breath under the water






 血が止まらなかった。生まれながら強い身体は、痛めつけられても簡単に死ぬことはできない。ゆっくりと血を失い、全身が冷えていくのを感じているばかりだ。
 一緒に、まるで流れ出していくようだった。
 今まで必死に掻き集めてきたもの、胸の奥底深くに守りぬいてきたもの。あがいた末にやっと手に入れたもの。大切に、少しも傷つかないように、そっと抱きしめてきたものすべてが。壊れるときは幻のように一瞬だ。
 目の前が、暗くなり、崩れていく音だけが頭蓋の中をこだまする。

「火拳だぜ」
「こいつか」

 エースは限界に引き戻された。現実に瓦礫の音が耳の奥で響いている気がしたが、実際はひどい頭痛だった。目を開けたつもりだった。しかし視界が赤く霞んでぼやけた。血が滲んでいるのだ。上を向こうにもひどい頭痛と目眩に首すら動かしたくなかった。黙っていると顎を掴まれ、無理に顔を仰向けにさせられた。
 看守の帽子についたバッジが暗がりの中で光ったので、相手が身分の低い守衛だとわかった。面白がって火拳のエースを見に来たのだろう。彼は無関心に相手を見つめ返した。

「白ひげが助けに来てくれるとでも思っているのか?」
「……」
「不可能だ。お前は処刑され、白ひげも粛正されるんだ」

 一瞬鋭く睨み付けると、看守に怯えが走ったのがわかった。エースは喉の奥で笑った。

「てめえにゃ無理だ」

 看守の顔が屈辱に歪んだ。いい気分でそれを眺めていたが、案の定頬に鈍い衝撃が走り、口の中に新しい血の味が広がった。

「あまり痛めつけるな」

 エースはのろのろと顔を上げた。

「そいつは生かしておかなきゃならん」

 海軍中将が着るもったいぶった長いコートが霞んだ視界に入った。モモンガという名で呼ばれていた男だ。鎖につながれたまま、エースは全身に殺気をみなぎらせた。出血はまだ続いているし、骨もいくつかやられている。捕らえられたときに政府の医師が治療しようとしたが、決して触らせなかった。黒ひげに負わされた傷は放置され激痛が続いていたが、白ひげの敵に手当てされる屈辱よりは100倍ましだった。自由を奪われ、完全に打ち負かされ、身体は言うことをきかない。それでも闘う意志は示すつもりだった。
 エースの殺気立った視線を冷たく見返し、男は鼻を鳴らした。鎖につながれた猛獣を前にしたように、少しも恐ろしくないと言わんばかりだった。

「……白ひげを呼ぶための餌だ。社会の秩序のためには、一刻も早く処分したいところだが」

 エースは炎のように男を睨み付けた。看守がもう一度渾身の力で彼の頭を殴りつけ、エースは一瞬平衡感覚を失った。

「お前の牙を抜き、爪をへし折ってやったぞ」

 ようやく地面の揺れが収まったころ、目の前に唾が吐かれた。もう一人の看守があざけるように笑った。モモンガは感情を交えない声で言った。

「白ひげは来る。そういう男だ。へまをしたガキ一匹のためにな。その価値のあることかどうか知らんが……」

 湿った石廊を歩く堅い足音が遠ざかった。看守たちの忍び笑いがそれに続き、再び牢獄の扉が閉ざされた。エースは正常な意識を保とうと必死になった。
 『その価値のあること』だと一番思えないのは、エース自身なのだ。
 涙が溢れた。
 でも白ひげは来るだろう。それは何よりも確かなことだ。
 見捨てて欲しかった。自分が招いた失態なのだから、責任は一人で負えばいい。船を率いて来るなんて割りに合わないことはわかりきっている。
 しかし白ひげはそれでも来るのだ。それがエースが愛した男だった。
 彼の力になりたかった。喜ばせたかった。ただ心から。息子として、誇らしく思ってもらいたかった。
 全身全霊をかけて、白ひげの愛情に感謝を示したかった。報いたかった。

 それが、この様だ。

 海楼石に四肢を拘束され、指一本動かすことさえ億劫だった。心臓が脈打つたびに全身に激痛が走り、痛みのない箇所が思い浮かばないほどだ。
 信じたことをやってきたはずだった。悔いの残る選択などした覚えはない。もう一度過去に戻って繰り返したとしても、自分は同じ決断をするだろう。
 高みに少しでも近づけるように歩いてきた。思いがけない幸運、素晴らしい仲間に恵まれ、夢のように幸せな日常が当然のようにあった。
 なぜこうなってしまったんだ? なぜこんなことが自分の身に起こらなきゃいけなかった?
 どうすればよかったんだ……。
 暗闇の中で、エースは疲れ果てて目を閉じた。
 シャンクスだったら、どうする?
 シャンクスだったら……。
 静寂が彼を包んだ。海底深い牢獄で、記録にすらもみ消されるほどの凶悪犯たちの低い息遣いだけが聞こえていた。しかしそれすらもやがて消えていった。
 シャンクスの手の感触がよみがえった。
 彼がいつものよく通る声で何か言っていた。エースは泣きたくなった。彼の心音を感じ、彼に抱きしめて欲しかった。

 嘆いたところで何も変わらない。
 何を責めたとしても……。
 信じることだ。それでも、決して消えない光がある。

 エースは目を開けた。涙が頬を伝った。シャンクスなら、きっとそう言う。
 自分を哀れむなんてまっぴらなはずだ。
 しかし平静でいるのは難しかった。痛みすらありがたいほどなのだ。少なくとも、悪い方向に向かう意識を紛らわしてくれる。
 もう一度、シャンクスのあの温かい胸に抱かれることはあるだろうか?
 笑いあって、笑顔で、屈託なく冗談を言って……。
 絶望的だった。そんな日があったことの方が信じられないほどに。今では、目が眩むほどに遠い。
 破滅的になる考えを、エースは必死に追い払った。頭をかきむしりたかったが、今の彼は自分の身体すら自由にならなかった。白ひげを止めなければならない。彼らに何かあったら、死より耐えられない。

 しかし、今の彼にできることは何一つなかった。自分の命を断ち切ることさえ不可能だった。
 できることは何もなかった。
 深い海の底の暗闇で、彼はただじっと、時が来るのを待った。











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テーマ「人外ファンタジー」
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