。何回か瞬きした後にすぐに眠りについてしまったけれど。
あどけない寝顔を見ていると、ふと真音から投げられた言葉を思い出した。


───ただ、そのように迷われているような方には幼子さえついてきてくれませんことよ?


サーナイトなんて種族は、本当に厄介だ。弟の方がいたらもっと厄介なことになっていただろう。真音だけだったのが不幸中の幸いだ。

誰が、迷っているだって。と、さっきはそう返したけれども。実際のところはというと。

あぁ、迷っているさ。けれども、俺の選択肢なんて最初からなかっただろう。何を、言うのか。わかりたくもない。塩なんて、俺にはいらないのに。

やるせない気持ちが膨らんで、夢依にすり寄ると、無意識なのかすり返してくる。

それがまた、無性に胸が締め付けられて、振り払うように目を閉じた。




(何を諦めているって言うんだ)


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