この女が真っ当な人間だとするなら耳にする言葉ではないその内容に、思わず耳を疑った。この女と称したが向かい隣に座るのは先生曰く姉弟子であるという。先生が言うのだから、きっと人違いではないのだろう。

 真人間などこの世にはいないのだとわかってはいるが。だとしても、馬鹿正直に聞くやつがあるか? そんなことを考えていたせいか、意識して防ごうにも聞かれた内容に顔の筋肉が強張っていくのを感じる。苛立ちとはまた違う、苦しさにも似た複雑な感情だ。その思いを隠すように目を伏せた。
 まだ記憶に新しい寺での出来事を思い出し、既に記憶の片隅に放われていた親の存在、今までの惨めな生活が思い返される。忘れようにも忘れられない、忘れたとしても俺に一生纏わりつく、どうにもならない罪の意識だ。

 「……○○。お主はな、」
 「うん。でもいずれは知ると思うし、少し気になってね」

 すぐに目を伏せてしまったせいで二人の表情が読めない。今となっては涙こそ出ないが眉間の皺は隠し通せないぐらいには感情の起伏が酷いものになっていた。このままでは、ただ面倒なそこいらのガキと同じなのだろうと、印象が悪く取られる。いや、この姉弟子こそ印象がいいものではないが。とにかく、顔を伏せたままでいた。
 それに姉弟子は「私と同じように」と何んと無しに言った。親が死ぬ。そういう子を弟子に迎える人なのだろうか、先生は。ここに来て一ヵ月近く経つが俺が先生について知ることは鬼殺隊という鬼狩りをする団体にいたこと、そこでは柱というそれぞれの呼吸と呼ばれる、鬼を殺せる戦闘技術を受け継がれた存在の一人だったのだということぐらいだ。鬼は俺にとってはあの出来事から身近に感じるものになり、逃げ続けながら怯えた夜もあった。

 姉弟子は親を失って弟子入りを果たしたのだろうが厳密に言えば俺は違った。俺は人間を鬼に売り、ここまで逃げてきたも同然だ。鬼殺隊の隊士という身分を与えられるまでは、この過去は誰にも知られてはいけなかった。もちろん、先生にもこのことは話さなかった。この罪の意識も罪状も暴かれてはならない。

 先生も心なしか、此方の様子をうかがっているように思える。先程からキャラメルを茣蓙や机にぼとりと落としたりと動揺しているのが見え見えだ。しまいには手にしたキャラメルを一旦包み紙に戻していた。
 俺はというと、肯定も否定も出来ずにいた。無意識のうちに、何も言えずにいたのだ。先生にも話せていない俺の過去をやすやすと目の前の姉弟子に言えるわけもなかったからだ。そんな俺にも動揺する先生の所作をも我関せずと姉弟子は「死んだわけではないか。捨て子かな」と言いながら次のキャラメルの包み紙を開いていた。肝が据わっているにも程があると呆れた。濁した表現ではあるものの、姉弟子の聞きたい内容はわかった。俺が捨てられたのか、はたまた正式に弟子入りしたのかという経緯を知りたいのだと。

 昔から悪意などの奸知な眼差しには散々と思う程に見てきて、とっくに慣れていた。それに同情をしてくる目。あれが一番腹立たしく思えた。ただ、先程の姉弟子の目はあくまでもそれを知るために聞いたのだという、どこか義務的な様子に思えたこともあって不思議と怒りや憎しみは湧いてこない。湧いてくるのは、まだまだ未解である姉弟子への不信感だった。

 先生は何も言わない。それに、きっと自分に向けられているのだろうと判断すれば「そうなります」と、短く返事をした。顔を上げる頃には姉弟子は此方に向き直っていた。真っ直ぐと俺を見ては「そっか」と目を伏せる。

 「気を悪くしたのならごめんね。でも、こういった境遇の者は多いものだ。
 皆がそうではないけれど……なんだろう、獪岳くんを見ているとね」

 ……なんだ、急に言葉を濁して。続く言葉が見つからないのか、わざと告げなかったのかはわからないが、姉弟子は「ほら、カステラも美味しいよ」と、俺に取り分けたものとは別に自分のところにあるカステラの包み紙を開けてはすぐに手渡された。
 それ、あんたのだろう。そう思うが渡されたのならと一礼をして受け取るも、未だ先生の様子は動揺をしているのか言葉に詰まっているのか、何も言わずに俺達を見ていた。

 先生はこの姉弟子が来てから少し様子がおかしく思える。いつもの、俺の知っている――見てきた大人とは違った、自若としてありながら果敢である先生ではなく、どこか慌てているような表情で、なんだか奇妙なものを見る目で姉弟子を見ているのだ。

 そして、俺と目が合えばどこか目を伏せがちに、申し訳なさそうにしているのだ。まるで「この娘がすまん」というように。まあ、先生もそこまで気にしなくてもいいのだが。言葉にされたことはなくとも、先生の下に来た当初の様子は我ながらに今にも死にそうな哀れな子の一人ではあったためか、先生にはどこか気遣われているように思える。ただ、生きる術を教えてくれるのだという先生に着いていく事を決めてからは、容赦は無かった。俺もそれに応え自ら修行を進んで取り組んだのだ。それが俺の、次の生にしがみつくための手段だった。

 そういえば、与えられて食べた菓子はこれが初めてだった。今まで取り入れた甘味は人が落として捨ててあった、割れた鼈甲飴ぐらいだ。このキャラメルだかカステラだかが絶品かどうかなんて俺にはわからないが、正直なところ甘いというだけで美味く感じる。突然土産を手渡された時から薫っていた、菓子とはまた違った甘い匂いと香ばしい匂いに嚥下するほどに唾が溜まった。二人が手をつけていないのに俺が手に取ることは許されないだろう。でも、いずれ分け与えられることを待とうと思う間にも、何度も唾を飲み込んだかわからない。

 そんな分け与えられたカステラを頬張るも、今では味がしない。手渡されたカステラを食べないわけにも行かず口に放ったはいいものの、確かに甘いがそれどころではない。

 「おじいちゃん。獪岳くんがここに来て一か月、今までなにをしてたの?」

 まるで尋問のようだ。すっかり小さく見える先生に、更にカステラの味がわからなくなる。心なしか口の中も乾いてきたがもちろん何も言えない。
 この姉弟子、いくら考えても意図がわからなかった。発言にもどこか意味があるようにも見えるが、首を突っ込みたがりなだけかもしれない。





 そこから先生が語りだしたのは、この一か月の修行内容だった。
 屋敷の近くにある小高い山や河川と桃の林などの地形を利用し、あらゆる罠を躱しながら手当を最低限に自分で行えるようになり身体を無理矢理に動かしてでも修行を熟すこと。修行の意味を問うたことは一度もなかった。これが俺に与えられた、ここに居る理由のひとつであったからだ。考えるに修行ではあるものの、まだ序の口なのだと思う。まだ、刀を振らせてはくれなかった。

 一通り話を終えたのか先生は口を噤んだ。話された内容は主に修行の話だったが、時折姉弟子が質問を投げかける度にちらほらと俺自身の話をしていた。主に俺を初めて見つけた時の姿や状況、その他怪我やら体調面の話をしていた。今聞いても気持ちのいいものではないが、黙って聞いていた。

 いつの間にか茶まで淹れていたのか、姉弟子は先生の前に茶を置いた。俺が淹れるべきだったのだろうが、この話の雰囲気ではとてもじゃあないが膝立ちで茶を淹れながら流し聞くといった振る舞いは俺にはできない。
 と、思えば目の前に置かれる俺の分の茶。先生だけではなく俺にまで用意したとは思わず、礼を言うためにも姉弟子の顔を見遣るが、その視線は先生に向いていた。

 「この一か月、毎日。ずうっとその修行をさせてたの?」

 先生は「そうじゃ」と短く返事をする。はて、なぜそんなことを、と心の声まで聞こえてくるかのように不思議そうに姉弟子を見ていた。そうだ。修行内容を聞いたところで、ただの隊士なのだと前に先生に聞かされた姉弟子が口を出せる内容ではないだろう。姉弟子は「ずっと?」と二度も聞く。先生が深く頷くところを見れば「ふうん」と。なんだ、興味がないのかそうなのか、どっちだ。

 しばらく考える素振りを見せる姉弟子だったが、漸くまともに話すことにしたのだろう、飲んでいた茶を机に置いて話し出した。

 「修行もいいけれど、おじいちゃん。獪岳くんには先ず、身体づくりが必要だ」

 予想だにしなかった内容だった。身体づくりなど、とっくにしているはずだと。あれが身体づくりでなければ硬いと聞いている鬼の頸をどうやって斬ることができるのか。先生を見遣れば、同じことを考えているのか否か、眉を顰めてはふうむ、と唸っていた。

 「……ふむ。じゃが、修行は身体づくりも兼ねているぞ。お主もそれは知っているじゃろう?」
 「ううん。その身体づくりじゃなくて。もっと、獪岳くん自身の肉体の話」

 そう言って姉弟子はぽすんと俺の背を叩いた。叩くにしては力無いものではあったが急に触れられるとは思わず、背筋が伸びるには充分の刺激だった。先生を見遣れば「ふ〜む……」と口許に手を添え、更に考える様子を見兼ねた姉弟子は「今の時点で修行をすると全部が無駄ではないけれど、能率が良くないよ」と付け加えた。黙って聞きながらも、そろそろカステラのせいか先ほどの刺激のせいか、妙に口の中が乾き切る頃だったからと、礼をするのも忘れて茶を啜った。

 先生は「ほう」頷くと、俺をちらと見ては「ううむ、」とまた唸っていたのだ。なんだ、なんだか、姉弟子の前では先生がただの爺にも見えてくる。そういえば、この二人の関係はなんだ? まあ、姉弟子の風貌や佇まいを見れば、俺のような生活は送ってきてはいないのだろうと、考えるのは止めにした。

 「いわゆる栄養失調だったんでしょう?
 一ヵ月経ったにしては、まだ栄養面が整ってないようにみえる。
 それに、肌が私よりも真っ白だ」

 茶を啜っている場合ではなかった。向かい隣にいる姉弟子に覗き込むように顔を見られては熱い茶が舌に当たり、危うく火傷をしかけた。不意に目を逸らして舌の鈍い痛みを誤魔化しているなか姉弟子は話をつづけた。

 「栄養を充分に摂って蓄えられるような身体を作るためにも、先ずは家事の見直しかな。
 このままでも問題ないかもしれないけれど、ごはんはもう少しいいものにしていこう」

 そう言って姉弟子は先生を見るなり「そう言ってくれたでしょう」と付け加えた。先生は口が半開きにさせながらどこか呆けているように見える。
 確かに、ここに来てからは質素ではある山菜中心の食事が多かった。だが今までの食生活と比べれば贅沢過ぎる程の食事だ。栄養だとかそういったことは考えたことがなかったうえに、それに、それ以上の贅沢は言えない立場なのだから。

 そうだ。俺は拾われた身であり冷や飯食らいだ。日々の生活の助けとなる手伝いこそしているが、稼いでくるわけでもないのに。こんな話をされたところで先生を侮辱するに等しいのではと先生を見れば。
 すっかり、なんともまあ爺らしく小さくなっていた。なぜそんなにしょぼくれている?

 「……そうじゃのう。本当に、そうじゃのう。すまない、獪岳」

 なにも、謝ることはない、はずだが。
 姉弟子はなぜだか知らないが、先生にまで気遣われる立場ではないというのに。
 先生が俺に向ける視線が柔らかく感じる。思うところがあるのか、ちらりと姉弟子の方を見た。

 茶を手にしたままである先生は机にことりと湯呑を置いて、俺に向き直っては「今まで体力ばかり有り余っている血気盛んな男児やら女児を見ておったからにのう」と言えば深く溜息を漏らし、此奴もなと姉弟子の肩をぽんと叩いていた。それまで真顔に近かった姉弟子の表情は薄く笑みを浮かべ「どういうこと?」なんてお道化たように返していた。

 俺は、身体は強い方なのだと思っていた。飯を満足に得られない環境ではあったが背も次第に伸びてきて、狡猾だと自覚していながらも人を利用する知恵に、同年代程度の男になら負けないぐらいの腕っぷしに自信があった。それに風邪を引こうとなんだろうと自力でどうにかしてきた。怪我をして熱を出しても、死ぬことはなかった。飯だって喉の渇きさえ潤せば腹さえ満たせられたら、それこそ泥水でも雑草でも食べて凌いできたのだから。だがそれは結局のところ、死なないための努力をしていたからであって、元より丈夫ではないのだろう。俺は先生の言う『子供』とまた違っていたと、つまりはそういうことなのだろう。

 俺とは違った生活をしてきた人間にはとてもじゃないが理解を得られないのだと、自分でわかっていたのだ。だからこそ修行でもなんでも生き抜くための術を会得しようと、この爺に気に入られようと、必死だった。
 一ヵ月、辛くて苛立つほどに上手くいかない内容だとしても毎日続けてきた。この努力がいつか実を結ぶことを望みながらがむしゃらに続けてきた。先生は俺を弟子として迎えた日から厳しくはあったが衣食住は充分に与えてくれていた。それを信じて、応えたかった。

 らしくもなく過去のことを思い返してしまう。今ではどうにもならない、過去の出来事は変えることはできない。ずっと胸につっかえたままの罪の意識も、遠くに聞こえたガキの断末魔も、今では過去の出来事だ。そうだ、今生きているのは俺だ。ただ、あの時に、逃げるだけではない選択肢があったとするなら、鬼の頸を斬れる技さえあったのなら。
 だから今度こそは俺自身が力のある強さを身に着けられたらいいと思った。自分の身を守ることはもちろん、その脅威さえ圧倒する力があったのなら――、。

 「おじいちゃんは特に、活発な男の子だったのだろうね。
 ね、獪岳くん」

 いきなり話を振られて、驚いて顔をあげると「今ではすっかり爺だけど」なんて、先からお道化るような口ぶりばかりだ。

 いつの間にかに顔を伏せてしまっていたらしい。そして、顔をあげたときに初めて気づいたのだ。

 ぎょっとする先生。俺の顔を見て驚いたのだろう。俺だって驚いているし、こんなつもりではなかったというのに。
 ただ俺は、なかなか姿を見せない謎の存在である姉弟子が急に現れたとはいえ、気に入られて損はないだろうと大人しい弟弟子なのだと、そう思わせようと目論んでいただけだというのに、番狂わせもいいところだ。この姉弟子が原因と言っても過言ではない。
 こんな、子供のように、泣くつもりじゃあなかった。

 「獪岳、すまないのう……今まで、その、辛かったか、」

 目を伏せて見たこともないぐらいに眉を下げている先生の姿、その声に一気に潤み始める視界。どうしようもなくなって、唇を噛んだ。喉元まで押しあがってくる熱い吐息にぎゅっと胸が苦しくなっていく。その言葉はまるで、俺の今までを知ったうえでの言葉のようにも聞こえて、そんなはずはないとわかっていながらも目頭を熱くさせた。恥ずかしさやらなにやらで姉弟子の顔も先生の顔さえもう見ることができない。人前で泣くなんて恰好の悪いことは絶対にしたくないと思っていたのにだ。

 先生は、みっともなく泣き始める俺と姉弟子の顔を交互に見ながら慌てているように見える。姉弟子も泣いている姿をまるで見ていないというかのようにして自身の身なりを整えていた。はっきりとした言葉では伝えられないものの、やさしいと思える気遣いに余計に視界がぼやけていく。しまいには両目からぼろぼろと涙が零れるのだ。
 てっきり、この体たらくで鬼の頸など斬れるものかと見限られるのだと思っていた。こういった修行を必要とする技術なんて人選が主なはずだ。最初から泣きべそかいて弱音を吐くような奴は見限られるに決まっていると思っていた。

 ずっとそう思っていた。どの大人だって、泣いても喚いたってどう足掻いたって助けてくれたことなんて一度もなかった。幾度も盗みを働くうちに罪悪感も消え去り、道端に落とす物は拾った者勝ちであり、なにより、こんな子供に騙される馬鹿の方が悪いんだ。そういう風に生きてきた。俺が先に見限ってきたのだ、そういう奴らを。それに、そうさせているのは彼奴らのほうだった。信じさせてくれない大人の方が悪いと思っていた。だというのに先生は、この姉弟子は。

 「ちが、う」

 未だに黙って俺の返答を待つ先生に漸くやっとのことで声を絞り出して告げた。その声は情けない程に上擦って、クソ恥ずかしいことこの上なかった。
 姉弟子はというと俺の返事を聞いたや否か、食材の見直しやら先生や俺に教える献立を用意しなければと独り言のように言っては、なにやら紙に走り書きを残していた。
 おい、なんでだ。どうしてそこまでする? 俺のような奴に、どうして。

 先生の手が涙を拭っていないほうの俺の手の甲へと添えられ、握るようにして力を籠められる。先生に視線を向けると「うむ。そうか、」と、俺を慈しむように見つめた。

 「獪岳。これからは姉弟子の協力も得て修行を続けていこう。
 儂はもう爺での。今では呼吸法を教える以外に、もうなにもないのじゃ。
 だからの、獪岳。お主も、姉弟子と同じように儂の大事な弟子じゃ。
 だからこそ儂に至らないところがあれば、遠慮なく言えばいい。いいな?」

 まともに目も合わせられないままに、ひとつ頷いた。その拍子にやっとのことで治まった涙がまた一粒二粒と零れてしまう。せめて酷く泣かないよう努めているというのに、この爺は。心の内で悪態を吐くが本気ではない。本気で言えるわけもなかった。
 そして先生は、安心したように笑って「気が回らなくて、本当にすまなかった」と言うのだ。俺にはもう首を振って否定する意志を見せるぐらいの事しかできず、ずびと鼻を啜った。ここまで泣いたのはいつぶりだろうか。
 いつの間にか計画が練り終わっていたのか、そっと洋紙を先生の座る机の前に置く姉弟子。その洋紙に書かれた文字はとても、美しいと思った。ぼうっとその洋紙を見ていると、視線を感じた。

 「順に体力をつけていけば、修行も長く続けられる。しかも辛くならないで済むよ」

 見てみれば、どうやら姉弟子は俺に対して声をかけたようだ。すっかり呆けていた俺は、姿勢を正して慌てて頷いた。
 すると姉弟子は涙を拭っていた方の手を上から包むように触れて「だから、いっしょに頑張ろう」なんて、やさしく笑ったのだ。先生や姉弟子の手のぬくもりに、また消え入るような声で「ありがとうございます」と、ただ一言告げたのだった。

 この優しさも気遣いもすべて、俺のやった事を知れば変わるのだろう。
 それがわかっていながらもこの心地よさに今だけは、今ぐらいはいいだろうと、目を閉じて考えないようにしたのだ。





 それから、片手で数える程度にしか見たことがない鎹烏が急に現れては任務を告げ姉弟子と共にあれよといううちに颯爽と屋敷を去ったのだ。嘘だろう、走る音もなにも音を立てず、消えるように行ってしまった。

 残された俺と先生はいうと――と、いうよりは、泣いてしまったことやあらゆる面で急激に恥ずかしくなり「顔を、洗ってきます」と、鼻声で先生に告げて背を向けては先生は幾分、いや、ずっとやさしい声色で「うむ、いってこい」と返したのだ。
 戻ってくると先生は姉弟子のぶんの片付けを終えていた。またしても俺がやるべきであろう事を先生にさせてしまい謝罪の意を表すも「いい、いい。まだこれが残っとるから、食べるといい」と、姉弟子の手土産のひとつを差し出すのだ。
 大人しく席へついてそれを受け取ると先生は「さて、今日は儂が腕によりをかけよう」と、席を立った。どこか楽しそうにも見えるその姿に、そのまま見送ることにした。

 昨日よりもずっと居心地のよくなったこの場所に、いつもより姿勢が崩れてしまう。まあ、先生もいないのだからと、もう一度あの味を確かめたくてカステラを頬張ったのだ。ああ、甘くて、しっとりして美味い。





 その日の晩。今夜から姉弟子の言う身体づくりの献立が始まったのか、いつもよりもずっと贅沢な食事に思わず圧倒されてしまった。贅沢というよりは豪華だ。肉の用意が無いのだと話されてはいたが、焼き魚中心ではあるが随分と増えた惣菜の量に驚く。主に煮物や炒め物も多くて満足感が充分に得られそうなものだった。
 これで本当にいいのだろうかと、嬉しい思い半分に先生の方を見遣れば「たんと食べるがいい」と、どこかやり遂げた表情をして言ったのだ。今夜は先生ひとりで作り、菓子を頬張る途中で呼ばれては食材の選定を任されたのは俺であった。

 食材の良し悪しなどわからない俺は先生に教えられながら覚えていくことになった。どうやら、これも姉弟子の提案によるものらしい。どんな食材を食べているのか、作り方も次第に学んでいくといいと洋紙には書いてあった。それに意味があるかどうかは俺にはわかりえなかったが、姉弟子に密かな感謝の念を込めて豪華な惣菜をひとつひとつ味わいながら食べていると、先生が口を開いた。

 「獪岳よ、姉弟子の○○についてじゃが」
 「、はい」
 「まあ、その。嫌な印象こそあったかも知れんが……、
 彼奴はたいそうお主を気に入ったようじゃの」

 そう、なんですか。なんて空返事をしてしまった。気に入ってるというにはいささか、配慮が足りていないようにも思えたが。そんなことは言えるわけもなく、先生の返事を待った。

 「前に姉弟子の話をしたが、……ふむ。○○がのう……、」

 どこか懐かしむように見える先生は、遠くを見つめているようだった。前に聞いた、姉弟子の話や口ぶりから察するに、どうやら姉弟子は他人に対してあまり優しい人間ではなかったのかもしれない。俺を気に入った、というが気に入られるようなことをした覚えもない。思い当たる節があるとするなら、礼儀を正しく振舞っていたということぐらいだ。

 「あんなにも世話焼きする方だとは思わんかった。
 うむ、うむ。いい姉弟子になるぞ、獪岳」

 ぼそりと「あまり期待はしておらんかったのだが、よかったよかった」と。あまり姉弟子は弟子の修行に付き合うような性分とは思われていなかったようだ。確かに、年頃の女らしい見栄えは良いものの、無地の羽織に黒の洋服――隊服では愛想が良いようには見えない。うざったらしい猫なで声を出すような性分でも、必要以上に人に媚びることもないように見えたから余計にだ。まあ、それの方が俺も気は悪くしないし好ましいとも思うが。
 姉弟子、○○。と、いう名前だったか? もし、また、次に顔を見せた時には『○○さん』と、呼んでみるか。苗字は知らないうえ例え先生と同じ桑島だとするなら、尚更名前で呼んでも問題はないだろう。

 先生は惣菜を頬張りながらもうんうんと嬉しそうに頷いていた。ああ、きっとあの人は先生にとって娘のような存在なのだろう。俺は恐らくそこには立てないが、別にそれでもいい。努力や成果を正しく評価されるのならそれでいいわけだ。それに見合った対価を俺に与えてくれるのなら、それで。

 願わくはその存在に、先生がなってくれたら。そして○○さんも、俺を認めてくれるようになればいい。
 俺の過去も思いもなにもかも知らないまま、今の俺を認めてくれるのなら、それで。


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