(神子と布都) 「布都」 名を呼ばれて、布都は逡巡したのち、顔を伏せたまま短く返事をした。 先ほどから身の置き場がないほど緊張をしているせいか、返事は情けなく裏返って、布都はなかば泣きそうになる。 夜半、呼びつけられておっとり刀で駆けつけた布都が通されたのは、彼女の寝殿だった。 本来であれば、一介の部下に過ぎない布都にはあり得ない待遇だ。しかも、表向きの政敵となれば、尚のこと。 「顔を上げてよ」 布都の気を知ってか知らずか、笑みを含んだ声は常になく柔らかい。 苦し紛れにはい、と返事をしてみるけれど、とてもではないが、火を噴かんばかりに火照った顔など上げられそうになかった。 布都の侍っている下座には明かりが入っているが、神子のいる寝所は御簾に隔てられて仄暗い。 あちらにはこちらの様子は筒抜けなのだ。そう思うと、布都にはもう、身じろぎをするのも恐ろしいことのように思えた。 「……貴方は律儀ね」 諦めたように笑った神子の、衣擦れの音が息を呑むほど近い。――緊張のせいで、息がうまく吸えなくて眩暈がする。 「前からずっと言いたかったのだけど。貴方も屠自古も、私を甘やかしすぎるのよ」 次いで、しゃらり、と御簾をくぐる音。焚きしめた香が、空気の動きに合わせて重く舞う気配。 「でも、私にとって、それは突き放されるのと同義だわ」 言いながら神子は、布都の方へ音もなく歩みを進める。風を受けた明かりの炎が二人の影を頼りなく揺らして、神子の影が大きくなったり小さくなったりしながら、ゆっくりと布都の身体に重なる。 「だから私は、貴方たちに、いっそ醜いくらい縋ってしまう……」 身を屈ませた神子の、吐息が耳元にかかる。心臓が馬鹿みたいに煩くて、神子の言葉が頭に入らない。 「可愛い、私の布都」 どこか陶然と呼ばれて、布都の頬に骨ばった手のひらが重ねられた。布都は瞳を固く閉じて、いよいよ身体を強張らせる。神子はそんな布都の紅潮した頬を慈しむように撫でたあと、指先をするりと喉首に絡ませた。 その不穏な手つきに、布都はぎょっとして神子を仰ぎ見る。 「太子、さま?」 見上げた先で、神子は静かに布都を見下ろしていた。色を失った相貌の中で、瞳だけが炎を映して爛々とあかい。 その異様なさまに、布都は思わず後ずさろうとして、それが叶わぬことに気付いた。いつの間にか、神子の両手は輪をつくるように布都の首にかけられている。――逃げられない。 「可愛くて、愚かな布都」 細い、長い指が首の肉に食い込む。なんとかせねば、と心は急くのに、布都の身体は金縛りにあったように動かない。徐々に気道が狭められて、息苦しさから生理的な涙が浮かぶ。 「た、太子さ……」 「ねえ、お願い」 滲む視界の中で、神子はまるで頭の足りない稚児のように、無邪気に笑っていた。 「私のために、死んでみてくれないかしら?」 グッバイスリープ、ストレイシープ by まよい庭火 20120628 (back) |