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 悪魔の花嫁

私室に戻ると誰も入れないように命じて、すぐにベッドの上に寝転んだ。
さっきのあの声は一体なんだったんだろうか。懐かしい、ような気もする。だけれどそれが誰か知らない。
あの声が誰の声かは知らないが、それと同じような感覚なら知っていた。夢、あの夢だ。知っているような、知らないような。懐かしいような、恋しいような。憎いような。あの声はあの夢と同じだった。俺を同じ気持ちにさせる。

ドレーク屋は聞こえていなかったのだろうか。俺だけに聞こえたのだろうか。夢といい、声といい、もしや俺は頭がイカレたんじゃなかろうか。
そこまで考えてふっと笑った。確かに頭はイカレてるのかもしれない。記憶もないし、面識がなかった奴の監視下で十年もずっと監禁されている。でも俺は逃げ出そうとも異常だとも思わない。今更自分の異常さを深く知ったところで何がどうした。そう考えるとおかしくなった。あの夢も、声も、俺が考え出した妄想だろうか。なかなかよく出来た妄想だ。感情まで伴えるなんて。さすがは俺。

「………寝よ」

くだらない。





ピチャ、ピチャ。音がする。何だろう、水だろうか。噴水か?いや、でも噴水はそんな音を立てない。薔薇の垣根が、…あれ?俺はまたあの夢を見ているのだろうか。
でも、いつもと違う。何だか視点が違う。俺は夢の中では自由に動けないはずだ。映画のように順を追って、流れるような一枚一枚の絵を見つめるだけ。なのに。薔薇の垣根に足が勝手に向かっていく。なぜ。おかしい。足が動く。ちらりと見た噴水の水は何だか濁っている気がする。違う、赤い。どうして。あの人は?薔薇が。手が勝手に伸びる。何だか変だ。液体に濡れたような。ヌルリ。ぬるり?赤い、指が。べとりと赤い。赤い薔薇が。違う、紅いのは薔薇じゃない。
血、が。

グチャッ

何だ、今の音。何か踏んだ気がする。足元がおかしい。柔らかいんだ。雨を吸ったあとの土みたいに。泥沼みたいに。コロコロ、何か転がっていく。丸くて白い。真ん中には俺と同じ色の瞳。


『―――――』

誰だ、俺を呼ぶのは。誰だ、薔薇を紅く染めたのは。誰だ、俺の親を殺したのは。誰だ、だれだ。ここに屍の山を築いたのは。


『――――ロー』


どうして俺の名を知っている。






「っ、はぁ…、はっ……うわ、寝つきサイアク…」

少し仮眠を取るつもりぐらいで眠ったのに、気がつけば辺りは真っ暗で、カーテンが開いたままの窓からは青白い三日月が浮かんでいた。
俺はさっき見た夢の内容に顔を顰めると額から流れる汗を拭った。何だかとても気持ちの悪い夢だった。一体何なんだ、今日はおかしなことばかり起こっている気がする。

とりあえず起き上がるとサイドテーブルに置いてある水差しを取る。コップに注ぐと一気に飲み干した。まだあの鮮明な光景が目に焼きついて離れない。そこらじゅう赤、赤、赤。地面には血を流れて倒れる人々。俺が潰したのはきっと母親の……思い出すだけでも頭が痛い。寒気が走る。
空になったコップに水を注ぐともう一杯喉に流し込む。これで俺の頭が作り出した妄想だとでも言うなら逆に困る。けれどもし、あれが現実で、本当に俺の昔の記憶の一部ならば、それはそれで大問題だ。そもそも俺の両親は「交通事故」で死んだはず。

俺の与り知らぬところで、何かが起きているのだろうか?分からない、何せ十年もその件については考えることを放棄してきたんだ、さっぱりだった。それにいまさら向き合おうと言ったって、果たして俺は「アレ」と向き合えるのか?
…でも、もし、あれが本当ならばドレーク屋は何か知っているはず。聞いたらきっと元には戻れないだろうけど。そんなことは分かっている。
あれ以上の仕打ちが待ち構えているのかもしれない。だけどそろそろ目を開けるときなんだろう。今までずっと逃げていたものから。

覚悟が決まるといくらか冷静になれた。そうと決まれば次はどのように話を進めるかだった。もちろん、ドレーク屋に聞くのが一番だろう。けれどきっと一筋縄ではいかないはずだ。どうやって話の切り口を…。

そこまで考えて、冷静さを取り戻した頭がふと考える。屋敷の中が、静か過ぎやしないか、と。

静かなのは大いに結構。俺はうるさいのは嫌いだ。だけど静か過ぎるんだ。そもそもこの時間になっても誰も俺の部屋に訪ねに来ないのはおかしい。寄せるなとは言えど、もう夕食時だろう。呼びかけて反応がなかったら使用人たちは勝手に入ってくるはずだ。それで俺を起こすなりなんなりするはず。
おかしい。俺はベッドから下りると部屋の扉を開けて一歩外に踏み出した。その瞬間ゆるりと頬を撫でる生暖かい風。昼のあの時と同じ、だ。
嫌な予感がする。高鳴る心臓を堪えて部屋を出ると、カツンと空しいぐらい大きく俺の靴音が響いた。

「誰も…いないのか?」

思い切って声を上げるが、誰の返事もない。いよいよおかしい、と俺は広間に向かって歩き出した。
カツカツカツ、足音がよく響く。その音に掻き立てられる焦燥感。しまいに俺はほとんど駆け足になっていた。蝋燭が消えて、薄暗い廊下。響く音にまるで追いかけられているみたいに。
振り向くと後ろに何かいそうで背筋がぞわりとした。無心になって広間までかける。きっと、そこには皆いるはずだ。夕食の用意でもしているのだろう。急いできた俺を見て心配そうな顔をするかもしれない。そうだ、何も焦ることはない。そこに皆いるのだろうから――。



「……なん、で…」


血の匂いが、した。強烈な血の匂い。充満する赤。死体、死体、死体。一歩踏み出そうとして、コツリと靴に何かあたる。首、だ。

「――っ!!」

声にならなかった。心臓はバクバクと高鳴っていて、俺は縺れる足を必死で動かす。
早く、ここから逃げなきゃ。この屋敷の中には安全なところなんてどこにもない。血の匂い。追いかけてくる血の匂いに、追いつかれる前に、早く。

バンッ、と勢いよく屋敷の扉を開け放つ。どこに行けばいいかなんて知らない。とにかく一刻も早くあそこから遠退かないと。次に狙われるのは、きっと―。


『―――ロー』


またあの声だ。あの声が俺を呼ぶ。頭の中で鳴り響く。誰だ一体。誰、なんだ。





気がつくと俺は白百合の庭園にいた。いつの間にか雨が降ってきていて、凍えるように寒い。
がむしゃらに走って走って走ったはず。なのに気がついたら俺はここにいる。屋敷の外には出れたけど、敷地内からは一歩だって出れてない。
今はもう走る気力もなかった。雨にうたれながら足を引きずるようにして歩くだけ。その時だった。微かに血の匂いがしたのは。
そこは俺とドレーク屋が昼食をとった場所だった。白いタイル張りのうえに白いテーブル、白い椅子。その横に倒れる……っ。

目を見開いた。その横に倒れているのは紛うことなきドレーク屋だった。
一体何がどうなってる。一歩踏み出そうとして、その前に見知らぬ男がいることに気がついた。誰だか知らない。男は怪我をしているようには見えないが、雨では流れないこびりついどす黒い血で汚れているように見えた。
コクリと息を飲む。一歩下がると同時に男は振り返って笑った。

「やっと見つけた」

ロー、と男は笑う。目を細めて嬉しそうに。
夢で聞いた声と同じだった。こいつが。瞬間的にそう思う。逃げなきゃと思うのに足が動かない。

「本当はもう少し早く迎えに来る予定だったんだけどな…まさか天界にいないとは思わなくて。誤算だったな」

何を言ってるんだこいつは。天界?何の話だ?
意味が分からない。怖い。逃げたい。足が動かない。近付いてくる男から、目が、離せない。

「直結王族の血を絶やすぐらいなら下界に落とすってか?相変わらず天使サマは頭がイカれてる」

男は笑う。天使、なんて馬鹿な。この世に天使なんて存在しない。俺は無神論者だ。これは宗教に心酔した頭のイカれた男の殺人なのか?でも、確かにこの男は、悪魔、みたいだ。

すっと男の手が頬に触れる。いつの間にか男は俺のすぐ目の前にいた。
まるで愛しむように触れる掌を。ああ、ああ。そうだ、そうなのだ。どうして今まで忘れていたのだろう。俺は知っている。あの時もこの掌は血にまみれていた。冷たく、けれどぬるりと温かい、この掌は。
そうだ、俺は。

俺はこの悪魔と契約したんだ。


「長かった、十年。これでやっとお前を手に入れられる。もうお前は俺のモノだ」

無知で幼かった俺はこの悪魔と契約をした。この退屈な毎日を壊して。それが天界の王宮に閉じ込められた俺がこの悪魔にしたお願い。
悪魔は言った、その代わり十年経ったら迎えに来ると。俺はそれに分かったと「約束」した。即ちそれは悪魔との契約。願いを叶えるために魂を悪魔に売る行為。けれど俺は、その男が悪魔ということもその行為が契約であることも何も知らなかった。

「……っ」
「…泣くな」

一気に蘇る記憶。頭が割れそうに痛い。ああ、そうだ。俺は、俺は。
男の、ユースタス屋の指が涙を拭う。それでもぼろぼろと止まらない涙に、ユースタス屋はそっと目尻に口付けた。

俺の魂は悪魔に食われた。




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