(墺と洪) 東風が梢を揺らして、岸辺をざわざわと撫でて過ぎる。 ライタの河原にひとり佇んでいたオーストリアは、川面を渡る風に身震いをひとつして、ケープの前をかき合わせた。彼の立つ西岸では、地平に接した太陽がまるで炎のように燻っている。上空は既に濃紺に染まって、ひとつ、ふたつ、冷たい色の星が瞬きはじめていた。 その数をかぞえながらため息に似た吐息を漏らしたのと、近くで草を踏む乾いた音がしたのは、ほぼ同時だった。 目線を戻したオーストリアの視界の端で、ウェーブのかかった柔らかい栗毛がふわり、甘い香りをのぼらせて翻る。その意味を考えるよりも早く、警鐘を鳴らした心臓がオーストリアの身体を動かしていた。 きぃん。 咄嗟に腰から剣を抜いて翳すと、案の定、柄を取り落としそうになるほどの衝撃とともに、澄んだ金属音が辺りに響く。思わず片膝をついたオーストリアが態勢を立て直す前に、相手はひゅう、と口笛をひとつ鳴らして、弾かれた反動のまま距離を取る。次の一撃が来れば確実に間に合わない。が、追撃がないことをほぼ確信していたオーストリアは、態とらしくゆっくりと身体を起こして服についた埃を払った。 シュトゥルム・ウント・ドラング。――出会いがしらにこんなことをする手合いの、心当たりはごく少数だ。 「まったく、そちらから呼び出したくせに随分な挨拶ですね」 「おう、よく止めたじゃねえか」 睨みつけた先で、相手、ハンガリーは、全く悪びれる様子もなく感心したように言った。 猫のように大きな緑の瞳が、夕陽を映して複雑な色合いに光る。宝石のようだ、という感想は固く胸の内にしまって、オーストリアはできるだけ難しい表情をつくって剣を鞘に収めた。 「本意ではなかったのですが。誰かさんに、嫌というほど痛めつけられましたからね」 「へえー。じゃあ、その誰かさんには頭が上がんねえな」 「それはもう。いつかお礼に足元を掬って差し上げる予定です」 「は、抜かせ。いつかって、何百年かかる話だ」 そう笑って、ハンガリーは不自然に口をつぐんだ。それは時間にすれば一秒にも満たないわずかの沈黙だったが、大方の察しのついたオーストリアは、静かにかぶりを振って、浅い溜息を洩らした。 そもそも、はじめから痛々しい強がりに気付かぬほど、短い付き合いではないのだ。 「……もういいでしょう。冗句のほかに、私に何か言うべきことがあって来たのではないですか」 その声に、ハンガリーの笑みが消えた。 冷たい風がざあ、と川面を渡って、辺りの草木を落ち着きなく騒がせる。長い髪が風に浚われるのもそのままに、ハンガリーは俯き、やがて口を開いた。 「……ブダが、陥落した」 戦況を知らぬわけではないオーストリアは、無言で続きを待った。独白のような調子で、ハンガリーは淡々と続ける。 「王が身罷ってから、諸侯の意見が割れている。この隙に乗じて、トランシルヴァニアのヤーノシュが後ろ盾をオスマン側に求めるのは明白だ……ことによっては、そういうことになるかもしれない」 なあ、坊ちゃん。 そう呼ばわって、ハンガリーはゆっくりと顔を上げた。 夕陽はすっかり西の地平に姿を消していた。二人の姿は暗がりの中に滲んで、ハンガリーの表情も、美しい緑眼も、オーストリアからはもうよく見えない。 「王も都も失った国ってのは、どうなっちまうんだろう」 だから、ハンガリーがどんな思いでそんな台詞を吐いたのか、オーストリアにはわからない。けれど、向き合った姿はひどく小さく映って、まるで家路を失って、途方に暮れた幼子のようだと思った。 問いかけに答えないまま、オーストリアは無言でハンガリーの方へ歩み寄る。草を踏む音の数だけ近づいて、二人は至近距離で向かい合う。 月のない宵闇。ぼやけた輪郭を確かめるように、オーストリアは自然に相手の方に手を伸ばし、仄白く浮かぶ頬に手を当てた。 儀式めいた仕草に、ハンガリーの瞳がわずかに揺れた。その双眸にオーストリアのアメジストの瞳が映り込むほど、二人の距離は近い。許したことのない距離にハンガリーが物言いたげに唇を震わせ、その動きに誘われるように、オーストリアの指先がそっとハンガリーの冷たい、乾いた唇に触れた。 そのまま右手が頤に添えられてはじめて、ハンガリーはか細い声で彼の名を呼んだ。 「オーストリア……?」 それはどこか、縋るような甘さを含んだ声だった。オーストリアはその響きにひどく内心を波立たせながら、それでも表では取り繕った冷たい表情で、眉一つ動かさずに言い放った。 「抵抗くらい見せるかと思いましたが。トルコに躙られ、矜持も失ったらしい」 ハンガリーの頤を支えたまま、オーストリアは小さな耳元に唇を寄せて、低く囁く。 「見損ないましたよ、マジャルオルサーグ」 途端、凪いだ湖面に石を落とされたように、ハンガリーは、はっと瞠目した。 凍って凝っていた血が、誇り高き騎馬の民の血が、沸き上がり、身体中を巡って、ハンガリーの心臓を痛いくらいに叩く。 「トルコに諂った次は私ですか? 馬上の雄も、馬を下りればただの人ですね」 「……ちがう、」 「かような腑抜けた国を冠する民は憐れです」 「違う! 違う!!」 相手の胸を突き飛ばして、ハンガリーは吼えた。全力で駆けたあとのように、息がうまく継げず、あとからあとから、涙がぽろぽろと溢れて頬を濡らす。全身が鼓動を打って、燃え立つように熱い。 「マジャールの民は、心に王を飼う不跪の民だ――たとえ四肢を千切られたって、何人もその心までは奪えない!」 ふうふうと息を弾ませて、ハンガリーは射るようにオーストリアを睨んだ。紅潮した頬を涙の雫がすべって音もなく落ちるのを、オーストリアは眩しいものを見るように瞳を眇めて見つめた。 握った拳、引き結んだ唇、風に靡く髪の毛先。小さな身体すべてで憤り、悲しみ、命を燃やしているその姿を、とてもきれいだと思う。 「それでこそ、わが盟友です」 名残を惜しむように柔らかな髪を数筋、指先に絡めてから、オーストリアは拒まれた手を引いて微笑んだ。 「大体、貴方のようなしぶとい国が、そんなに往生際良く消えて亡くなるものですか。それに、貴方との間には、当分清算できない貸し借りがあるのです。一方的に踏み倒されては困ります」 存外優しい声音に勢いを削がれたハンガリーは、次第に息を整え、相手をまじまじと見つめ返す。 叱って、くれたのか。 そう思った瞬間、胸に広がったのは先ほどまでの猛るような熱ではなく、暖かい温度の何かだった。仔猫の体温のようなそれにうまく名前が与えられないまま、ハンガリーは思わずオーストリアから一歩後ずさり、顔をそらす。弱みを見せたことよりも、先ほどの互いの距離の近さが思い出されて、ひどく面はゆかった。 「坊ちゃんのくせに、好き放題言いやがって」 乱暴に目許を擦りながら小さく呟いたハンガリーに、オーストリアはおや、とわざとらしく澄ました顔をつくった。 「百年と待たず、足元を掬えたようで何よりです」 「……ばかやろう」 ハンガリーは真っ赤な顔のまま悪態をつくと、意を決したようにすっと面を上げた。そして、一度しか言わねえぞ、と断ってから、 「礼を言う、ライターントゥール」 そう、はっきりした口調で言った。 互いの間だけの呼称にはっとして、オーストリアはハンガリーを見遣る。その視線を受けて、ハンガリーはさみしく微笑んだ。 「マジャールの魂は死なない。けれど、もし俺の名が変わってしまったら、この名で呼んでくれないか。そうしたら、きっと今日のことを思い出すから……きっと」 ライターントゥールと、ライターニンネン。トランスライタニエンと、ティスライタニエン。 二人を別つライタ川の、彼岸と此岸。それはそのまま、互いの民が相手の国を呼びあらわした、非公式な名前だった。 消滅こそ免れても、きっと今度の戦いで、ハンガリーも、もしかしたらオーストリアも、今までどおりの姿ではいられなくなる。名前も容姿も、性質さえ変化するのは、自分たちの身の上にはありふれた話だから。 それでも、二人はそれぞれの岸へと帰らなくてはならない。 それぞれの戦いに、身を投じるために。 オーストリアはきつく瞳を閉じて、やがて決心したように、深く息をついた。 「……無事の帰還を、トランスライタニエン。私も、今日のことを覚えていましょう」 しばし見つめあった後、二人はどちらからともなく歩み寄って、互いの背に腕をまわした。星空の下、二つの影が一瞬だけ一つに重なり、すぐに離れる。 「じゃあな」 「ええ、息災で」 短いやり取りだけ残して、二人は踵を返し、それぞれがやって来た方向へと歩みを進めた。 ふたりを別つライタ川の、彼岸と此岸。互いの国に帰るために。 対岸のふたり お互いの呼称がツボすぎたので… 20170119 加筆 20140205 (back) |