(英日) イギリスの右斜め下で、先ほどから黒い頭がこくりこくりと船を漕いでいる。 あとを追うように揺れる髪の向こうで嘘のように白いうなじが露わになるので、だいぶ前から、画面の中で展開するストーリーは単なるBGMになりつつあった。 最後の台詞が、どうしても思い出せなくって。 そう言って日本が選んだのは、ワイン野郎とパスタ野郎のとこで作った古い映画だった。退屈で冗長なヌーベルヴァーグ。ドイツさんの家がロケ地で、などと日本は楽しげに語っていたが、イギリスにしてみれば心底どうでもいい話だ。 日本の手前、最初の数分は大人しく画面を睨んでいたが、危なっかしく船を漕ぎはじめた丸い頭に気づいてから、イギリスの興味は完全にそちらに移った。ブルスト野郎の家なぞより、隣を眺めているほうが断然楽しいに決まっている。 ――たとえば、ほそい首の付け根、丸い骨が浮き出たあたりのささやかな窪み。 ゆるい襟ぐりから覗く、カットソーの中へと続くなだらかな鎖骨のライン。 眠たいせいか、常よりほのかに色づいた小さい耳たぶ。 そういうすべてが、イギリスの心臓をきゅう、と優しく締め付けた。 疲れてんだろうなあ、と思う。 日本はわざわざ言ってこないが、この万年勤労者の休日が、かなり前倒しのスケジュールをこなして得たものであることは想像に難くない。労うつもりでそっと髪に指を通すと、絹糸のような滑らかな感触とともに、イギリスと同じシャンプーの香りがふわ、と漂った。 ――俺の。俺だけのために。 そう思うと、なんとも言えない熱が胸の内に広がって、さっきからイギリスの頬はむずむずと緩みっぱなしだった。 彼の休日を独占する権利を得たのは、自分たちの生からしたら本当に最近のことなのだ。その何百年にも及ぶ紆余曲折を思うと、未だに目頭がじん、と熱を持って、細い肢体をがむしゃらに掻き抱きたい衝動に襲われる。……ガキっぽいと自分でも思うが、いいかげん自分の泥沼のような執着心には自覚があった。 日本、にほん。 心中で愛しい名前を呼ばわりながら、イギリスは穏やかな寝息を立てる横顔にそっと唇を寄せた。日本は小さな子どもがするように、ん、と身じろいで、黒い睫毛を数回、ゆっくりと上下させる。スノウホワイトだな、と馬鹿な感想が浮かんだ。 「……ごめんなさい、眠ってしまって」 「悪いな、起こしちまって」 ちっとも悪びれていない言い方に、日本はおかしそうに笑う。 「わざとでしょうに」 「………これでも我慢したんだ」 ぶっきらぼうに言いながら、普段より幾分熱っぽい唇を軽く啄むと、うっとり瞳を閉じた日本から甘い吐息が漏れた。 「ふふ……今日は、優しいんですね」 「今日も、だろ」 反論の声ごと飲み込むように口づけたところで、終盤に差し掛かった劇中で大きなベルの音が鳴る。イギリスは日本の唇を食んだまま、片方の手でリモートコントロールを探り当てて電源を落とした。ブラックアウトする寸前、男優のセリフが上品なフランス語でささやかれる。 「私はあなたを愛していた」 ――それきり静かになった室内に、二人の立てるささやかな音だけが響いた。 おやすみのキスで目は覚めない by まよい庭火 20130821 (back) |