(ハインケルと由美子) 朝から降り続いていた冷たい雨は、私達が本部に戻るころには雪に変わっていた。 仕事を終えてローマに戻ったのは夕飯には遅すぎる時間で、私がそわそわとカーウィンドウを開けたり閉めたりする横で、ハインケルは晩餐にありつけそうもないことを嘆いて行儀悪く鼻をすすった。 案の定、行きつけのトラットリアはさっさと閉店してしまっていた。Oggi e Chiusoと書かれたプレートが虚しく風に揺れる前で、ハインケルががくりと項垂れて低く呻く。 「この国の奴らはどうしてこうなんだ……」 「わ、私、戻ったら何か作るよ」 「作るって言うほどの腕かよ」 「………」 あまりの言いように無言で刀の鞘に手をかけると、ハインケルは「いや、由美江よりはマシだけど」とちっともフォローにならないことを口走った。自分も全然料理なんかしないくせに。 ひとしきり文句を言い合いながら車を出して、川沿いの街路に差し掛かったところで、私はふと思い立って車を止めてもらった。確か、この辺りに遅くまで開いているデリが出来たはずだ。 料理をしないハインケルは、絶対に絶対に、知らないだろうけれど。 * * * 足早に買い出しから戻ると、ハインケルはなぜか車の外に出て煙草を蒸かしていた。普段は車内だろうが公共施設だろうがお構いなしにぷかぷかさせてるのに、と不思議に思っていると、足音に気付いてハインケルが振り返る。 「何やってる、遅いぞ由美子」 「ごめん……ちょっと足止めにあっちゃって」 「足止め?」 訝しんでいたハインケルは、私の抱える紙袋を見るなりにやりと笑った。 「なんだ、結局作らないつもりじゃないか」 どうしてわかったのか、紙袋の中には、誘惑に負けて買ってしまったパストラミ、カマンベール、ロメインレタス、ホワイトペッパーのサンドウィッチが二人分、お行儀良く収まっている。 「20ユーロ」 言い当てられたのが悔しくて手を差し出すと、嘘つけ、とあっさり看破された。 「まぁいい、修理代に上乗せして請求しておくよ」 「修理代? 何の?」 「エンジンがいかれた」 ああ、それで腹を立てて外に出ていたのか。 ぷかあ、と紫煙を上空に吐きだして、ハインケルは自嘲気味に笑う。 「こんなに身を粉にして働いているっていうのに、つくづく愛されないよな」 誰に、とは聞くまでもない。私たちが愛を乞う相手は、後にも先にもたった一人だけだ。 「……仕方ないよ。私たちは一生片思いの集団だもの」 私はそう言って、さっきのデリでおまけしてもらった、ホットワインのタンブラーを片方差し出した。ハインケルは素直に受け取って、咥えていた煙草を地面に捨てる。 「なんとも報われない話だ」 薄く積もった雪の上で、小さな火は音もなく消えた。 * * * コイントスで負けたハインケルが局長に連絡を入れると、たっぷり嫌味を言われたあと、それでも迎えを寄越すと約束してくれたらしい。珍しく仕事が首尾よく終わったから、機嫌が良いのかもしれない。 迎えを待つ間、雪よけに成り下がった寒い車内で、私たちはようやく晩餐にありついた。サンドウィッチは冷たかったけれど嘘みたいに美味しくて、あっという間に平らげてしまった。 遠くに見えるサン・ピエトロ聖堂とサンタンジェロ橋が、雪の中、輪郭のぼけた光に包まれて浮かんでいるのを、私たちは会話もなく見つめる。観光客好みにライトアップされた夜の景色を局長やハインケルはあまりよく思っていないみたいだけれど、私はひそかにお気に入りだ。 雪も、ヴァチカンも、隣で退屈そうに欠伸を噛み殺すハインケルも、今この空間を満たすものは、みんな私の好きなものばかり。 「雪のヴァチカンって、素敵」 そう漏らすと、ハインケルが小馬鹿にしたように笑った。 「ガキの頃から何にも変わらないのに、よく飽きないな」 どうでもいい、とルビがふってあるような言い草に、少しむっとする。 「何にもじゃ、ないよ。雪、珍しいじゃない」 「それだって初めてじゃあるまいし」 「でも……『私』は初めてだもの」 ふうん、と煙草を取り出しかけて、ハインケルはしばらく動作を止めてから勢いよくこちらを振り向いた。 「………お前、さっき言ってた足止めって、何してた」 ――やっと気付いた。私は不敵に笑ってみせる。 「別に。路地裏で酔っ払いに絡まれて、撃退しただけ」 「撃退って、じゃあ今お前、由美……」 続く言葉を遮って、私はハインケルの唇を塞いだ。冷たいけど弾力をもったそれは、煙草の味と、かすかに赤ワインの味がする。触れて、離して、また触れて。特別なことはしていないのに、お互い目に見えて体温が上がるのが、おかしくて、いとおしかった。 カーラジオも入らない深い静寂を、お互いが立てる音だけが支配する。 しばらく体温の交換を楽しんで、名残を惜しみながら離れると、憮然としたハインケルとサングラス越しに目が合う。 「………由美江。今度から、こうしたいなら最初から自分で言えって、由美子に伝えとけ」 それから由美子が暫くハインケルの前に出て来なくなって、ケンカのたびに備品を壊す私たちに局長が大目玉をくらわすのは、また別の話。 不完全原罪 20170119 加筆 2013502 原作読了&OVA視聴記念 (back) |