三度目の納得だった。なるほど、獪岳くんを拾った時にはもう衰弱死寸前のぼろぼろな子供だったのだと。だからどこか満足に食事を与えられずまるで大人から虐げられてきたかのように思える、頼りなく弱い印象があったわけか。そんな印象に身に覚えがあったからに余計気になっていたのだと感得したのだ。

 先ずは食生活の見直しに本格的な修行の前の身体づくり。獪岳くんに必要だと判断した要素はすべておじいちゃんに押し付けていった。持ち歩いていた洋紙にその場で適当にすらすらと書き並べている途中に横目で獪岳くんが覗いていたのが、たいへん愛らしかった覚えがある。

 師であるおじいちゃんに指図するような真似をしていいのかという話だが、別にいいのだ、私だから。実のところ私は孫のような立ち位置であり、これを利用してなにかとおじいちゃんには世話になっているのだ。その分、金銭支援や生活の支援はしっかりと問題なく過ごしてもらえている。まあ、元鳴柱というだけあってその支援も微々たるものではあるが、かわいい孫の恩を受け取るようにとおねがいすれば聞き入れてくれるのだ。おじいちゃんは見かけによらず慈悲深くやさしいのだ。

 それはさておき、私だけではどうにもわからない男性の身体づくりに関しての研究は一旦は保留にさせていただき、それからのやり取りは手紙を通すことを説明した。おじいちゃん、これには驚きを隠せないのか「なんと!? どの程度の頻度で寄越すつもりじゃ!?」と言うから「明日には書くよ」と伝えれば唖然としていた。

 私はというと、やはり暇ではなかった。あの後すぐに鎹烏が飛んできたのだ。颯爽と現れては空け放たれていた縁側の戸の近くの木の枝にとまり「ニンム! ニンム! タダチニ、ニンムダ! ハヤクシロ!」と元鳴柱邸敷地内に轟く鳴き声で告げたのだ。枝の先にあった葉がいくつか揺れ落ちるほどの声量であった。余談だが私の鎹烏はなかなかの低音の声色を持つ。鎹烏の中でも屈指の聞き取りにくさを誇るらしいと他の鎹烏から教えられた。私の鎹烏になるまでは小さくぼそぼそと喋ることが多かったそうで、耳の遠い婆の如く聞き返すを繰り返していたらここまでの声量過多となってしまったのだ。

 来たばかりだというのに致し方ない。今は任務どころではないのだと鎹烏に告げたところで任務があるという事実は変わらない。
 顔を伏せたままの獪岳くんと先生を横目に立ち上がると、顔をあげてなにか言いたげに此方を見た獪岳くんに私から先に挨拶でもしようかと口を開けば――それよりも先に、鎹烏がもう一声とその嘴を広げた。
 その瞬間に縁側までさっと距離を詰め、その口内に指を突っ込んでやるのだ。こうすると黙るのだ。代償として指の第一関節に亀裂でも入ったのかという程の痕こそ残るが感謝しているおじいちゃんとかわいい弟弟子の二人を邪魔したくないのだ。そして二人に暫しの別れを告げてはすぐに、任務地へと立った。

 任務地へと向かう途中、ずっと獪岳くんの涙について考えていた。ずうっと昔に、私もおじいちゃんの前で泣いてしまったことを思い出したのだ。きっと、獪岳くんはこれからも修行を続けていけば、鬼殺隊士になれるだろう。服装の上からでもわかるほどの生傷などで、その努力は目に見えていた。きっと、目的のために努力出来る、どこか野心家のようにも思える風貌に、やはり期待せざるを得なかった。きっと、きっと強い隊士になるのだ。

 そして私が継げなかった、唯一の心残りである雷の呼吸を継いでくれるはずだ。
 うん。少なくとも、私よりはずっと有能なのだ。





 あれから一年が経った。ずうっと立て続けに来る任務やら数週間かかる任務やらで顔を見せるといっても一日から半日。朝や昼の数時間の空き時間を利用しておじいちゃんと獪岳くんに会いに行くこともあったがなかなか休暇が取れないこともあり、大半はおじいちゃんとの手紙のやり取りをしていた。そのやり取りを経てわかったことがある。獪岳くんは拾って来た時点で前に面倒を見てくれていたところで少しだけ文字を教わり多少の読み書きは出来るが、まだ満足に文に内容を伝えるだけの技量がないのだと。だからあんなにも大量に弟弟子宛の文を届けたところで、お前の弟弟子は返事に頭を悩ませているのだから、やめろと。ううん、なるほど。だから獪岳くんからの返事は最低限の内容が多かったわけだ。てっきり文通は苦手だとかもしかしたら面倒だとさえ思われているのかと思っていた。

 そんなやり取りを続けていたひとつ前の手紙を眺めながら、ばくりと生姜焼きを頬張る。たいへん行儀が悪いとは自覚しているつもりではあるが、手紙を読むことを特に止めるように言わない彼女――カナエはその可憐な目許をぱちぱちと瞬きをしていた。

 「ええと、手紙よね?」

 同じく昼食を摂る彼女は焼き魚定食を食べていた。それはもう、旬の魚の脂の乗った身と骨を器用に取り分け、礼儀作法に非の打ち所がないほどに丁寧に食していた。育ちが良いのであろう。数枚の手紙を眺めながら片手間に食べ進めている私とは天と地の差である。きっと彼女は必ず口の周りを粉でぱさぱさにしてしまう饅頭を食べたとしても絵になるような女性なのだ。

 「うん。師匠から」
 「そうだったの。邪魔しちゃった?」
 「いえ、むしろ不躾でごめんなさい」

 そうは言いながらも次には、新しく届いたおじいちゃんからの手紙に目を通していた。どうやら、要約すると『次に戻る時にはきゃらめるを土産にほしい と 獪岳が望んでいる』とのこと。おじいちゃん、貴方がキャラメルを気に入っているんでしょう? まあでも、獪岳くんもキャラメルはたいそう気に入ったらしいと聞いていた。ふ、と笑みが零れる。あまり返事を寄越す方ではないと自覚はしていたものの、おじいちゃんからすればこの現状は嬉しいのか私が返事をやればすぐに返ってくるのだ。この間なんて、女の友人と甘味を食べに行った処がたいへん美味しかったから店を教える、といった内容だというのに半日経たずに返事を寄越してきたのだ。その友人を大事にしてやれと。
 そういえば、と前を見遣る。箸が止まっている様子らしい彼女はやはり特に気にしていないのだろう――いや寧ろ、興味津々だと言わんばかりに身を乗り出して此方を見ていたのだ。

 「そんな、いいのよ。お師匠様からですし。それに!」

 彼女の瞳はたいへん煌びやかで華やかで、なんというか、眩しすぎた。こんなにも間近で他人の瞳を観察したのはおそらく獪岳くん以外は居ないと思う。驚く私を他所にカナエは話を続けた。

 「○○がこうしてゆっくり手紙を読んでいるなんて、見たことがなかったから」

 うふふと嬉しそうに彼女は頬を綻ばせていた。嬉しそうにしている理由はわからないけれど、にこにことあまりにも笑うものだから、私もそっと笑い返したのだ。

 花柱である彼女、カナエとはこうして食事をすることやいっしょに甘味を楽しむことが多かった。と、言っても最近のことである。突如として、まったく任務とは関係ない内容で可憐な美女に声をかけられもすれば驚くものだった。聞けば、じきに柱になれる程の実力を持つ隊士が居てしかもそれが女の子だと聞いては、もう居ても立っても居られなかったのと、後に彼女は語った。どうやら女の柱は彼女以外はいないそうで、それに階級の高い隊士でもなかなかに女の子はいないのだと。
 なるほど。同性同士であり年も近いから仲良くしたいといった理由で私は声をかけられたのだ。そうなると、特に断る理由もなければ柱にどんな人物がいるのか把握できていなかった私には好都合だった。

 カナエはたいへん女性らしい人だ。鬼殺隊は筋力や実力の差が顕著であるためどうしても男の隊士の割合の方が高くなってしまう。よって、たいへん男くさいのだ。このくさいといった表現はむさ苦しいといった意味ではあるが、嗅覚によるものでもある。カナエさんは女性でありなにより良い匂いがする。一緒に居ていろいろと嫌な思いをしないのだ。才色兼備である彼女はどんな花にでも似合ってしまうだろう。花はおろか宝石だって霞んでしまうのだろうと思うほどに、美しい人だ。カナエと話をするのも継子であるという妹のしのぶちゃんの修行を見るのも、実は吝かではないのだ。しのぶちゃんとはカナエから直々に一度とは言わず二度三度と修行を見てやってほしいとのことで面識がある。姉妹のお二方とは仲良くしている方なのだ。

 不意に硝子窓の外を見遣れば、その先には偶然にも都会の方から出てきたであろう屋台がキャラメルを売り出していた。あ、と声が漏れてしまえばカナエもその先を確認したようで「あら、キャラメルね。みんなに買っていこうかしら」とにこにこと笑っていた。
 ちょうど、明日は休暇をいただいているのだ。もちろん帰らないわけもない。彼女の何気ない言葉に「私も買う」と一言返す。屋台の旗は都会で有名な洋菓子屋の名前だったような気もするし間違いないだろう。もうすぐ食べ終わる頃だしと、それに返事は顔を見せるのだからいいのだと手紙をしまっては、味噌汁を啜った。

 「あら、なんだか珍しいことばかりね! もしかしてお土産?」
 「そうなの。明日、弟弟子の様子を見に行こうかと思って」

 彼女が『弟弟子』という言葉に反応したのは明白だった。湯呑をあたたかそうに両手で包んで持つ所作をぴたりと止めては、麗しい瞼をぱちぱちとさせていたのだ。

 「弟弟子さんがいらしたのね。選別前かしら?」
 「うん。まだまだ修行途中でね。
 もうすぐ選別に出すとは思うんだけど、どのぐらい実になったのか気になって」

 そう答えた後、味噌汁を一滴残さずにと飲み干しては考える。
 私は、弟弟子や妹弟子にあたる人物の面倒を見てやるというその距離感がいまいちわからないのだ。今までそれにあたる人物がいなかったこともあったからだと思う。彼女は実妹であるしのぶちゃんをよく見てやっている。それこそ大事にしているのだと話を聞くぶんでも二人が話す様子からでも見てとれる。でも、それは実の家族であるからで、私のこれはおかしいことではないだろうか?
 どうしてか、おじいちゃんからの手紙を思い出した。友人を大事にしてやれと。そんなことをらしくもなく頭に過らせながら、恐る恐ると彼女の言葉を待っていた。

 「よく見てあげてるのね」

 彼女の表情の変化はいつも感情が豊かなように見えた。いくら同性とはいえ私のつまらないであろう話にも笑顔で答えていて、どこか感慨深さまで伝わってくる物言いだ。こういった目はあまり向けられたことがない。あるとするなら、おじいちゃんぐらいだ。

 「そう、かも。今まで手紙を送っていたんだけれど。
 やっぱり、顔を見て話した方がいいんだね」

 顔を見て話す方が人と人との関わりのうえで大事なことなのだと、昔おじいちゃんに言われたことがあった。長らくそれを忘れていたが、最近おじいちゃんのそういったお言葉を思い出すようになっていた。未だ、その意味をすべて理解していたわけではないけれど。

 他人事のようにどこか生返事の如く返した言葉だというのに、彼女は尚もにこにこと笑ってもっともっと表情を明るくさせるのだ。なんだか彼女、さっきからすごく嬉しそうだ。その表情を面と向かって見られるのは私の特権と言ってもいい程だけれど、その理由がわからない。同じように妹のような存在を可愛がる私に親近感が芽生えているのだろうか。

 「うふふ。かわいいのね、その子のことが!」
 「かわいい……」

 一度口に出してよく反芻してみる。かわいい。獪岳くんのことが? それはもう、かわいいことこのうえ無いが。うん、でも、しのぶちゃんのような華奢な愛らしさは無いのだけれど、多分そういうことではなさそうだ。それに、なんだかこういった話をするのが嬉しい気がする。明確に言えば楽しいのだ。そういえば、カナエもしのぶちゃんのことを話すときはうんと嬉しそうだった、ような気がする。そうか、そういう可愛さというのは――、。

 「明日、うんと褒めてあげましょうね。うふふ。どんな子かしら?
 ○○の弟弟子さんなら、きっと素敵ね」

 そう言って、彼女は自分の事のように喜んでいた。清純な見かけだけではなく、心まで清いように思えるのだ。私にはそれはないし、こんな彼女に同意してはいけないかもしれないけれど、今ばかりは同意せざるを得ない。彼女と私とは違うけれど、その存在が、獪岳くんがかわいいのは間違いないのだ。 

 「ありがとう、カナエ。
 ……ふふ。そうなの。すごくよく出来た子なんだ」



 食事処での会計が終わりキャラメルを土産にと屋台で選んでいるときに、なぜカナエは嬉しそうなのかと聞いてみた。こういった感情やその類に纏わる問いは相手を困らせるかもしれないし、どう返されたとしても頷く他ないのだ。だからこんなことを聞くなんてこと無かったのだが、どうしても気になった。彼女のようなどこか姉のような母のような、そんな存在を彷彿とさせる女性との関わりがあまりにもなかったためだ。案の定、彼女は困ったように眉を下げながらも笑みはそのままで「なんというか、」と言葉を濁していた。失礼ではあるが似ても似つかない今より若い頃のおじいちゃんの姿と重なって見えた。あの時はたしか、おじいちゃんの下へ引き取られたときに凄惨な家屋の状態故に親の形見である着物が回収が出来ないのだと、なぜだかおじいちゃんが私へ謝罪したときだ。記憶自体は曖昧だが、新しい着物を見繕うというおじいちゃんに「要らない」と答えたのだ。それからは、言葉を詰まらせたように黙り込んでしまっていたことを覚えていた。
 言葉を詰まらせているのはカナエも同じだった。ただ、彼女は黙り込むことはなく「○○が、楽しそうで嬉しいの」と、言ったのだ。蝶屋敷にいる妹や他の子たちにとキャラメルを土産用に大量に買う彼女をぼうっと眺めながら「そっか」と、とりあえずの返事をしたのだ。

 そっか。カナエは、知らないのだからわからないのだから、当然だ。だからこんなにも私と仲良くし、友人のように振舞うのだ。何も知らないのだから。気遣われている自覚はあっても、こればかりは、鬼に両親を目の前で殺されたという彼女たちにはとても言えない。
 家族が何者かに殺されるのをわかっていながら、地下へ逃げ込んだのは私だ。親を見捨て、後に知った鬼へ彼らを売った。土産用にと同じく二人分を購入しながらも、未だ記憶の底から這い出るようにしてずるずると思い出されていく記憶に、目を伏せた。すべてに蓋をするように。





 明日と言いながらも今から向かうためカナエと別れてからは足早に藤の家へ向かった。荷物を預けていることもあり、とある覚書を回収するためだ。本当は明日早く起きてから発とうかと思ったけど、まあ、夕方頃に行ってもいいでしょう。

 すこし前に任務帰りに出会った村田くんを捕まえ、現在気にかけていている食事やら鍛錬の内容その他巷で流行っている鍛錬の方法だとかを、育手への侮辱にならない程度にとこっそりと聞いたのだ。彼とは階級の差が開けば任務も違ってくるわけで関わりこそ少なくなってきたが、たいへん感謝をしているのだ。こうして知らないことも聞ける機会もできて、あらゆる場面で此方が不利だと思ったことは一度もなかった。要らぬ詮索やなにかしらの関係を持とうと考える者でもないため助かっていた。村田くんは聞かれたことに丁寧に答えながらも「なんかそういうこと聞くの珍しいな」「というかお前どんどん階級あがるな!?」と、どこか落胆しているその姿は、ずっと昔の子供の頃の情けない様子と被って見えた。そんなことを思い出しながらも覚書を回収し、その足で帰路についた。

 道中にぱさぱさと鎹烏がやってきては、なんて都合が悪いのだと眉を顰める。だが、鎹烏から渡された手紙には予想が大きく外れる内容が書き記されていた。どうやら、私は数日後には長期間に渡る任務に繰り出されるらしい。同行者とは現地集合であり各自で向かうように、といった内容に思わず足を止めた。期間の確認をするも――こんなに長い期間の長期任務は初めてだというのに手紙のやりとりだけで済むのか? 御館様。

 不満をひとり漏らしながらもあまり鎹烏の前ではこういった反応はよろしくないだろうと思ったが「キョウ、カエルコトガデキテ、ヨカッタナ」と。存外優しいのだ、この鎹烏は。何度か旋毛を穿られているおかげで禿げていないだろうかと不安になることもあるけれど、よく気遣いの出来る良い子なのだ。御館様からの手紙とだけあって上質な洋紙だと手紙にもう一度目を通すと、最後に休暇について書かれていた――明日から二日間の休暇後に新たな任務があること。その後に長期任務に入るようになること。

 それってつまり、明日と明後日どちらもお休みってこと?
 心なしか、自分の中の気分がぱっと晴れやかになるのを感じる。これ本当? 御館様から直々に二日休めと言われているというのなら緊急任務も入らないということ。そういうことだ。





 さて、気付けば既に近くまで来ていたようだ。桃の香りが鼻をくすぐり、なんだか頬が緩む気がする。この匂いを嗅ぐと、心なしか頬の筋肉が柔くなるのだ。足取りも自然と軽くなり、というより最早心も弾み始め気分は上々。私はいつもの路地には向かわず、修練場へと向かった。

 あれから手紙でのやり取りが中心ではあったものの、帰ること自体は久々ということでもない。なにも手紙のやり取りだけでなく、ときどきこうやって様子を見に来ていたのだ。こっそりというには堂々と、修行に励む後ろ姿を木の上から二時間弱見守ることもあれば、突拍子もなく体術を仕掛けてどれほど身体能力が上がったのかを確認したりを繰り返した。驚く顔が新鮮で、思わず癖になっていた。
 そのおかげか、おじいちゃん曰く獪岳くんは警戒心も強くなり、なにか物音やいつもと違う雰囲気を察した際には私の姿を探しているところをよく見るのだという。日頃の鍛錬も怠らず修行もしっかりと誠実に熟しているそうで。見込みがありすぎて口で教えることが少なくなってきたのだとおじいちゃんは言った。最近では鍛錬の回数を増やして身体を整え、更に桃の選定役などを自ずとやりはじめたというのだ。どうやら桃をたいへん気に入ったようで今ではおじいちゃんよりも世話が上手くなってきているのだという。覚えがいいうえ、なんでもそつなくこなせるなんて我ながら出来の良い弟弟子である。

 その話をされた時はちょうど獪岳くんを初めて背後から驚かせた時のことだった。好奇心が抑えられず、どうにも獪岳くんの驚いた顔が見たくなったのだ。
 当事者である獪岳くんのその後はというと、結果怪我をさせてしまったのだ。驚かせた際に持っていた薪を全て足元へ落としてしまい、運悪く落ちて跳ねた薪が脛に強打してしまうという可哀想な事態になってしまったのだ。
 もちろん、聞きつけたおじいちゃんには修行やら作業中の途中でのいたずらはやめるようにという長いお叱りは小一時間と続いた。気付けば日が暮れていたようにも思える。
 でも、そんな話を聞けば感慨深く頷いてしまう。そうでしょう、そうでしょう。獪岳くんはよく出来た弟弟子なのだ、と。からかうのもほどほどにと一言添えられてしまったのもあって、その場しのぎの空返事をしていたのだが、私にはからかっていた自覚はなかった。でも、まあ。若干楽しんでいた節もある。けれど獪岳くんも満更ではないでしょう?

 今も、背後からこっそり両肩を掴んで驚かせてみるのだ。何度か肩に触れることはあったが、掴む度に幅も広がり身体的にも成長をしているのだとなんだか嬉しくなる。
 獪岳くんは声こそあげないが全身がすっかりとかちかちに固まってしまった。ふふ、驚いてる驚いてる。
 そんなかわいい弟弟子の顔を拝もうと肩越しに覗こうとするが、流石は成長途中の男児である。表情を確認するまでは私の身長が微々たる差で届かず、そっぽを向かれてしまった。ううん、残念で仕方がない。





 距離が近い。とにかく距離が近かった。
 
 今も尚がしりと掴まれた両肩に乗る手の平は存外小さく、俺がここに来た時よりも小さく思える。背後では密着はせずひかえめにひたりとくっつかれてはいるものの、しっかり伝わるぬくもり。それと匂い。ああ、キャラメルの匂いもするから、土産を買ってきてくれたのだろうと、この現状の逃避のため関係のないことまで考え出す始末だ。

 あれから姉弟子は、前と比べて幾度も顔を出すようになったのだと先生に言われた。幾度もと言うが本当にその通りで、数週に一度は必ずここに来ては――このように、よくわからない戯れをするわけだ。もちろん修行を見てもらったりと、鍛錬の付き合いはしてくれている。ただその前に、まるで子供のような戯れに付き合わされることになる。その戯れが過ぎるのだ。
 そして距離がありえない程に近い。これがそこいらの若人の戯れのひとつなのだとしても、そうだとしてもあまりにも近い。

 ある日は「うんうん。肌艶も良くなってる」と言って通りすがりに俺の頬を手の甲でひとさすりし。

 ある日は「上背も低すぎず高すぎずでいい男になるね」と褒めたと思えば「でもそのくらいの年でその背だと、伸びきって成長止まるかもね」と、あげて落とす。

 ある日は「目もぱっちりしてるね。それに落ち着いた綺麗な瞳してる」と、至近距離で見つめたかと思えばまるで女を口説くつもりの言葉を投げかけ。

 ある日は「家事の覚えもよくて力もつけて修行も順調。なんでもできちゃうね。すごい」と、嫌味だと思いたいのにそう思わせない程の期待をさせてくる。

 それ以降もなにかと「これも食べなさい」と人の皿にひょいひょいと食べ物を分けたり「修行は辛くてもがんばるんだよ。いつか実になれば楽できる」なんて、厳しくもどこか抜けているような助言をしていくのだ。ある程度話を終え修行を見終われば一晩も寝ずに任務へ向かうことも多かった姉弟子は、俺にとっては未知であった。あまりにも、あまりにも俺への態度がざっくばらんでありながら好意を自覚させるような素振りをしてくる。

 今も、どうにかして俺の様子を確認したいらしい。全力で顔を背けているというのに意気地とした視線に耐えていると、ぐぐぐと片肩側の耳付近に熱が集まる。その肩には姉弟子の顎が乗っていた。
 近い! いつもはそんなに長くくっつかないだろうが! なぜそんなに機嫌が良いんだ! 近い!

 「ふふ。獪岳くん、ただいま」
 「は、い。おかえりなさい、○○さん」

 ぐっと喉元まであがってきた唸りを抑えつけているうちにご満足いただけたのか、姉弟子は目を細めて笑ってやっとのことで離れた。ふわりと香る匂いを誤魔化すように、ぐいと鼻の下を手の甲で擦った。

 また気付けなかった。姉弟子の気配に。流石は鬼殺隊士である姉弟子の気配には、未だに気付けずにいた。懸念していたのは、姉弟子のこの戯れを試練の一つとして行っているのではという考えに至ったからだ。これについて、例え先生がいようといまいと関係なしにやるせいですっかり知られているからと、自棄になった際に口を滑らせ聞いたことがあった。先生曰く「いや、彼奴はそういった遠回りなことはせん」と否定されてしまった。だとするとこれはなんだ? 試練の可能性があったであろうとするなら、急に真正面から体術を仕掛けられどうにか受け身を取った時に「お〜! んふふ」なんて、馬鹿にしているのかと言いたいほどに感嘆の声をあげられた時くらいだ。

 だからこれは俺の意地であった。あれから刀を握らせてもらえて本格的な呼吸の習得をどうにか終えて、残るは――なぜか踏み込みや居合に問題はないはずだが未だ出来ずにいる、壱の型の習得を残すのみとなった。深く話し込んだり長い時を過ごすような仲ではない俺と姉弟子ではあるものの、成長した姿を見せつけてやりたいわけだ。
 そのためには奇襲ともいえる姉弟子の気配を察し気付けるようになり尚且つ壱の型の習得を成し遂げようとしているのだが、どちらもうまくいかない。それ以前に前者は定期的に来る割には神出鬼没であることがわかれば尚のこと難しくなる。それもこの時間帯に来るのは初めてのことで、今日の鍛錬をもう少しのところで終えるところだった。

 「お疲れさま。今日はもう戻ろうか」

 そう言っては先生のいる屋敷の方を指差し、踵を返して先を歩く後ろ姿にまだ鍛錬が残っていることを伝えるが「明日、みっちり稽古づけるから。今日はおわり」と、足を止めずに言うのだ。それに一つ返事をし、続いて歩いた。
 姉弟子は、ひょうきんなことをする性分ではかったのだという。誰に対しても礼儀正しくはあるものの自分から歩み寄り仲を深めようとすることもなく、幼い頃も街に出たとしても同年代の子らとも遊ぶこともなかったのだと。

 それは、俺を気に入ってくれているということで間違いないんだろうか。いや、気に入られていることは明白で、一等気に入っているといっても過言ではないほどだろう。なにせ、同時期に共に修行をしていた別の育手先の仲間にはこうした交流は一切なかったのだと、先生がぼやいていたのを耳にしたからだ。それに先生がここまで珍しがるのなら、まず俺以外の人間にはこういったことをしてこなかったのだろう。
 未だ理由はわからないが、気に入られているというのは悪くない。寧ろ、気分が良いわけだ。それもかなり。初対面の時点で大恥をかいたのだと夜眠るときに思い出し、もだもだと全身がむずがゆくなることがあったが、今ではあれも気に入ってくれたからこそ許されたのかもしれないと思える。

 ただ、まだこの人を信頼できると決まったわけではない。先生も、姉弟子も。俺が立派な隊士になれなければ、その時ばかりは見限るに違いない。隊士にさえなれない俺は、この二人にとっては要らない存在だと判断されてしまう。
 そうならないためにも、今はどれだけ辛くても修行を重ねるしかない――壱の型以外は、既に習得済みであり、極めるまでだ。修行の内容も次第に壱の型の一連の流れを繰り返す形に変わっていき、自分でも焦りが見て取れた。
 これが、どう思われるのか不安で仕方がなかった。修行を重ね一年。恥だと思われるか? 壱の型さえできない弟弟子は恥だろう。いや、この人はそもそも雷の呼吸ではなく派生の呼吸を身に着けたというのだから、声を大に言うことはできないが。それにこの努力は俺のためでもある。隊士になれば相当額を儲けることが可能らしい。そうだ。姉弟子の言うように、未来の俺が楽できるように、だ。

 一方で、姉弟子の帰りを待っているという事実が無性に恥ずかしくてたまらない。冷静にと頭の中で落ち着こうとしても、やはりこのように気に入られている事を自覚すれば――それに、○○さんは美麗な容貌をしていた。そればかりが理由にはならないが、○○さんを目の前にするとどうやったって動揺してしまい、調子を崩すのはもう致し方ないことになっていた。

 厳しくもどこかやさしい言葉も誠意の込められた稽古づけも、あんな戯れに見せる幼気な微笑みも。こうも見せつけられては。この、ふつふつと湧き上がってどうしようもなかった○○さんへの好意を、認めざるを得なかった。

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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