先生は姉弟子が帰ると知らなかったのか驚いていたようだった。修練場に来たのだと伝えると先生は「お主、またいたずらしおったな」と姉弟子へ疑念の目を向けていた。この戯れに関して先生から一言伝えたのだと聞かされていたこともあり、ここは○○さんの肩を持とうと思うも「ふふ。獪岳くん大きくなったよね。鍛錬の成果が出てる」なんて、なんとも嬉しそうな笑みを浮かべているのだ。むずがゆい気持ちを抑えつけ、そそくさと台所に逃げ込むようにして食事の準備を進めていった。

 思い返せば鍛錬を続けて一年が過ぎ、己の身体が次第に出来上がっていくことを感じていた。刀を握らせてもらえた頃には既に筋肉と呼べるほどの作りが完成され、自分が思っていたよりも体術・剣術に優れているのだと自覚した。
 これは先生の教えのおかげもあるだろうが、栄養のある食事を中心に摂っていたこともあっての肉体だと思う。姉弟子へ一度は感謝の手紙でもと思いたったこともあるが、俺は手紙の書き方を知らない。手紙の書き方はおろか文字さえも知っているのは金の勘定に必要な意味合いを持つ言葉と日常で使われる言葉程度だった。だから、まともに礼さえ出来ていないことになる。特に気にされていないのか、何も言われることなく時間が過ぎていった。正直なところ、細かいことを気にするような性分ではないというのは俺にとっても好都合であった。なにせ、重要視するべきことは他にあったからだ。

 雷の呼吸の使い手は腕と下半身の筋肉量が他の呼吸の使い手よりも多いと聞いていた。他、風や岩にあたる呼吸の使い手も同様に筋肉量に物を言わせた技を出せるのだと。それが全てではないにしても、少なくとも雷の呼吸は踏み込みや素早さを駆使させることに重きを置いているのだと判断していた。
 そうなると、俺が壱の型が出来ない理由は一体なんなのだ。居合いはもちろんのこと、踏み込みも自分としては問題無い。なにが原因なのだろうか。そればかり考え巡らせたところで、出来ない事実は変えられない。姉弟子に教えを乞うということも出来ず、先生に至っては他の技を最上へと磨けと言うのだ。次第に苛立ちが溜まる一方で○○さんはしっかり見ているのかいないのかわからないが『よく出来ている』と評価するのだ。悩みあぐねたところで、苛立ったところで――いや、仕方がないなど思いたくもない。俺は、壱の型を習得しなければいけない立場であるのだから。





 食事の準備を進めている頃、背後に視線を感じた。これは姉弟子だ。気配を隠すつもりもないのだろう、ぱたぱたと足音を立てては台所に立つ俺の背後から隣へと立って手元を覗き込んできた。変に緊張感を持たないようなるべく気にしないでいるものの、未だ○○さんは俺の手元をじいっと見ていた。

 「……○○、さん」
 「うん?」
 「すいません。まだ、出来ないのですが」

 まさか腹を空かせているわけではないだろうと思いながら声をかければ、なにが面白いのかくすくすと笑っていた。ちらと横目で見遣れば、台所にある廃棄塵や使い終わった用具を片付けていた。

 「知ってるよ。ただ、料理の腕前が上がったのだとおじいちゃんから聞いてね。
 気になったから見に来たよ」

 腕前と言われても。そう言われてしまえば嫌とは言えず、短い返事をして支度を続ける。黙って様子を見ている姉弟子はふんふんと頷きながらも「手際もよくなってる。すごい」やら「美味しそう。たのしみ〜」なんて言っていた。おい、こういうのって普通は逆じゃあないのか。馬鹿な考えが過るも、そろそろ出来上がる頃合いだ。

 「○○さん、そろそろ出来ますので。あちらで待っていてください」

 そう言って顔を見てみれば、やはり笑みを浮かべているままだ。最初の頃のどこか冷たく無愛想な印象とすっかり変わった姉弟子の俺に見せる表情は、口許を緩ませにこにこと笑っているようなくだけた表情が多いように思えた。これは彼女にとって無意識のものなのか、ただ気を遣われているのだけなのだろうか。都合よく捉えるとするなら前者ではあるが。

 「んふふ。ありがとう」

 俺の言葉に納得したのか隣から離れたと思えば、○○さんは俺の頭をぽんと撫でていった。頭を。
 背後からまたもぱたぱたと台所から離れていく間抜けた足音の後、静かに閉められる戸の音と同時に手に持っていた菜箸をぱちりとまな板へ置いて、目の前でぐつぐつと煮える鍋から一旦離れた。

 「……、はぁ」

 火元にいるのだから当たり前だと思いたいと、そう思える程に顔が熱い。おい、いい加減に慣れる頃だろう。なあ。





 「そういえばおじいちゃん。
 今日と明日、泊ってもいいかな?」

 は? そう声を漏らしたのは俺か先生だったか。いや、先生はそういった言葉遣いはしない。だとすると俺だろう。先生も目を丸くさせて姉弟子を見ていた。突拍子もなく告げられた内容は、この一年で一度さえなかった姉弟子が先生の屋敷へ泊まるといったものだった。

 「なんだ、珍しいな」
 「ご迷惑でなければ」
 「いや、ただ珍しいと思っただけじゃ。なにか理由があるのか?」

 姉弟子が言うには数日後には長期任務が入っているのだという。上の者からそれまでの休暇を告げられ、束の間の休息をここで取りたいのだということ。い摘んで説明が成されているあいだ箸を止めて聞いていた俺と視線が交わる。

 「それに、明日はみっちり稽古づけると約束したからね。獪岳くん」

 稽古づけられるのは何度かあったが頻繁ではなかった。修行を見てやるのと稽古をつけるのとでは違うわけだ。ただ、一年経った成果として披露出来る呼吸は壱の型以外になる。その事実を思い出してしまえば、ずんと心臓を重たくさせた。
 それに「はい」と、ひとつ頷いてみればうんうんと嬉しそうに頷き返したのだ。こういったやり取りをすればするほど、先生は俺と姉弟子を交互に見ては表情を綻ばすことが多くなった気がする。その目はどこか、なんというか。形容しがたい、むずがゆいものであった。

 「そうかそうか。なら、お主に任せよう。
 ……それと明日じゃが、ひとつ買い出しを頼んでもいいか?」

 今度は姉弟子が目を丸くしていた。いかにも珍しいといった様子で「え?」と、どこか抜けたような声色で返す姉弟子。買い出し自体は珍しいことでもないが、確か日用品や食材はつい先日に買い貯めておいてあったように思えるが。

 それから先生の話を聞いていくと、備蓄していた食材や荒々しい雷の呼吸故に消耗品になりやすいという修行で使用するあらゆる部品、その不足分の調達を任せたいのだという。備蓄分も補充したはずだったが、俺の思い違いか? 俺自身も昔に姉弟子がそうしたように街に行き買い出しに向かうこともあったが、姉弟子とふたりで向かうのは初めてのことだった――いやまさか先生。いや、いや。違うだろう。

 頭を過った考えを振り払うように小さく咳払いをし、話を聞いていた姉弟子の様子を確認しようと見遣れば自然と視線が交わった。俺の方へ視線を向けた拍子と合ったように思える。なんとなく、気恥ずかしさを覚えてしまう。

 「ええと、獪岳くん。稽古はその後になるけどいいかな?
 もちろん明後日もするつもりだけれど」

 姉弟子はすこし眉を下げ幼い子に諭すように俺に言った。俺が稽古をつけてもらうことを望んでいると思っているのだろう。それは、その通りだ。既に先生から教えられることはもうないのだと説明され、数か月は経っていた。他に助言を貰えるのだとすれば姉弟子や兄弟子といったいわゆる先輩方に乞う他ない。
 育手である先生やその他の育手も同じように、ある程度の修行方法や日常的にすべきである鍛錬その他呼吸法の一通りを身に着けさせたら、その後は隊士候補の潜在能力次第になるのだという。壱の型の習得を未だとする俺は、他は練度を極限までに磨くつもりで修行に取り掛かるも、今更先生に壱の型の習得に関する教えを乞うことなど恥だと思われることを考えれば出来ないのは、きっと当たり前のことだ。

 まあ、○○さんは雷の呼吸の使い手でない時点で教えを乞うには至らないわけだが。それでも俺が稽古を望むのは、やはり見てもらいたいからだ。成長した姿と、それを評価してもらい、そして姉弟子の考える俺という人物を立派な隊士候補なのだと思わせたいわけだ。

 「はい。お願いします」





 机に並ぶ惣菜が尽きる頃。存外食べる方であると最近になってわかった姉弟子の胃袋も満足したのか、○○さんは箸を置いては一呼吸吐いて休憩していた。
 惣菜をひとつを食べれば「これ美味しい」「さすがは獪岳くんだ」などと、やはり俺を褒めるのだ。ただ褒められる分には俺だって慣れた頃合いである。そう思っている。冷静を装って返事をしているまでだが。

 土産として持ってこられたキャラメルを、晩飯の後だろうと前だろうと甘いものだから食べられるのだと豪語する○○さんは、宣言した通りにキャラメルを一粒口に放ってはむぐむぐと口を動かしていた。
 気づけば、○○さんの顔ばかり見ている気がしてならない。自制しているつもりだがどうにも視線がいく。その理由は今は考えないことにしたいが別の意味で考える隙を与えないようにこうして目が合ってしまう。

 「食べる?」
 「……いえ、また後でいただきます」

 先生はとっくに腹を満たして開け放たれた戸の向こうの縁側で夜風を浴びていた。なんだか、気を遣われているのだろうと肌にひしひしと感じている。
 だってそうだろう、先生。俺が飯を食った後に早々に外へ走り込みついでに掃除をしに行く間、先生は居間に座って休むのが日課だ。その後、俺は湯浴みを終えればすぐに寝床へつくのだから、こうして居間に居座るのは初めてのことだ。姉弟子との時間を大事にしてほしいのだと、その背で語っているようにも見えた。

 ○○さんは変わらず俺を見ていた。なぜそんなに見る? 思えば今日ここに来てからというものの、○○さんは随分と機嫌がよさそうに見えた。久々の休暇が嬉しいのだと先の会話でも伝わってはいたが、そればかりではない気がした――というか、未だに見られている。駄目だ、気になって仕方がない。誤魔化しついでに茶ばかり飲んでいても喉の渇きは満たされない。

 「○○さん」
 「うん?」
 「なにか、……あ〜……」
 「ん?」

 だからといってどう聞けばいい? 俺を見ているよなと指摘するのか? 勘違いにも程があると思われては――いや、勘違いではないのだろうが。
 言葉を詰まらせる俺に対し、不思議そうにしている。不思議に思いたいのはこちらだ。

 「……見られているような気がしまして」
 「ああ、それは見てるからね」
 「は、」
 「うん。見ればみるほどに美男だなぁと思って」

 意を決して伝えれば平然と返されるその言葉に、ぶわりと頬に熱が集まる。次には縁側から聞こえるごふごふと咳込む声に驚き、危うく湯呑を倒しかける始末だ。先生は俺たちに背は向けているものの、互いの会話は聞こえる距離だろう。だというのに、この姉弟子!

 「び、びな、」
 「あれ。美丈夫の方が正しいのかな?
 ねぇ、おじいちゃん」

 おい、先生にそのような話を振るな! 美丈夫だか美男だかそういった定義の問題じゃあねぇ!
 そう言いたい思いを堪えているものの、そろそろ反射的な反応は制御できないもので「おい、」と声が洩れ出てしまった。姉弟子は気にする様子もなく「違った?」なんて、当人に聞くな。先生の方へ恐る恐ると視線を向ければ、首だけこちらを向かせて噎せた喉を潤すように茶を一口飲み、こほんと咳払いをしていた。

 「いや、まあ、どちらでも合っているとは思うがの……」
 「でしょう?」
 「……、」
 「それに、顔が良いということは大事だよ、獪岳くん。
 外面が良ければ大抵の人にとっては第一印象が良くなるからね。うんうん、安心だ」

 何に対して納得して安心したのかはわからないが、誇らしげにうんうんと頷く姉弟子ただひとりだけが嬉しそうに笑っていた。気まずいというよりは姉弟子に対し「此奴……」といった呆れた視線を向ける先生。俺はというと自覚してしまうほどに顔が熱くなっていた。おそらく顔が熟れた果実よりも赤く染まっているだろう。くそ、本当にこの姉弟子は、なんだってそんなことを平然と言える? こういった熱を冷ますには時間と一人になれる場所が必要なのだと、この姉弟子と出会ってから散々に思い知った。

 先生は爺とはいえど男だが同じ男としてというよりも師である先生を前にすれば気恥ずかしさが勝り、顔を伏せてしまう。
 そして○○さんは上機嫌な様子で机に肘をつき、どこか楽しんでいるとさえ思える笑みをそのままに、追い打ちをかけるようにして言うのだ。

 「んふふ。獪岳くん、見ていて飽きない」

 おそらく頬の熱はもう発散できないだろう。たぶんここを離れるか寝る直前になるまでは、落ち着くことはない。俺はこんなにも他人に振り回される人間だっただろうか。気付けば、見兼ねたのか先生は立ち上がって縁側から居間へと移動してきては「ごほん。そのくらいにしておきなさい○○」と諭していた。言ってやってくれ、先生。





 先生に注意ひとつ言われた程度でどうにかなるものではなかった。あれから俺を褒めちぎるほどの言葉は控え気味ではあるものの、なにかと会話を交わせば人好きする笑顔で俺を見るのだ。先生にはとうに知られているという問題はこの際どうでもいい。ただ、○○さんからすると、俺のこの茹った頬の赤みをどう捉えているんだ? もしかしたら誑かされているのかと思うが、そういった性分ではないように思える。

 先生は姉弟子が帰った後や姉弟子の手紙に目を通すたびにぼやくようにして「○○がのう、そういう年頃なんじゃのう、」と、深くふかく溜息を漏らしながら言っていたのが気になった。
 まさかとは思うが、俺への態度から恋沙汰のように捉えているのか? 正直なところそれが本当なのだとしたら、それでいい。それがいいのだが。だが、そういうわけでもなさそうなのが腹立たしい。

 そもそも○○さんのこれは俺を弟弟子として可愛がるといった、そういう態度に近いものなのだろうと思っている。まさか年頃にもなって恋沙汰のそれがわからないだとか幼稚な理由ではないのだと、そう思いたいが。先生の反応を見る限りでは、俺に対しての態度そのものが恋沙汰のそれに思えるのだろう。
 やはり気を遣われているのは確かなようで、ようやく日課の通りに居間に腰をかけていた先生ではあるが別室やら外やらを行ったり来たりとしている。

 落ち着きがない先生を気にも留めていないのか、未だ席を立つ様子がない姉弟子は「明日、買い出しの時にがんばっている獪岳くんになにか褒美をあげたい。なにがいい?」やら「明日は私が献立を考えよう。獪岳くんはなにが食べたい?」やら「疲れてない? 明日はゆっくり出ようね、獪岳くん」などと、口を開けば獪岳くん、獪岳くん、と。俺の名がそんなに好きか?
 誑かされていると感じたのは一度や二度ではない。いつも声をかけ会話を始めるのが彼女からということもあり、俺はそれに返事をしているような状態だ。飽きずに返答を繰り返している俺も俺だが。

 とにかく、この現状を打破するためにも俺からひとつ動いてから判断してもいいだろう。多少の無礼は気にならないのか修行や稽古中以外では注意らしい注意を受けたことがなかった。それならば先ずは、その明らかに子ども扱いをしていますといった『くん』付けをやめていただくところからだ。

 「獪岳、でいいです。くんと呼ばれる年ではないので」

 それらしい理由をつけて提案すればぽかんと口をちいさく開かせている。小さい唇だ。

 「そうなの? いくつぐらいになるんだっけ」
 「十五あたりです」

 生まれ年はおろか月日も忘れてしまった。忘れるというよりは覚えていないわけだが。年を取るということを重要視していなかったこともあり、先生に問われた際にも恐らくこのぐらいだろうといった予想から年齢を答えたのだ。たしか、姉弟子は二つか三つ年上だと聞いていたが、十五となればまさかくん付けで男を呼ぶなんてことはなかなかに無いことだろうと、理解してくれるだろうか。

 「十五になるんだ? なんだか大人びてるから、そのくらいの年に見えないなぁ。
 ふふ。獪岳は、いい男になるね」
 「……〜〜ッ、」 
 
 どうしたって平然と言うのだ、この姉弟子! 一矢報いるどころか矢を受けてしまった状況はなにひとつとして先程と変わっていない。それに、自分から願った呼び捨てされる名は思ったよりも胸に響いた。

 目を細め未だ微笑む姿に口をぎゅっと噤んだ。くそ、悔しいにも程がある。一枚はおろか何枚だって上手にさえ思える○○さんの返しに遂に耐え切れずに立ち上がった。下手な言い訳である「厠に、」という一言を残して居間を後にする俺に「いってらっしゃ〜い」と声をかける○○さん。くっそ、なにもわかっちゃいねぇなあの人は!

 「これ、○○!」
 「んえ?」

 見ていられなかったのであろう先生の止めが入っていた。背後から聞こえる声から逃げるようにして冷たい夜風を求め外へと出た。

 十五とは言えど俺だって男だというのにこうも翻弄されては情けない。呼吸などの修行以外については特に口出しをしない先生も流石にこればかりは俺の事を情けなく思ったか? いや、それにしては最後にちらと見えた先生の頬も心なしか赤みを帯びていたような気がした。

 なにはともあれ、俺よりも姉弟子のあの人誑しの気がある性分が問題だ。先生も予想だにしていなかったことなのか、姉弟子の様子に俺と顔を見合わせて動揺することも少なくなかった。
 先生曰く○○さんは『娘』のような存在なのだと言った。深入りこそしなかったし先生も細かい事情は言わなかったが、姉弟子と出会って一年弱は先生との会話では必ずと言っていい程に姉弟子の話題が出ていた。あれから赤面し撃沈する様子や悔やむ思いを鍛錬に打ち込むを繰り返す俺を見ていくうちに、先生は姉弟子の話をするようになったようだ。

 その先生の表情はどこか嬉しそうにも思えたが、不安気にも見えた。それはそうだろう。『娘』とも言える存在が俺のような世間で言う悪者に――まあ、先生に知られてこそいないが、ただでさえどこの馬の骨だかわからない男を好いているような素振りを見せているのなら、とてもじゃあないが複雑であるのだろう。ただ「お主は、姉弟子にたしかに気に入られているぞ。良きことじゃ」と、しっかりと自覚させられてきたのだ。そんなことは俺がよくわかってる。





 外の空気を吸いながら考えるのはやはり姉弟子のことだ。こうも心を乱されるとなると、修行に身が入らなかったらどうしてくれるとも思うが、まあ俺に限ってそれはない。
 そして厠と言った手前、外に長居するわけにもいかず足音をなるべく立てないように縁側の近くに寄ってみれば、二人の会話が聞こえてきた。

 「随分と甘やかしているのう」

 その言葉にぎくりと身体が固まり、心臓が波打った。さほど棘のある言葉には思えなかったが、まるでよくないことなのだと言い聞かされた気分だ。俺の立場では甘やかされる事は決してあってはいけないはずなのだから。
 ただ、例え俺に非が無かったとしても後味が悪いというか都合が悪いというか、まずいと思った。なにがまずいのか、なんてことはいい。それよりも○○さんが先生の言葉のあとに何も言わないことが気になった。しばらく考え込んでいるようにも思える「う〜ん」と間延びした唸り声の後、ようやく話し始めた。

 「不器用なおじいちゃんに代わってるとも言えるけれど。
 これは甘やかしてるんじゃなくて、本当のことを言っているだけだよ」

 本当のことだと? 過剰にも思える褒め言葉のあれのすべてが本当のことだというのか、この人は。やっと引いたはずの熱が集まる前に一度頭の中で否定しようと思うも、○○さんは「それに」と続けた。

 「かわいいんだもの」

 ――、は? かわいい、だと?

 また別の理由で熱がぐぐぐと頭へと集まっていく。おい、それは男に使う言葉ではなく、女子供に使う言葉だろうが! やはりこの姉弟子は俺を好きだというわけではなく、ただの弟弟子として可愛がっているに過ぎないというわけか? 納得がいかねぇ。そう考えあぐねている最中も○○さんは話を続けていく。

 「思えば前からかわいいと思っていたのに今まで口に出さなかったのかが不思議。
 妹を持つ友人に言われたんだ。その弟弟子がかわいいんだねって」

 俺の知らない存在が出てきたがこれもこの際はどうだっていいだろう。俺の方が好かれているに違いないからだ。ただ、話を聞く限りでは俺はどうも男としてというよりは、弟弟子として可愛がっているということになってしまうわけだ。
 聞き耳を立てるような真似は男として恥とも思えるが、だからといって顔を出せるような雰囲気でもなかった。それにいくら息を殺そうと、恐らく俺がここにいることは二人には知られているはずだ。開き直りであった。

 先生は納得したようにひとつ「ふむ、」と答えた。これで納得していないのは俺ひとりとなる。

 「なるほど、そうじゃったか」
 「うん。いいと思ったことはきちんと伝えた方がいいと思って」
 「……ただ、まあ。
 そのかわいいとやらは獪岳に言うべきではないぞ」

 男である先生には理解していただけているようだ。実際のところかわいいと言われても嬉しく思えないうえガキ扱いを受けているとしか思えない。褒められること自体はやめてほしいとは思わないが、かわいいだけは勘弁していただきたいところだ。

 「……かわいいと口に出して伝えるべきではないの?」
 「ふむ、まあ、その……、そうは言わんが」

 聞き耳をしておいてなんだが、俺の気配などとっくにわかっているものだと思っていたがもしや気付かれていないのか? それに、そうだと言ってくれ先生。なぜ渋る!

 「だって、おじいちゃんも獪岳をかわいいと思ってるでしょう?」
 「……実はというとな」

 実はというとな!?

 「それに、獪岳は褒められて然るべきだよ。
 あんなによく出来た子は現隊士でもなかなか見ないもの」

 ○○さんは「そうでしょう?」なんて誇らしげに言う。黙って聞くしかない状況を自分から作っておいてなんだが、聞き耳を立てているよりやはりそれを面と向かって伝えてほしいという思いが湧き上がる。それはそうだ、姉弟子はいつも俺を真っ直ぐに褒めてくれていた。先生は明確な言葉にこそしないものの、俺を認めてくれているのだろうと――認められる範囲内には俺はいるのだろうという、自負はあった。

 ただ、○○さんはともかく先生までにもこのように過ぎた嘉賞とするのはなんともむずがゆい、というよりは複雑だ。認めてもらえるそれが、姉弟子に求めるそれとは違うわけだ。
 先生はこほんとひとつ咳払いをして「その通りじゃの」と言った。その声色は、嬉しそうに思えた。

 「お主が好く理由もわからなくはないが、」

 先生の言葉を待っているのか、姉弟子は何も言わない。
 充分に一拍間を置き「……そうなのか?」と、言った。おい、先生。その質問の意図はなんだ?

 「うん」

 ――うん!?

 がたん、と音が立ったのは俺の足元からだ。
 縁側に立てかけてあった箒を、動揺した際に蹴ってしまったのだ。すぐに手に取り抑えるも、音がしてしまえば俺がここにいることは明白だろう。

 どうせ俺や先生が気まずく思おうともこの姉弟子には関係のない話だろう。観念して居間に顔を出すと、すぐに先生と目が合った。
 視線から伝わる「すまん、獪岳」と言う先生の言葉にぐぐぐと眉間に皺が集まるのがわかる。物恥ずかしい気持ちから唇をきゅっと噛んだ。○○さんは「おかえり〜」と先と変わらぬ様子である。想像に容易いのは都合がいいが、依然として俺の立場も都合も悪いままだ。俺は一度として姉弟子の前で男らしい姿を見せられたことがあったか?

 「今、おじいちゃんと獪岳ってかわいいねって話をしてたんだ」

 しかもそれを俺に言うのか、この人は。





 どうやら、俺の気配は気付かれていなかったのかはたまた気にも留められていなかったのか、○○さんは今までの会話を俺が聞いていないことを前提に話し始めた。呆れた様子で姉弟子を見る先生の視線さえ気にならないのか「よく出来た弟弟子なんだと友人に話したの」やら「華奢なかわいさとは違うけれど」やら。後者に至っては当たり前だろうとしか言いようがない内容であったが、嬉しそうに話す○○さんの話を止めもせずに頷いて聞く俺も俺であった。先生の前だからではなく、単に姉弟子を前にするとうまく言葉が紡げないのもひとつの理由であった。

 それから○○さんの言う『俺のかわいさ』について聞かされてはいたが、またも見兼ねた先生が「獪岳、掃除を頼めるかの。そろそろ湯浴みも、」と声をかけてくださった。間髪入れずに返事をした俺は姉弟子へ一礼し、その場を離れたのだった。

 いつもの通りに湯を沸かすまでの間の外掃除をする。今日は姉弟子もいることだし、いつもより日が落ちていた。走り込みはまた今度に――、。

 そう考えながら外に出たはいいものの、これもまた先程に溜め込まれた頬の熱を発散するため夜風を浴びたいというのに後ろからひょこひょことついてくるのは姉弟子であった。なぜだ。

 「、○○さん?」
 「獪岳。あの、私も手伝えって言われたから来たよ」

 なぜだ先生。

 「さっきはたくさん喋ってごめんね」
 「いえ、」
 「おじいちゃんに、まだ話し足りたいのなら掃除しながらでも出来るじゃろ〜って」

 なぜだ先生! 

 俺へ助け船を出したのかと考えたが、どうやら姉弟子へ向けたものだったらしい。もしかすると先生、身内間のあれそれを知るのが気まずいのか? 家族同士のそういった感覚は知る由もないが、きっとそれに近いだろう。

 逃げるようにして居間を後にしたとはいえ、そんなことで逃げたと思われるのも癪だ。まあ、○○さんはそうは思っていないのか、どこか申し訳なさそうに眉を下げていた。蔑ろにできる立場でもない。落ち着きたいと騒ぎ立てる鼓動の音を無視し、○○さんが箒を取ろうとする手より先に奪い掃除を始めたのだった。
 掃除と言っても、屋敷前の塵掃きぐらいである。○○さんはというと、さっさと箒で塵を集める俺に合わせて寄せ集められた塵を手際よく片付けていた。この調子ではすぐにでも終わってしまうが湯舟周辺の掃除もある。さすがに男所帯である洗い場の掃除はさせられないと考えていると○○さんが「あ、そうだ」と思いついたように声を漏らした。

 「これからは無理に敬語で話さなくてもいいよ」

 突如として言われたと思ったが、今までを思い返せば敬語が抜けて発言したことも少なくない。

 「失礼にならないですか」
 「うん。私は師ではないし、年もそこまで離れてないからね」

 今も尚、姉弟子は笑みを絶やしていない。なんだか、俺といると嬉しいのだとその容貌で表しているかのようだった。そう、信じてもいいのだろうか。
 とはいえ、なんだかんだ今まで敬語で話すことに慣れてしまっていた故に、なんと答えるべきかと口を噤んだ。たしかにガキ扱いから一歩抜け出すためにも敬語を抜くのはいいが。なんというか、特別な相手であるから敬語を使っていたわけだが――、。

 「私が、獪岳にふつうに喋ってほしいの」

 そう言われてしまえば頷かざるを得ない。だというのに、俺の様子を伺うようにして「どうかな?」と聞くのだ。思えば○○さんは俺の意志を尊重する物言いをすることは多いが、なにか俺に命ずることは少なかった。それがどこか物足りなく満たされないと感じることもあったが、不思議で仕方がない。誰かに命じられたり、理不尽に手前勝手に振り回されるのはご免だと思っていたのにだ。

 「なら、○○と呼んでもいいか」

 気づかぬ内に口を出た言葉はいつものように一度自分のなかで考えてから喋る言葉ではなく、自然に出た言葉でった。
 掃除を終え片付けも終わった頃で二人して手持ち無沙汰であったため、互いに顔を向き直らせては少しの沈黙が流れた。ぽかんと小さく開けた唇に嫌でも目が行く。いや、今はそんなことに考え巡らせている場合ではなかった。

 やってしまったか。呼び名を呼び捨てにするように提案したとはいえ、○○さんは俺からすれば年齢も立場も上である。これは過ぎた提案になるのではないか? これで機嫌を損ねるような人だとは思っていなかったが、不安であった。ただ、言い訳を考えあぐねるもやはり、○○は、ふと笑って「いいよ」と、やさしく笑った。その細まる目許とゆるく笑みを浮かべる口許に、心底安心したのだ。





 外の掃き掃除を終えてから、俺がやると言ってもきかない○○と洗い場から湯舟までの掃除をしていた。機嫌の良い○○に「いっしょにやろう」と言われ、仕方なく分担して掃除に取り掛かったのだ。

 それから、湯浴みを先に済ませろと言う先生に対して「獪岳は先じゃなくていいの?」と何故かまた俺を優先して言い出す始末。○○はというとその後、先生に背を叩かれ渋々と大人しく向かっていった。普通は男の後は嫌なものではないのかと思うがおそらく気にする性分ではないのだろうという考えに落ち着いた。色々と落ち着かせなければ、先に言われた「獪岳。次はお主が入るがよい。儂はゆっくりとするからの」と言葉を頭から取り払えない。一言余計にいうのだ、この師匠様も。

 ○○に出くわさないようにと意識して入ったはいいものの、やはり先生は気を遣っているのが明白であった。普段であれば先生が先に湯浴みをして入れ替わりで寝る前の挨拶を交わすのだ。そして今、挨拶を済ませようと未だ明かりのついた居間を覗けば、そこには○○さんが居たわけだ。客間で寝ると聞いていたというのに。

 寝巻に身を包んだ○○は俺の姿を見るなり「いい湯だったね。ありがとう」と声をかけた。先生の姿は無く、聞けば部屋にいるのだという。いい加減、ああだこうだと思うのは止めにして「冷えるからこっちにおいで」と言う○○の隣に大人しく腰かけたのだ。

 「まだ、寝ないのか」
 「うん。獪岳のこと待ってた」

 いい加減にするのは明らかに○○の方ではある。それは夜更けに男に向かって言う言葉ではないだろう。ただ、今それを指摘したところでこの姉弟子は意図を理解してくれるか、それはわからないが恐らくしないだろう。そうだ。今の俺は、きっと男だと思われていないのだからな。心を落ち着かせ寝につくまでのほんの少しの間、話をするだけだ。

 「そういえば、かわいいが嫌なの?」

 またも突拍子もなく始まったのは、先の話のぶり返しであった。
 やっとあのかわいいだとか変に煽てられていた話題から抜け出せたというのに、この姉弟子は。ちらと様子を見れば、曇りなき眼とはこの事だ。純に聞いているだけだと捉えられる表情に、ひとつ小さく息を吐く。

 「かわいいじゃあなくて、恰好いいがいいに決まってるだろ」

 俺は男なんだからという言葉は飲み込んだ。この姉弟子が俺を『かわいがる』のは問題がない。ただ、こちらも男として見てほしいわけだ。だからこそ素直にそう告げると「そうなんだ……」と、どこか思考を巡らせているのかそっぽを向いたまま呆けていた。
 ○○の横顔をちらと見てみると、ひかえめにつんと唇を尖らせ考え込んでいるようだった。次第に目が合うと、今度はじっと見つめられた。

 「……うん。よく見てみると、容姿は恰好良いね」

 いかにも納得したと言わんばかりにひとり頷いている○○を、ぼうっと見ていた。
 いや、そうだが。漸く聞けた望む言葉のひとつに満足感とまた違った感情が湧き上がる。かわいいよりずっとそれがいいが、いや。そうだけどそうじゃねぇ。嬉しいけど、そうじゃねぇ!

 「〜〜〜ッ……寝るッ!」

 射貫かれるようにして見つめられた直後のこれだ。堪らずその場から立ち上がれば、飯時のそれを思い出した。まともに○○の顔を見ることができず背を向け居間を出ようとした。

 「え……うん。おやすみなさい」

 その声に思わず振り向いてしまった。落ち込んだような、元気のない声色だったからで――おい、そういったさみしそうな顔をするな。表情も寂し気で、まるで俺とまだ話していたいのだと思わせてくる。○○さんは、足を止め未だ居間を後にしない俺に微笑みかけた。

 「また明日ね」
 「……おう」

 自分でも自覚するほどに素っ気ない返事を残し、その場を去った。自室へと戻る間の浴場に続く廊下へと特に恨み言など無いが一睨みする。くそ、あの先生に至ってはどういったつもりなのだ。ひとつ溜息を洩らし、足早に自室へと駆け込んだ。

 さっさと眠ってしまおうと思いながら布団に潜り込み目を瞑るも、まあ眠れるわけもなかった。先からこの寝る間際まで、人を振り回しやがって。湯上りで身体が暖まっていることも相まって耳がじんじんと熱いままであった。
 とはいえ、明日は姉弟子とふたり街へ出る用事もある。早めに眠らなければ、寝坊でもしでかせばそれこそ呆れられるであろう。朝、目の下に隈を浮かべている姿も情けない。そう思いながら目を瞑り眠ることに徹するも、先の○○の表情が瞼の裏に浮かぶ。様子から察するに楽しみに思ってくれているのは明白ではあったが、俺もそうであった。そうだ。明日は○○と二人で買い出しとなったわけだ。

 眠れる奴のほうが可笑しいとさえ思えるこの状況で無理矢理寝付くということも出来ず、それに二人で街に出るという事実を次第に自覚してしまえば、布団を蹴り上げ夜更けまで長ったらしい溜息を吐き続けたのだった。


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