無題



 財前光という名の男の頭の中にはどうやら竜崎桜乃という少女のことしか入っていないようだ。ここ最近の財前の様子は四天宝寺のテニス部メンバーを悩ませることとなっていた。
 竜崎桜乃という少女は財前の彼女で東京に住んでいるという。そして財前は大阪。この距離の差から財前はあまり彼女に会うことができない。つまり、財前は今桜乃不足病という病気にかかっていた。授業中にも関わらずぼーっと外を眺めて先生に怒られたり、昼休みは話しかけてもうんともすんとも言わずただ黙って昼食のおかずを口にしているだけ、もちろんその時もぼーっとしているが。そしてあろうことかテニスの練習の時間までもぼーっとしていて顔面にボールが当たることは数多い。しかも常に独り言で「桜乃に会いたい、桜乃に会いたい」と呪文のように繰り返している。これを誤って聞いてしまったものは、皆次の日必ず学校へ来たくなくなるという伝説さえできてしまったくらいだ。と、まあこんな感じで財前は魂が抜けたみたいにいつもの財前ではないのだ。

「なあ、アレどないするん?」
「せやなぁ。ほっといてもラチあかんもんなぁ」

 ここらでどうにかしないと次いつ恋人に会えるかも分からないのに次会うまで財前がこのままだったらさすがにマズイ。私生活も部活も何もかも。第一魂がない奴が隣にいるなんて気味が悪い。しかも、あの財前だとなおさらだ。

「せやかて、彼女東京におんのやろ。会いに行け言うてもなぁ」
「うーん…せやけど、アイツの桜乃ちゃん不足も相当のもんや。やっぱり会わせたろうや」

 その一週間後、電話して頼んでおいたとおり桜乃ちゃんは財前に会いに東京から大阪まで来た。でも、これはまだ財前には内緒にしてある。「財前は桜乃ちゃんじゃないと治せん病気にかかってしもたんや」と言ったら「すぐ行きます!」という彼女の慌てた声が返ってきたことを思い出して少し苦笑いをする。財前も財前でちゃんと愛されてるんやなあと先輩としてしみじみ思った。
 しかし財前から聞いた話だと桜乃ちゃんは超がつくほどの方向音痴で東京に行ったときは空港で待ち合わせとかではなく必ず桜乃ちゃんの家まで迎えに行くそうだ。そこまでヤバいのかと聞いてみればケロッとした顔ではあるものの声はすごく真剣に「今でも道に迷ってないか心配ですわ」と言った。そこで俺たちは空港まで迎えに行くことにした。案の定駅に着いた桜乃ちゃんは道が分からないのかウロウロしていてそれでいてすごく慌てた様子だった。早く財前の傍に行きたい、とでも思っているのだろう。

「さーくのちゃん」
「ひゃあ!あ、白石部長と忍足さん!」

 桜乃ちゃんは俺らの顔を見るともう安心しきったような驚いたような顔をした。一体どれくらい迷っていたんだろうか。しかも桜乃ちゃんにしては珍しく、久しぶりに会えたというのに世間話もしないでいち早く、それでいて遠慮気味に財前の居場所はどこかと言ってきた。うわぁ、本当この二人相思相愛やね。って冗談言ってる場合じゃなくて。一刻も早く財前と桜乃ちゃんを会わせないとえらいめにあってまう。

「あーえっと、話しはあとや。とりあえず財前のとこ案内するから着いて来てくれへん?」
「あ、はい!分かりました!お願いします!財前さんに、会わせてください…!」

 ほんまにええ子やね。財前もこんな子に想われていて幸せもんやわ。財前も驚くやろなぁ。桜乃ちゃんがお前に会いにはるばる大阪まで来たって知ったら。財前のあの魂が戻ったような驚いた顔、想像するだけで笑いが込み上げてくる。財前に今のうちに借りを作っとくことはええことや。

「あの…あとどれくらいで着きますか?」
「ん、もうすぐや。ほれ、あそこを曲がったら…あっ!」

 今学校からものすごいスピードの黒い影が俺らの横を通りすぎて行った。その黒い影がなんなのか、聞かなくても一発で分かった。財前や。アイツ、とうとう我慢の限界がきたか。きっと今頃は桜乃ちゃんに会いに行くために空港へ向かっているのだろう。むちゃくちゃなヤツや。お前が会いたがってる桜乃ちゃんはここにおるのに。とりあえずもうすでに見えなくなってしまった財前を連れ戻さなければいけないという仕事が増えてしまったことに肩を落とす。しかしそうもしてられないので、めんどくさいと頭を掻いて浪速のスピードスターの謙也が猛スピードで財前の跡を追った。

「あかん、財前のやつ、行ってもーた。堪忍な、桜乃ちゃん」
「いえ、大丈夫ですけど…」
「大丈夫や。もうじき財前に会えるで」
「…はい!ありがとうございます!」

 それにしても、手がかかる後輩や。めちゃくちゃ会いたがってた彼女が目の前におるっちゅうのに目は東京に向いていて彼女をスルーして行ってしまうなんて、ありえへんやろ。ちゅーかアホすぎやで。俺が奪ってまうで、なんて何されるか怖くて冗談でも言えんな。
 とりあえず、今は財前、お前に同情するで。桜乃ちゃんに会いたくて会いたくてめっちゃ会いたくてあないになってしまったんやな。好きな女に会いたい気持ち、俺にも分かるで。俺だって桜乃ちゃんに会いたくて会いたくて、もう夜も眠れんくらいに…おっと、じゃなくて…今回はお前のために人肌脱いだるからな!待っとれ、財前!

(あとで桜乃ちゃん、褒めてくれるやろか…)

 そう心で呟き忍足謙也は風のごとく走り続けた。


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