dune 3





ace : mirror mirror, do you like what you see?



 死んでもいいと思っていた。
 白ひげは死んだのだから。

 一度でも誰かに愛されたことがあるのというは、なんて気分が晴れやかなのだろう。
 あの男がいない世界で生きているのは、灼熱の砂漠で焼かれながら凍り付いていくようなものだった。黄泉には煉獄という場所があると聞いた。しかしこの世界にいようとそこで焼かれようと、あまり大差はないだろう。


 はじめの記憶は、坂の上、碧い海が見下ろせる風景だった。生まれたのは、この砂の国ではなかった気がする。見上げると長い栗色の髪の女性が泣いていた。美しい女だったように思う。
 母親と言われればストンと胸に落ち着くだろうが、彼にそう言ってくれる人間はいなかったから、彼女が誰だったのか今でも不確かだ。

 不確かと言えば、二番目の記憶もおぼろげだった。扉が少し開いていた。外から黄金の砂が吹き込んでくるから、きっとそれはもうこの砂漠の国だ。
 黒い石畳の床に一筋の光の線が差し込んでいる。男の顔は暗くなって見えなかった。見えないのは幸運だった。彼の表情が見えていたら、エースは恐怖のあまり叫びださずにはいられなかっただろうから。

 影の塊のようなシルエットが動き、机の上にエースのための道具を並べた。そして時間をかけて吟味した。男が愉しんでいることを、エースは本能的に悟っていた。 暗い眼窩が彼に向けられ視線が品定めをするように少年を舐める。エースは失神せずに立っているのが精一杯だった。机の上にあるのは、木槌と火掻き棒と鞭とベルトだ。

 どれが一番マシでどれが一番の苦痛か、その時のエースはすでに経験していた。
 彼は震えながら、そしてからからの口で唾と悲鳴を飲み込み、男が道具を選びとるのを見守った……。


 痛みの記憶はいつも途中で途切れる。痛覚が働くのは傷が身体に残っている間だけ、死んだ方が幸運だと思うほどの激痛も、通り過ぎればありありと思い出すことは難しい。
 生きていくための自己防衛かもしれなかった。今までに彼の持ち主から与えられた痛みをすべて鮮明に覚えていたら、エースは到底この年まで生き抜けなかっただろう。

 すべての奴隷が残虐な扱いを受ける訳ではないことは、エースも知っている。しかし彼は今まで運がなかった。巡り合わせが悪かった。そして主人に気に入られるには、愛想と卑屈さがいつも足りなかった。
 主人たちはあらゆる手段で彼に思い知らせようとした。でもエースは決して痛みと恥辱に降参しなかった。

 だからあの時の苦痛も、彼にとっては驚くほどのものではなかった。何年前だったかは覚えていないし、自分の過去を時系列を追って思い出すだけの気力もない。しかしそれはこの砂漠の国の埃っぽい広場で、藁と焼いた肉とろばと人々の汗の臭いがした。エースは枷をはめられ、商人と一緒に台の上だった。
 群がった人々が二人を眺め、乾いた空気に鞭がうなりを上げた。奴隷の背中を鞭で打ち、我慢強いほどいい値がつく伝統だ。
 この競りでエースには最高の値がついた。

 しかしエースにとってあれは我慢ではなかった。何も持たない奴隷でも、プライドだけはある。そして彼の持ち物といえば生まれてこの方それだけなのだ。

 それを見た大きな男が、彼を買った。
 男は笑った。それはエースが今までに出会ったことがない種類の笑みだった。エースは呆然と目の前の大男を見上げた。

 自由だと彼は言った。

 エースにはその言葉が理解できなかった。主人を愉しませるために今すぐ死んでみせろ、と言われた方が納得がたやすかっただろう。

 もう一度、今度は大きな手を差し出して、その男は言った。お前は自由だ。信じさせる何かがあった。

 何も見えなくなった。息もできなかった。物心ついてから、エースははじめて泣いた。彼の大きな分厚い手のひらが温かかったことは一生忘れない。
 男は白ひげと言う通り名で知られる事業家だった。

 彼のもとに残ったエースを、男は息子と呼んだ。そこにはエースと似たような境遇の兄弟たちがいて、信じられないことに毎日笑い声が絶えなかった。
 白ひげが死ぬまで、彼があの場所で過ごした時間は一瞬だったようにも思えるが、永遠だったとも言えた。

 鞭で殴られるばかりだった背中に、エースは彼のタトゥーを彫った。白ひげは馬鹿なことをすると笑っていたが、彼が確かに喜んでいるとエースにはわかった。嬉しかった。
 エースは印が欲しがった。永遠に彼のものになりたかった。屈辱を受けるためだけにあった背中に、誇りができた。

 おれの愛する息子と、彼は呼んでくれた。

 その思い出だけで自分の人生は報われるとエースは思う。




 自分の腹に顔を押し付けて無防備に寝息をたてる男を、エースは見つめた。寝台の脇の机には鋭利なナイフが乗っている。
 よほど自信があるのか、ただの世間知らずか、あるいはエースが何もしないと踏んでいるのか。いずれにしろ、あまり頭の良い行動ではないことは確かだった。

 端正な寝顔からは、この特徴的な髪の男が何を考えているのか皆目検討がつかない。
 しかしエースは新しい主人に何をされようと諦めはついていた。自分で思い付く限りのおぞましい仕打ちは経験している。何があっても我慢しきれないことはないはずだ。
 泣き叫ばない覚悟はあった。

 この赤い髪の主人は今のところ善人として振る舞いたいらしいが、この先はわからない。今までにも甘い言葉を囁き、散々期待させて、後でエースを打ちのめしてはしゃぐ人間はたくさんいた。
 金持ちたちは彼の絶望を玩具のように弄ぶのが愉しいらしい。警戒も威嚇も不信も、自分の身を守るため。

 シャンクスを信じるには、彼は今までに裏切られすぎていた。

 しかし、それでも。エースは柔らかな絹を握りしめた。わずかでも可能性があるのなら。

 この男の気が変わらないうちに、罠だとしても彼の油断が続いているうちに、逃げ出すことができるかもしれない。
 体力を蓄え、一刻も早く回復することだ。

 自由。

 考えるだけで怖かった。
 目眩がするほどの幸福が、ずっと恋い焦がれてきたものが、手の届くところにある。
 身体が竦んだ。
 希望に裏切れ続けてきた少年にとって、喜びや期待よりも、それは恐怖だった。




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