dune 2





shanks : a boy who once had a name


 規則正しい太鼓が中庭に響いている。
 この土地の弦楽器の音色は彼の胸をざわめかせた。蛇使いを彷彿とさせるオーボエの音色に乗って、タンバリンの鈴の音がこの部屋まで届いた。異国という言葉がしっくりきた。

 四角い窓に銀の三日月がかかっている。

 長年世界中を旅してきて気付いたことだが、どの土地にもその国独特の匂いというものがあった。この砂漠の国の場合、空気は嗅ぎ慣れない多種のスパイスと強い香の濃厚な空気で満ちている。

 商隊宿であるキャラバンサライの回廊には人気はない。全員ひときわ広い部屋に集まり、踊り子たちを呼んで宴に興じているのだ。今はこの国の宗教で定められた断食月が開けた時期なので、どの邸宅でも毎夜祝宴が開かれている。そのためシャンクスの一行の宴にも祝い気分の地元の人々が交ざっているようだ。

 しかしもう一週間も、シャンクスはあてがわれた部屋に残っていた。先日連れ帰った少年の容体が悪い。身体中に残った酷い傷のせいで熱が下がらず、意識がもどらないのだ。サライの侍女の看護の申し出を断り、シャンクス自らずっとついてやっている。お祭り好きのキャプテンが宴に出て来ないと若い連中は喜んで冷やかしたが、ベックマンやヤソップやルーあたりの古株はシャンクスの気持ちをわかっていて、笑って肩をすくめただけだった。

 もし隊の中の誰かが寝込んだら、シャンクスは今と同じことをしたはずだ。しかし屈強な男たちばかりの一行ではその必要に迫られたことはなかった。
 ただシャンクスは、この一人ぼっちの少年が目を覚ましたときに、自分が傍にいてやりたかった。

 金糸で飾られた絹が、幾重にもベッドの天蓋から垂れ下がっている。キャラバンサライの侍女が置いていった香炉から、バフールと呼ばれる練香のきつい煙が立ち上っていた。金色のランプの揺らめく灯りに照らされ、幻想的な模様を空間に作っている。乳香だ。

 この数日間で、柔らかなベッドを覆う絹の手触りと、エキゾチックで甘美な香りに、長旅に張り詰めた神経が緩んでいくのがわかった。

 少年の回復を待つための思いがけない長逗留も、隊員たちは各自それなりに楽しんでいるようだった。
 ベックマンはこの国が世界に誇る化学や医術の本を漁っているし、ヤソップは意気投合した鷹匠と砂漠に狩り勝負に出かけた。ルーは独特の香辛料のきいた料理を食べ尽くすつもりでいるらしい。

 シャンクスは熱にうなされる少年を見下ろした。膝に抱いている身体は痛々しいほどに頼りない。何週間もろくに食べ物も与えられなかったのだろう。身体を洗ってやったときも、さすがのシャンクスも目を背けたくなるような傷があらゆる場所にあった。
 傷口は倍ほどにも腫れ上がっている。熱が下がらなくて当然だ。
 人間でも動物でも、こういう扱いを受けた者に出会う度に、シャンクスは自分の無力さを思い知らされる気分になった。そう考えることさえ奢りなのかもしれなかったが、少年の深刻な傷や、幼さの残る顔が苦痛にうなされるのを見るたびに、怒りがこみあげた。

 あと一歩手当てが遅かったら、きっと死んでいただろうと医師が言った。そしてこのまま目覚めなかったら危ないとも。もう一週間も、薬師が煎じた薬湯以外何も口にしていないのだ。栄養を補給しなければ回復はない。まだ大人になりきらない身体は、明らかに衰弱仕切っていた。

「……生きろよ。負けるな」

 汗に湿った髪を額から払ってやると、少年の瞼が微かに動いた。シャンクスは喜びが込み上げ、彼の肩をしっかりと抱え直した。睫毛の下から潤んだ黒い瞳が覗き、ぼんやりとさまよった。
 シャンクスは薬師の用意した水差しを彼の唇にあてた。

「……ほら」

 しかし水は少年の口元から溢れ、彼は嫌がって顔を背けた。シャンクスは苦い薬湯を口に含み、彼の唇に流し込んだ。少年の喉が鳴ったのを確認して顔を上げると、大きな黒い瞳が茫然と彼を見上げていた。シャンクスは彼の癖のある髪を撫でた。

「いい子だ」

 とたんに少年が弾かれたように暴れだした。シャンクスは逆らわずに身体を引いた。しかし、少なくとも本人は抵抗したつもりらしかったが、結局はシャンクスの膝から柔らかな寝台の上に落ちただけだった。何日も横になっていたため一人では身体を起こすこともできず、必死な面持ちで腕を立てようともがいている。

 見ていられなくなって、シャンクスがもう一度抱き寄せた。思った通りの抵抗があったが、暴れるのを無理やり抱きしめると、しばらくして諦めたのかおとなしくなった。落ち着いた拍子に痛みが戻ってきたらしい。傷の熱でひどく震えていた。

 シャンクスは熱い額にキスをした。血がこびりついていた黒髪だったが、しっかり洗ってもらった今は柔らかく薔薇の石鹸の匂いがした。
 荒い呼吸に大きく揺れていた背中が、ようやく静かになった。体力の限界で力が抜けたらしく、腕の中の身体が少し軽くなった。

「もう大丈夫だ」
「……」
「おれはシャンクス。お前の名前は?」
「……」

 顔を上げさせ、熱に潤んだ漆黒の瞳を覗き込むと、少年はしばらくうなり声を上げる獣のようにシャンクスを睨みつけていた。しかしやがて彼は諦めたように睫毛を伏せた。何かを思い出そうとするように顔をしかめる。

「……名前、は、……昔はあった……」

 シャンクスは内心驚いたが、顔には出さなかった。彼の腕を掴んで、そこにあるタトゥーを見た。

「ここにはエースってあるな?」

 少年が自分の左腕を見下ろし、我に返ったように目を見開いた。

「ああ……、そうだ。忘れねぇように彫ってもらったんだ」
「……」

 少年の瞳が微かに自嘲的な色を帯びた。

「……おれは読めねぇけど」
「そうか。おれが教えてやる」

 シャンクスの答えを、エースが小さく鼻で笑った。頭痛をこらえるように手の甲で両目をこする。

「……あんた、慈善活動でもしてるのか。首輪を外したり……」
「お前、外さないで欲しかったのか?」
「……」

 シャンクスはエースに取り合わず、寝台の傍に薬師が用意しておいた粥に手を伸ばした。スプーンで掬って取ってやるが、エースは用心深そうに見るだけで口を開こうとしなかった。シャンクスはため息をつき、自分で一口食べてみせた。

「ほら、毒は入ってねえよ。食え」

 エースはシャンクスの顔をじっと見つめて考えこんでいる。

「……なんで首輪もなくて、枷で繋ぎもしねえんだ」
「怪我人を枷で繋いでどうする」
「治ったら繋ぐのか?」
「馬鹿、そんなことするか」

 シャンクスは本気で嫌悪感を催した。しかしエースは彼を真剣に睨み付けている。

「そうしねえなら、おれは逃げ出すぜ」

 シャンクスはため息をついて投げ遣りな調子で言った。

「逃げ出したければ、勝手にどこにでも行け」

「……」

 片手に力の抜けた少年を抱え、反対の手で粥の盛られた皿を持ち、シャンクスはいい加減にしろと眉を寄せて見せた。エースがようやく皿に手を伸ばし、ぎこちない手つきで食べ始めた。

 もともと生命力は強いのだろう、エースは粥をきれいに食べ終え、小さく息をついた。その様子を見て、シャンクスもようやく安心した。すると不意に眠気が襲ってきた。
 振り返ればこの一週間は付きっきりの看病をしていたのでろくに眠っていない。エースを無造作に抱き寄せ、シャンクスは寝台の上にごろんと横になった。驚いたエースがパニックになって暴れるのを簡単に抱きしめる。

「静かにしろ」
「離せ」
「寝れねえだろ」
「……?」
「お前のせいで眠ってないんだ」
「……」

 混乱したように首をかしげるエースを無視し、彼の腰に腕を回して胸に顔を押し付けた。

「……離せ」
「離したら逃げるんだろう、お前は」

 口で言う割に、エースは大人しくしている。

「勝手に逃げろって言ったじゃねえか」
「自分で立てもしねぇくせに、口だけは達者だな……」
「……」

 目を閉じると、シャンクスはいつものように穏やかな眠りが自分を包み込むのがわかった。眠るのに苦労したことはない。心配だったエースの身体も、耳から直に伝わる心音はしっかりと安定していて、この上ない子守唄だった。
 久しぶりに起き上がったエースも疲れがきたらしく、気が抜けた猫のように静かにしている。危機的な場面はどうやら脱したようだ。少年の温かい体温の中で、シャンクスは一週間ぶりの安堵の眠りに落ちた。 






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