(夏黄文と紅玉) 輿入れが決まってからというもの、姫君は物思いに耽ることが増えた。今も筆を持つ手を止めては、愁いの表情で小さな唇からしきりと溜息をこぼしている。 「姫君、頬杖はお行儀が悪いですよ」 「そうねぇ……」 「そこ、同じ行を書き写しておいでです」 「そうねぇ……」 「……そのままでいるとお召し物が汚れますが」 よろしいので? そう、筆先から卓上に滴る墨汁を指して言うと、姫君はようやくはっとしたように顔をあげた。 「あっやだ、ちょっと、早く言いなさいよぉ」 返事の代わり、とばかりわざとらしい咳払いをひとつして、私は慌ただしく袖を検分している姫君に向き直る。 「姫君。思うところがおありなのは分かりますが、今は授業中であります。公私はきちんと分別いただかないと困ります」 ぴしゃりと言うと、姫君は憮然として、わかってるわよぉ! と栗鼠のように頬を膨らませた。が、すぐにしゅるしゅると空気を萎ませる。 「思うところなんて、ないもの……」 そう言ってまた頬杖をついてぼうっと窓の外を眺めるので、私も浅く嘆息してから教本を閉じた。 姫の嫁ぎ先であるバルバッドは、近頃宮中でもとみに名を聞くようになった、西方の王政国家だ。繁栄の礎を築いた先王の子、アブマド王は暗愚だと専らの噂だが、姫君の耳には入れていなかった。 姫君は、婚姻という事象そのものに戸惑っておられるのだ。 私としては、皇女に仕えると決まってから、この日が来ることは当然想定の内だった。 最低でも位の高い有力諸将か、叶うものなら王侯貴族のもとへ。来たるべき日のために、私はおおよそ姫らしからぬ風采であった紅玉姫を、できるだけ宮中で見劣りしないよう心血を注ぎ教育した。 甲斐あって、と言うべきか。姫君は、それはご立派に育たれた。身内の贔屓目に見ても、容色は麗しく可憐で、他の姫の及ぶべくもない。芸事のみならず武芸にも秀で、私のような出自賤しい者にも分け隔てなく接する優しさをお持ちだ。……惜しむらくは、あまり勉学を好まれなかったことぐらいである。 はっきり申し上げて姫君は無知で世間知らずで浅はか、無防備なこと無垢な赤子の如しである。これがただの男女であれば、その方が却って良いように働く、ということがあるかもしれない。姫君の前ではとても言えないが、古今東西、男とは例に洩れずそういうものだろう。しかし、此度の縁談は、ただの縁談ではない。国の政策に関わる問題であるし、何より、私が喉から手が出るほど欲した千載一遇の機会、宿願である。 姫君にはいま少し、自覚を持ってしゃんとしてほしいところである。 * * * 午前の授業を終えて、私たちはそれぞれの部屋で昼餉を済ませた。 このあとの予定は日によってまちまちだが、刻限になっても中庭に呼び出されないところを見ると、どうやら今日の所望は鍛錬の相手ではないらしい。 最近は鬱憤が溜まっているのか以前に輪をかけて武芸に励まれるのだが、こちらとしては嫁入り前の身に何かあってはひとたまりもないので、召集がないのは喜ばしいことであった。 そんなことを考えていると、自室の戸を控えめに叩く音がした。ぬか喜びであったか、と内心落胆して応じると、姫君付きの新参の女官が、もじもじと佇まいを直している。不審に思いつつ用向きを尋ねると、女官はしばらく言い難げにしたあと、真っ赤な顔を伏せて、姫様が寝所にお呼びです、と蚊の鳴くような声を上げた。 ――今日はそちらか。 私は頭を抱えたいのを堪え、すぐ参ると伝えるように言って女官を追い出した。 ……断っておくが、余人が思うような疚しいところは一切ない。 姫君は時折、衣装合わせのために自室に私をお呼びになるのだ。初めのうちこそ男の身でそのような場に居合わせることに抵抗があったが、これも出世のためと諦めて久しい。そして、こと出世に関する事柄において、私は甚だ勤勉だった。 姫君に乞われるまま、私は衣服についてのあらゆる書物を繙き、名前や色かたち、由来や用途にいたるまで、その知識を余さず姫君に伝えた。普段はあれだけ勉学を毛嫌いされているくせに、衣服の装いについては、姫君は非常に優秀な生徒であった。 自然の流れとして、私の他に寄る辺のない姫君は、私の見立てにも全幅の信頼を置くようになった。 私がその赤は下品だと言えば、姫君は次から絶対にその色を纏わなかったし、その縫製は安っぽいと言えば、仕立てた者を呼び出して叱責したりもした。 それはまるで、雛鳥の刷り込みによく似ていた。 * * * 寝所の前につくと、先ほどの女官のほか、事情の分からぬ数名が押し殺した好奇の眼差しでこちらの様子を伺っていた。私は無視を決め込むことにし、扉の方を向いて参じた旨を恭しく奏上する。 「夏黄文、お呼びにより罷り越しました」 「入っていいわよぉ」 中から声がかかったので、いつものように扉を押し開く。毎度のことながら、誤解を与える呼び出しに文句のひとつでも言ってやろうと口を開きかけ、突如視界に飛び込んできたまばゆさに、私は思わず言葉をなくした。 思ってもみないことに、部屋の中の姫君は、純白の花嫁衣装を纏って立っていたのだ。 窓から注ぐ光を残らず絡めたような白絹の生地は繻子織で、日差しの中、七色の光沢を放っている。袖口と裾には色糸でうるさくない程度に花の意匠の刺繍が施され、少し見ただけでも、熟練の職工の手によるものだと知れた。 「お兄様付きの女官が、先ほど運んでくれたの」 姫君は恥じらって両袖を口元に運んでから、小さく言った。袖口の花が、綻ぶように揺れる。 「わざわざ、お兄様が見立ててくだすったんですって。ねぇ……わたくし、ちゃんと似合っているかしら」 お美しい。可憐だ。見目麗しい。 この少女に仕えてから幾度となく口にしたそれらの言葉は、なぜか喉の奥に引っかかってついに出てこなかった。呆けたように瞬きを繰り返すだけの私を、焦れた姫君が軽く睨む。 「……ちょっと夏黄文、何とか言いなさいよぉ」 「ああ、失礼。良くお似合いであります」 我に返って発した言葉は、存外空虚で、取り繕うような声音になってしまった。姫君は一変して、おろおろと自身の姿を検分し始める。 「や、やっぱりおかしいかしら? あ、いいえ、お兄様のご趣味を悪く言うわけじゃないのだけれど、ほら、わたくしがいつも着ている着物とだいぶ形が違うから……」 そんなことはありません、可憐な姫に大変良くお似合いでございますよ。 「ええ些かも似合っておりませんね」 「えっ?」 「えっ?」 なぜか、疑問の声は男女二人分上がった。 驚愕のあまり表情を固まらせている姫とおそらく同じだけ……否、もしかしたらそれ以上驚いて、私は思わず扇を口元にやる。もちろん、今さら口を覆ったところで手遅れである。いや、ちょっと待て。今さっき、私は何と。 狼狽して動けないでいる私の目の前で、姫の頬は紅を差したようにさっと赤くなった。同じ速さで、零れんばかりに見開かれた瞳の淵が、涙でみるみるうちに盛り上がる。――ああ、これはまずい。 久しく見ていなかった姫の泣き顔に、私は本気で青くなった。なんとかこの修羅場を打開する策を練らねば……散らかった思考がまとまるより先に、焦った口が動いた。 「紅玉姫。まことに僭越ながら、私めには兄王様の選定は些か少女趣味に過ぎるかと思われます。これでは、花も恥じらう妙齢の姫の色香を殺してしまいますし、第一姫君のご趣味にはそぐわないでしょう。花嫁衣装を纏うのは一生に一度きりでありますれば、姫ご自身も納得のいかれる最上の衣服を召された方がよろしいかと。兄王様に置かれましても、それをお望みのはずであります。したがって、此度の衣装は私が見立てなおして差し上げましょう」 すらすらとどこから出たのか、気づけば私は更にとんでもないことを口走っていた。まこと、首が飛んでもおかしくない僭越だ――私ごときのどこに、兄王様の選定を覆す力があるというのか。 「夏黄文が……?」 そう言って、姫君は決壊寸前の瞳を見開いて、私をじっと見上げた。長い睫毛に涙の雫が乗って、きらきらと光る。その澄み切った視線に居た堪れなくなった私は、逡巡ののち、逃れるように頭を垂れた。 「失礼……大変差し出たことを申し上げました」 冷静になるにつれ、強烈な羞恥が私の胸裏に襲来した。なにが、納得のいく最上の衣服、だ。姫君が紅炎様に選んでいただいた衣装を、喜ばぬはずがないのは自明ではないか。 そもそも此度の婚儀は、父王様だけでなく兄王様の意向も含まれている。姫君が気丈にも文句の一つも言わないのは、もちろん立場のこともあるが、兄王様のため、という思いがあるからに相違ない。そんな兄思いのいたいけな少女に、私は何を言った。尤もらしいことを並べ立てて、似合わぬ、そぐわぬと。ずいぶん好き勝手を言いはしなかったか。 大馬鹿者である。 姫の無辜の信頼を良いことに、まるで我が物のように扱った愚かさに、顔から火が出る思いだ。……いや、初めから、薄々気づいていたのだ。花嫁衣装の姫を見たとき、私の胸の内に渦巻いたものの正体。 これは、私の身勝手な妬心だ。 「夏黄文は、辛口ねぇ」 ずぶずぶと暗い思考に沈んでいく私に、姫のどこか呑気な声が届いた。思わず仰ぐと、まだにわかに紅潮した顔で、姫が感心したようにこちらを見つめている。 「申し訳ない、であります」 しどろもどろに詫びると、姫は可笑しそうに袖を口元に運んだ。 「いやねぇ、今さら謝らないで頂戴。……それに、すごく、嬉しいの」 姫君はひとしきり笑ってから、静かに瞳を伏せた。 「わたくしね……なんだか、自分ひとりだけでバルバッドに行くような気がしていたの。婚姻も、外交も、まつりごとも、全部わたくしがしっかり仕切らなければ、って。そう思ったらすごく……怖くなったわ。だってわたくし、今まで一度だって、そんなのひとりでやってこれたこと、なかったんだもの……」 言いながら、堰を切ったように大粒の涙をほろほろと零す姫君を、私は黙って見つめた。 もっと、少女らしい感傷に沈んでいるのだと思っていた。顔も知らぬ相手と、だの、大国から小国の王妃へと零落して、贅沢ができないだの。勝手に、そう思っていたのだ。 本当に、大馬鹿者である。 立身出世に躍起になっていた私の横で、この少女はずっと、その身には重すぎる責務を不安に思っていたのだ。その、小さな御身で。そう思うと、胸がつぶれるような心地がした。 「ふふ、馬鹿ね、今思うと、なんでそんな気がしていたのかしら……わたくしには、いつも夏黄文がいてくれるのに」 少し口うるさいけれど、照れくさそうにそう言って、姫君は赤く染まった頬を涙に濡らして、柔らかく微笑んだ。 ――そのとき。午後のとけるような陽光を纏った純白の花嫁は、まるで私の知らない女性のようであった。 おかしなことだが、私は今さらながら花嫁姿の少女と二人きりであることに思い至って、居心地の悪い咳払いをひとつした。ぼんやりと、大人になられたのだ、と感慨を噛みしめる。さみしいような、こそばゆいような。うまく言えぬが、暴れる子猫を胸に抱いているような、妙な心地であった。 「……ああ、お話ししたら少し気が楽になったわぁ。あ、でもねぇ、夏黄文。わたくしはともかく、お兄様を悪く言ってはダメよぉ。どこで誰が聞いているかわからないもの」 「う」 的外れな叱責に、私は思わず言葉を詰まらせた。今まで、出世のため、数多の高貴なクソ野郎どもの顔色を窺いつづけてきた私である。もちろん、姫君のような小娘に言われるまでもなく、そんなことはとっくに弁えていた。……が、 まさか、嫉妬して、もののはずみで、とは死んでも言えないので、私は大人しく頭を垂れる。 「は……以後、気を付けるであります……」 苦々しく答えた私に満足したように、姫君はいいこね、と上機嫌に笑った。いつもと立場が逆転したのが嬉しいのかもしれない。その上機嫌のまま姫君は私に歩み寄り、そっと私の手にご自身の手のひらを添えた。そして、 「罰として、わたくしがどこに行っても、貴方はずっと一緒にいるの。いいわね?」 そんな、凶悪な言葉を、満面の笑みで言ってのけたのだ。 「ひ、姫君! それは……」 それは、そのような格好で、のたまう言葉ではない! 内心で悲鳴を上げて、私は間抜けにも狼狽えて口をはくはくと開閉させた。 「……ちょっとぉ、お返事は?」 焦れた姫君は、少し背伸びして、覗き込むように顔を近づける。近い。あまりに暴力的な距離に、頭が煮える。 これでは、まるで。誓いのようではないか。 「ご、ご用命とあらば、どこへなりともお供いたします……っ」 必死に顔を背け、やっとのことでそれだけ絞り出すと、姫は不服そうにすん、と鼻を鳴らした。 「いやよぉ、そんなの命じないわ。わたくしと夏黄文との、お約束だもの」 私の生涯を賭した野望は、出世ののち、相応の家格の適当な女を娶って子を成し、我が氏族を煌に夏氏あり、と言わしめることであったのだが。 どうやら、この少女に一生を捧げるほかないらしい。 羽化 20170119 加筆 20130826 (back) |