paradise lost 2




 今夜は月夜なのだと、頭の隅で気が付いた。霧は晴れたが、夜空には重たく雲がかかっている。幾重にも重なる雲間から、高い空で月が輝いていた。満月まであと少しだ。

 人肌の温もりと、滑らかなシーツが心地良かった。腹一杯食べさせてもらったことは覚えていたが、ベッドに入った記憶はない。ただ、うとうとしている間に、シャンクスのしっかりした体が抱きしめてくれたことにはぼんやりと気が付いていた。

 夜半にこうして目覚めたときも、彼の隣にいる自分を見つけると子供のようにほっとする。覚醒して一番に知覚するのが彼の体温だということが幸せだった。

 エースは体を起こした。船窓の外の月が、ベッドを丸く照らしている。月光が驚くほど明るかった。マットの上に起き上がり、ぼんやりとシャンクスの整った寝顔を見つめていた。優しい闇の中で、引き締まった胸が規則正しく上下している。安らかな光景だった。
 エースは不意にひどく心細くなって泣きたくなった。

 ベッドの上に、シャンクスの手が無防備に投げ出されている。エースが心配したような火傷の跡は見当たらない。その手をとり、堅い手のひらにキスをした。
 この手に自分は救われていると思う。

 白ひげの船を出て、はじめてベッドで寝た。食事らしい食事をした。人心地ついて安心したのかもしれない。
 エースは今すぐモビーディックに帰りたかった。あの場所が恋しくてたまらなかった。

 シャンクスの手にすがるように、エースは自分の額を押し付けた。涙が溢れた。
 サッチが死んだときも、黒ひげに裏切られたと知ったときも、船を出るときも泣かなかった。でも今は、せき止めていたものが壊れたかのように涙が止まらなかった。

 嗚咽をこらえて肩を震わせていると、重いため息が聞こえた。

「……見てらんねぇな」

 エースが顔を上げ、あわててシャンクスの手を放り出した。声も出せずに涙を拭っていると、体を起こしたシャンクスが、無造作に彼を引き寄せた。

 シャンクスの裸の胸から力強い鼓動が伝わってきた。子供を落ち着かせるときの仕草で、シャンクスが優しく彼の背を叩いてくれている。

「……シャンクス」
「ん?」
「そこは寝たふりしてろよ」

 シャンクスが吹き出した。

「まぁ、これくらいの役得がねえとな」

 エース少し笑って息をつき、もう一度目を閉じた。涙が頬を伝った。
 サッチが死んだのは自分のせいだとエースは思った。しかしそれを口に出せば、シャンクスはきっとおまえのせいではないと言うだろう。自分は慰めを受けるに値しないはずだった。
 それでは殺されたサッチがあまりに哀れだ。

 エースは唇を噛みしめた。何よりも尊く大切だったものを、自分がすべてぶち壊しにしてしまった。

「親父を失望させた……」

 喉が苦しかった。実際に胸に穴を空けられたかのように痛んだ。

「バカ野郎」

 シャンクスが耳元で苦々しく呟くのが聞こえた。

「あの親父は、そんなにちっぽけな男か」

 エースは唇を噛みしめた。シャンクスの温かい体が離れていき、エースは一瞬パニックになった。しかしすぐに手首を掴まれ、それと気付く前にベッドに押し倒された。
 涙を見られるのが嫌でエースは抵抗した。しかしシャンクスにキスされて舌を絡めとられ、優しく髪をくすぐられると、余計なことは何も考えられなくなった。

 心臓が壊れそうなくらい速く打っている。シャンクスが誘うように体を寄せてきて、エースは彼の肩に腕を回した。彼の頬に手をあてて瞳を覗き込む。

「……火傷、大丈夫か」

 シャンクスは遠慮なく彼の首筋にキスをした。エースが甘い吐息をもらした。

「大丈夫だ」

 シャンクスが耳元でささやいた。エースはほっとして彼の頬にキスを返し、力強い体を抱きしめた。






 見慣れた背中が、ベッドの縁に座っていた。微かに波の音が聞こえている。
 船上は静かだった。クルーはまだ寝静まっているのだろう。まだ夜もあけきらない。雲が晴れた空だけが銀色に輝いていた。
 シャンクスは頭をかきながら体を起こした。

「……行くのか」

 ブーツを履き終えたエースが振り返った。何も言わずにシャンクスの首に抱き付いてがむしゃらにキスをし、せっかく起き上がった体を再び枕に沈めた。

「……行くよ」

 シャンクスは黙って目を伏せた。

「今はみんなに挨拶してから帰る気分じゃねぇんだ。悪ィな」
「ああ」

 エースが彼の額にキスをして体を離した。朝の空気がまだ肌寒い。エースがシャツを羽織った。昨夜自分がつけた跡を隠すためもあるだろうと、シャンクスは苦笑した。

「気を付けろよ」

 本当は行くなと言いたかった。白ひげのもとへ帰れと言いたかったが、今そう言ってもエースを混乱させるだけだとわかっていた。
 エースが振り返り、口元を上げた。片手を一瞬だけ炎に変えて見せる。

「おれが?」
「ひよっこが調子にのるな」

 エースが笑ってドアを開けた。朝の白い光が床に筋を作った。振り返り、痛みをこらえるように少し目を眇めてシャンクスを見た。

「シャンクス、……ありがとな」
「また来い」

 いつもの儚いような笑顔を見せて、エースがドアを閉めた。
 夜明けがそこまで来ていた。浮かない顔で、シャンクスは次第に明るくなっていく天井を眺めていた。












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