Log | ナノ

 悪魔の花嫁

(悪魔×元天使)


暖かい日の光。中庭の奥の方。紅い薔薇の垣根を越えれば、噴水の水飛沫がキラリと光る。その隣に佇むあの人は、ただ優しく微笑んで俺の頭をそっと撫でた。


『――――――』


口を開く。けれどノイズがかったように何も聞こえない。冷たいのに何故か暖かく感じる手が俺の頬に触れる。けれどその表情は窺えない。
どんな声か思い出せない。どんな顔か思い出せない。大切な人だった気がする。違うかも。好きだった気もする。どうなのだろうか。いや、全く知らない人だったかも。


「うん、約束、××××××」


嬉しそうに笑いながら俺が何か言っている。約束って何だ?何も思い出せない。その続きが知りたいのに。××××××って?いや、俺は知ってるはずだ。きっとそのあとにはその人の名前が。名前が。××××××。駄目だ、何か一つ思い出せれば全て分かってしまえそうなのに。


『―――――――』


何も思い出せない、






パチリ、と目を開けると俺はぼんやりと辺りを見回した。どうにもこうにも頭がすっきりしないのは、またあの夢を見てしまったせいだろう。頭が痛む。

「ロー様、そろそろお目覚めのお時間です。起きていらっしゃいますか」
「…ああ」
「それでは、二時間後にドレーク長官がいらっしゃるのでお早めの支度をお願いします」
「分かってる。それまで誰もいれるなよ」
「承知しております」

痛む顳を揉み解していれば扉が叩かれ、かけられた言葉に今日の予定を思い出して面倒臭さに顔を顰めた。
そうだ、今日はまたドレーク屋の奴が。一体全体あいつは暇なのだろうか、何も用がないのにちょくちょく俺のところへやってくるから時折そう考えてしまう。
大分痛みの引いた頭から手を離すとゆっくりとベッドから起き上がる。無駄にでかい窓へ歩み寄ると、そこに引いてあるカーテンを掴んで陽光を部屋いっぱいに取り入れた。

朝、部屋に誰も入れないのはいつものことだった。朝は苦手だから私室には誰もいれたくないのだ。口を開きたくないから。食欲もないから朝食も別段必要ない。とにかく朝は一人でいないと。使用人が隣にいても苛々するだけだし。
まだ寝起き独特の気だるさを持つ体を引き摺って、光から逃れるようにベッドサイドに腰掛ける。貫くような日の光は暖かさよりも眩しさが勝っていた。晴天と言っても過言ではないほど晴れやかな日で、何故か俺があの夢を見るのは決まって今日のような穏やかな日しかない。青空と反するように心中は穏やかではなく、そのままだらしなく体をベッドに預けた。

あの夢は一体いつから見始めたか、それも分からないしあの夢自体の意味も分からない。昔の記憶の一部だろうと考えたこともあったが、生憎俺にそんな記憶はない、と思う。
分からない、と思うのはきっと昔の俺の記憶がないからだ。何故か九歳までの記憶がなく、ぷつりと途切れてしまっている。両親は事故で死んだらしい。記憶がないから分からない。それを教えてくれたのはドレーク屋で、ここまで養ってくれたのもドレーク屋。曰く、遠い親戚なんだとか。それが本当かどうか確かめる術も俺にはないのだけれど。
面倒臭いことは嫌いなので疑問は持たないで生きてきた。記憶がないと、だからと言って不便になるわけでもないし、それを誰かに言ったこともない。俺は毎日をこの広い屋敷でただ過ごすだけ。学校にも行ってないから話せる友人なんかもいなかった。どうやら俺は体が弱いらしく、この屋敷から出て行くことを許されていない。その代わりこの屋敷には何でもそろっていた。医者、家庭教師、調理師…その他諸々。
不便はしていないが退屈だった。一番年の近い使用人のペンギンもシャチも、他の「先生」たちよりは身近に感じるけどやっぱりどこか他人行儀でつまらない。けど、十年間ずっとこの屋敷で過ごしてきてずっとそうだったのだから、慣れてしまったといえばそれまでだけど。

気づけば俺はまた窓辺に寄り添って、外の景色を覗いていた。
屋敷から出ることは許されなかったが、敷地内であれば許された。広大な庭には時折おりていくことがある。白百合の庭園で読書するのが好きだ。小さな池の中で泳ぐ魚たちに餌をやるのも好きだ。だけど赤い薔薇が咲き乱れる垣根も噴水のある中庭もこの屋敷には存在しない。夢の中の俺は一体どこにいたんだろうか。
考えたって分かるはずないのに。軽く首を振ると、クローゼットへ向かう。ああ、もう着替えないと。




「やあ、ロー。元気にしてたか?」
「三日前に会ったばっか」
「そうかもしれんな」

ステッキをコツコツ鳴らしながら近付くドレーク屋に俺は少々げんなりした。いつもこうだと言ってしまえばそれで終わりなのだけど。

「体の調子はどうだ?」
「別に普通」
「それは良かった」

何がいいんだか。
このやりとりももう何十回目か分からない。ドレーク屋は決まって同じ質問をし、それに俺はいつもと同じ言葉で返す。しなくていいんじゃないかと思えるほどそれは決まりきっていた。

「食事はとったか?」
「あんたと今からとる予定だけど」
「朝食の方だ」
「食べてない」
「全く…三食きちんととらねば駄目だろう」
「考えておく」

運ばれてきたスープを見つめながら言うとドレーク屋は苦笑を浮かべる。けれどそれ以上は何も言わず、時折フォークとナイフが小さな音を立てた。

外で食べようと提案したのは一体誰だか。連れていかれたのはいつもの広間じゃなくて、お気に入りの白百合の庭園。広間と変わらず次々と運ばれてくる料理を適当に噛んで飲み込む。
ドレーク屋が来たときはドレーク屋と昼食ないし夕食をとるのが常だった。俺が屋敷に来たときから、まるで決まり事のようにしてそれは当たり前に行われた。もちろん今でも変わらず。その間はお互い当たり障りのない話なんかして、と言っても話しかけてくるのはほぼドレーク屋からだったけど、とにかく束の間を二人で過ごすのだ。

千切ったパンを口に詰め込んで、ちらりとドレーク屋に視線を向ける。
一体こいつは何をしているんだろうか。それは考えることを放棄した俺でも思うささやかな疑問だった。
残念なことに俺はドレーク屋のことを何も知らない。どこに住んでいるのかも、何をして生計を立てているのかも、知らない。これは大分おかしなことだ。何せ自分を養ってくれる人が遠い親戚という以外何も知らないんだから。しかもその親戚も本当かどうか怪しい。
でももう聞きはしなかった。昔聞いてはぐらかされて以来、その話は俺たちの間に出すのは躊躇われる話題となった。聞くな、と。言いはしないけれどそんな雰囲気が出ていたから。仕方がないので、いつも俺はそれを疑問の形で留めておくのだ。

「どうかしたか」
「え?」
「あまり食が進んでないようだが」
「…別に、ただぼんやりしてただけだ」
「そうか」

今日はいい天気だな。
ポツリと呟いたドレーク屋は小鳥の囀りを聞きながら青空を眩しそうに見つめた。つられて俺も皿から目を離すと咲き乱れる白百合たちを見つめる。
不意に花たちが揺れた気がした。目の錯覚か、もう一度見つめる。ゆらゆら静かに揺れる白百合。今日、風はないはず。



『―――約束、』


ヒュウ、と生温い風が頬を撫でる。今まで聞いたことのないような声。声、がする。ドレーク屋は気がつかないのか。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、まるで世界が隔絶してしまったかのような。
囁く声は俺のすぐ耳元に、



『お前を――迎えに――』



ガチャン、と辺りに耳をつく音が響き渡り、ハッと意識を取り戻す。青空から目を離したドレーク屋が訝しげにこちらを見つめていた。

「…悪い」
「具合でも悪いのか?」
「いや、……そうかもしれない」

タイルの上に落ちたナイフを拾って新しいのを出す使用人に礼を言い、心配そうなドレーク屋にその場に似合うような声を出した。
疲れているんだ、きっと。そう結論づけると、ドレーク屋には悪いが今日の昼食会はそこでお開きにした。安静にしてろ、と何も聞かずにそれだけしか言わなかったドレーク屋は多分優しいのだろう。

Next


[ novel top ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -