ひどく、酷く疲れていた。それはもう疲れるはずで、早朝から働きに出るためヒト特有の匂いが充満している満員電車へと乗り込む5日間。最悪の場合6日間になる場合だってある。会社へと到着し無心で働いたはいいものの、退勤時間は住宅街から晩御飯の香りが漂ってくる頃で。休日出勤は稀でもなにかと休日でも上司や同僚とつまらないうえにくだらない内容で呼び出され、いつの間にか接待気分だ。冤罪だとしか言えない責任転嫁の繰り返しで、まだまだ社会人として立場の弱い私はひたすらに頭を下げ駅のトイレでただ泣くばかりだった。会社のトイレ? 無駄に自動点灯付きで偉そうにしているおばさまの溜まり場と化してとてもじゃないけれど用を足す気にもならないのに、泣けるはずもない。

 いわゆる現代社会に疲れちゃった新社会人、というのはどうにも変えられないことで、辞めようにも言い出せる雰囲気でもなく相談できる友人も少ない。後者は私の友好関係を保てる余裕がなかった故の問題なので、これに関してもどうしようもないのだ。

 それはそうだ。昔から友人の名前を言い間違えるわ、なにかと誰かと間違えて声をかけてしまうような、男だったら一発アウトそのまま豚箱ホールインワンのようなことをしてきたからで。何故だか、私は昔からそうなのだ。

 明日は、久々の休みだというのに月に二度ある程度の休日出勤が確定している。これはまだいいのだ、なにせ退勤時に上司に『おねがい』されては新社会人としてイエスウーマンになる他ないし、前日に言われるなんてラッキー! とまで思える。しかも定時退勤だやったー!

 会社から一番近い駅は徒歩で20分だ。地味に遠いし退屈なうえに、未だ履き慣れていないせいかパンプスのくるぶし付近がとても痛いけれど、今日だけはこの時間が楽しめるだけの景色が――見慣れない景色が、そこには広がっていた。

 お祭りだ。

 小さい規模で開催されているのか、なんのお祭りなのかもわからないけれど、人は疎らではありながらも賑やかだ。どこか昭和だとかそのあたりの昔のお祭りを彷彿とさせるような音頭に、自然と足先は誘われるようにしてその場へと向かっていた。今日はなんだか良い事ばかりな気がする。

 あまいわたあめの匂いに香ばしく肉が焼ける匂い。ぐう、とお腹の虫が主張を始めてしまえば、これがなんのお祭りなのかを把握する前に新たなお目当てとなったじゃがバターの屋台へとふらふら、こっちはチョコバナナ、あっちはかき氷。大人になったらたくさん使うぞ! と意気込んでいたお金は、疲労が溜まる一方どんどんお金も増えていくばかりだった。いいことなのか悪い事なのか、なんなんだか。まあ、こんなお祭りなんて非日常のひとつを楽しまないわけにはいかないと、財布のひもをゆるゆると緩めていった。





 「……買いすぎた」

 明らかに一人で食べるには買い過ぎであるお祭り特有の包みを胸へ抱え、気付けば陽も翳り始めた頃で、眩しいくらいの茜空をした夕焼けは紫みがかった美しい青色が混ざり始めた。ぼうっと空を眺めて歩いていると、いつの間にかお祭りのメイン通りからは外れていて、賑やかな声は遠ざかっていた。

 昔から藤色がどこか苦手だった。匂いこそいいけれど、あの色を見ると胸がきゅっと苦しくなるのだ。この夕焼け、とても綺麗だけれど――もっと鮮やかで華やかな青が見たくなった。ぼうっとし過ぎたのか、ぽろっとひとつ零れ落ちかけたベビーカステラを慌てて腕でキャッチし、口に放り込む。う〜ん美味しい。あれ、ここってどこ? 駅に方面ではないことは確かだけれど。

 辺りを見回すと小さな神社があった。お祭りの近くにあると雰囲気が出るとかいう小ぶりな神社だ! なんて、子供のようなことを考えながら神社の前に立つ。食べ物を持ってるし、立ち入らない方がいいんだろうけれど……少しだけ荷物の整理をしたい。ということで失礼することにした。


 「こんばんは」
 「わ!?」


 過剰に驚いてしまった。なにせ神社の中から人に声をかけられたからだ。慌てて一歩下がれば、そこには愛らしい少女が居た。華やかな、浴衣? にしては丈が短いように思えるけれど。なんて、じろじろと見るのはたいへん失礼なうえに、子供相手とはいえ挨拶を返さないとなるともっと失礼に値する。

 「こ、んばんは。ええと、」
 「ふふ。買いすぎ〜」
 「え」

 にこにこと笑っている少女は、私の両手いっぱいに買い込んでしまったお祭りの戦利品を見て笑っていたようだ。なんて恥ずかしい! よく見ると、少女も狐の面を頭にかけていることからお祭りを楽しんでいた子のひとりなのだろうと思った。それにしてもその狐の面、やっぱり可愛い。私のはどこにいったんだろう。


 どこにって?






 「つかれちゃった?」
 「……え、」

 さっきから「え?」しか言えないのか? 聞き返せば上司や同僚に小言を並べられ、少しのミスも許されない厳しい職場。どんどん新人が辞めていく環境に、自分のやりたいことも出来ずに実のならない毎日を送る日々に、たしかに疲れていた。ええと、なんでこんな話に? 自分の口下手さに、少女相手に口籠ってしまっていた。なによりこの少女の姿から目が離せなくなっていたのだ。口籠る私を黙って見ていた少女は、私を通してなにかを見通しているかのようで。

 「平和の世のはずなのにね」

 私を、どこか慈しむように見ていた少女は目を伏せて、そんなことを言っていた。平和な世。本当に、平和だと思う。だれも声をあげないんだもの。だれも抵抗したり、実力で見返そうだとか思わず黙って働いてるんだもの。パワハラもモラハラを受けても、セクハラをされても。私もそのうちのひとりなのだから、声をあげない気持ちはわかる。あげられないんだ、自分の立場が弱くて惨めでそれを認めたくなくて恥ずかしくて情けなくて誰にも言えないんだ。平和というにはずうっとこわい世の中になってしまっていた。気付けば少女に「ねえ、」と声をかけていた。

 「なまえ、なんて言うの?」
 「まこも」
 「ま、こも」
 「うん、真菰だよ」

 それは幼い頃から私が無意識に口にしていた言葉、人の名前。まこも。真菰ちゃん、だ。幾度かまこも、まこもと口にすれば腕の力が緩んできたせいか次は焼きそばの袋が落ちかけていた。腕からずり落ちていく袋をどこかスローモーションのように感じながらも、いつの間にかに彼女が袋を持っていてくれた。より近くで見る少女は、私より背が低いのにどこかお姉さんのように思えた。薄く笑みを浮かべ「食いしん坊さんなの、変わらないね」と、言った。代わりに持ってくれているのか、いつの間にか片手が開くほどに袋を手提げていて、こんなお姉さんが欲しかったと思っていた。ううん、こんなお姉さんが居なかったのがおかしなことだった気さえする。

 学校にいるときも仕事中にも何度も感じていた脳内に靄がかかるような違和感が、次第に晴れていく。自分を頭上から見下ろしているかのような、変な感覚を覚えながらもその光景をぼうっと眺めていた。真菰ちゃんが私の空いたその手を取って、胸の前に持っていけばぎゅっと抱いてくれた。暖かくて、安心する。懐かしいあまい匂いだ。

 「○○ちゃん。名前呼んで?」
 「……真菰ちゃん」
 「うん……うん。……○○ちゃん」

 ちいさく「あいたかったよ」と呟いた真菰ちゃんに知らないうちに「私も、」と返す。毎日毎日毎夜、なぜだか涙が止まらずずうっと泣いているのに、今もはらはらと止まらない涙に気付いた真菰ちゃんは、そっと細い指先で拭ってくれる。指にすり寄ると、不思議と硬く――いや、不思議じゃないか。修行がんばってきたものね、ずっと。あの最終選別のときが来るまでは。

 「大丈夫だよ。一緒にいこっか」

 ひどく、ひどく安心した。鈴を転がすようなそれでいて凛とした声色が心地良くて、肩に顔を埋めるようにして目を閉じた。あえた、会えた。ずっと会いたかった。安心感に身を任せ、この先どうなってももう構わないのだと思えばそっと抱き寄せられた。

 次に目を開けたときには、きっと真菰ちゃんも、みんなともまた笑いあえるのだ。








以下蛇足設定

夢主
前世では鬼殺隊員で義勇や錆兎、真菰と同門である鱗滝水一門のひとり。義勇と同じく義勇では錆兎の死、夢主は真菰の死により原作義勇のように他人の死を背負っていた。無惨を打ち倒し鬼の居ない世になり、現世では記憶があるわけではないので普通に過ごしていたが、来世ではあるもののうっすらと記憶を取り戻しつつあった。運が悪いのか3人と産まれるタイミングがずれてしまい、ひとりで生きてきた夢主。そのせいか、どこか漠然とした寂しさや真菰に似た女の子を見かけると追いかけてしまうなど奇行が目立ち友人が出来なかった。大人になる頃にはすっかり無意識下に記憶があるせいか、仕事に追われる日々の疲れを癒せるはずもなくいた。食いしん坊なのはどの世でも同じ。泣き虫なのは今世だけ。

真菰
その昔の現世では夢主を探していたが、夢主とは出会えることなく一生を終えている。その後、狭霧山の跡地の近くで原作のような霊体となって夢主を探していた。探したといっても、夢主が幸せに暮らしているようなら何もせずに見守るつもりだったが、どう見ても現世に疲れ果てている姿に、身勝手とは思いながらも前世や前前世の後悔や未練から連れていくことに決めた。この後4人で生まれ変わってちゃんと平和な環境ですくすくと育つのだ。最後、今世の食べ物は持ち込めないので全部その場に置いてきてしまったことを知る夢主を慰めた。

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