fortress around my heart 2







 恐怖と、ある種の協定を結んだのだ。狐を前にした兎みたいに身がすくんで、動けなくなりそうなときでも、冷静でいられるように。

 海賊になると決めた日から、シャンクスは恐怖心を手懐ける努力をしてきた。ロジャーが処刑された日からは、怯ている余裕さえなかった。どんなに過酷な状況でも、自分で足を踏み出さない限り、他人の助けなんて期待できなかったから。

 海が彼の母だった。
 彼女の胸に抱かれていると思うと一人ぼっちでも寂しさなんて感じなかったし、嵐の海も地の底を割る海峡にも、本当の意味での恐怖を感じたことはなかった。海の恐ろしさを侮っていた訳ではないが、海には自分の家族のような愛情を抱いていて、敬意を払いつつ親しみを覚えていた。

 しかし今、シャンクスは混乱しきっていた。

 重い水圧に押しつぶされた肺は限界で、空気を求めて開いた口からは塩辛い海水が押し入ってきた。鼻の奥がツンと痛み、耳にまで入り込んだ水は猛獣の雄叫びのような潮の激しさをがなりたてた。
 胸に抱き込んだベックマンの猟銃を、離さないようにすることが精一杯で、しかし激流と水圧はシャンクスのまだ華奢な身体をますます小さく押しつぶそうとしていたから、どのみち身体を丸くちぢこませる以外に方法はなかった。

 これが海か。

 親しくしていた友人が突如変貌し、悪意を剥いて襲い掛かってきたような恐怖だった。

 激流の向こうに影が見えた。シャンクスにはこれ以上の怯える余地もないくらいだった。わかっていた。さっきの海王類がいた。彼を見ていた。彼の身体ほどもあるその巨大な黒い目はまるで弧空だった。シャンクスは重たい水をかき分けようと虚しくあがいたが、腕も足も他人のもののようで、目の前に無慈悲に広がるのは闇ばかりだった。

 これほどの暗闇が存在するなんて、彼は今まで知らなかった。
 身体中の酸素が尽きていた。
 諦めるのは嫌だった。
 諦めることだけはしたくなかった。
 悲鳴を上げたつもりだったが、それも濤聲に飲み込まれ、潮の渦に溶けていった。


 船長。

 失うことを学んできた。
 無くしたものを数えずに、先に進む術を学んできた。
 時をかけずに失い、受け入れる術を学んできた。
 失うことを学ぶ過程で、例え何を失ったとしても、前に進むのを諦めることだけは絶対にしてはいけないと、自然に考えるようになった。

 ロジャーが処刑されたときにシャンクスはすべてを失った。その日まで当り前のものとして彼を支えてくれた仲間を、船を、場所を、師を、最愛の拠り所が、彼の目の前で為す術もなく解体されていった。そうなるべきだとわかっていたから、彼は黙って受け入れた。
 ロジャーやレイリーの前では笑っていたけど、処刑の日には泣かないでいるのは難しかった。
 悲しかったのではなかったように思われた。船長は素晴らしい人生を生き、一つの時代の幕開けとなるほどの偉大なことを成し遂げて、悔いなく死を受け入れたのだから、シャンクスは尊敬と愛情のために胸が詰まって泣いたのだ。

 広い世界で10代の少年が一人で生きていくのは、根が楽天的な彼が考えるほど、容易なことではなかった。今まで守ってくれた年長者たちもいない。
 もともと海賊として生きていく決意だったから、まっとうに金を稼ぐなんて思いもよらなかったし、黴びたパンのためにリンチにあったこともある。善意だけで世界が回っているはずもないのだ。

 騙されたし、裏切られた。まるで人間でないような扱いを受けた。そして世界中に憎まれている感覚に襲われるほどに、悪意に満ちた人々がいた。
 失敗ばかり、はい上がろうとする努力のすべてが、裏目にでた。解決策なんてどこにもないようで、誰も彼のことなんて気にしていないようで、本当に一人きりだった。

 でもシャンクスには、そんなときに呼ぶ名前があった。
 夜には堅く冷たい寝床に一人で丸くなる。疲れ切ってぼんやり霞のかかったような頭のまま、頬を伝う涙の熱さに、何か凝り固まって臆病になってしまった心がほぐれていくような心地好さを覚えながら、シャンクスは口の中で彼の名前を唱えた。

 灯りは照らしてくれる。
 あるべき道へと、灯りは導いてくれる。
 それは海路を照らすランタンの火のように、凍えた身体にまた火をともしてくれる。
 きっと、正しい指針を見つけよう。
 正しい指針を見つけよう。


 渦巻く海流の闇に飲み込まれながら、シャンクスは怯えを振り払い、渾身の力で頭を上に向けた。海底どころか、頭上にも奈落のような闇ばかりがあった。
 シャンクスは歯を食いしばり、ベックマンの銃をもう一度しっかり抱えこんだ。



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