キッド誕2014 | ナノ

ただトラファルガーの隣にいられればそれでよかったし、友人の線引きを超えた関係を望まなければそれは当然に叶うことだとそう思っていた。友達以上を望まなければこの関係が壊れることは決してない。何年も何十年も…俺はそれでいいと、そう思っていた。
それなのにこの非日常が全てをぶち壊してくれた。このループ世界において俺の平穏はどこにもないし見当たらない。毎日毎日「今日」を繰り返して俺はトラファルガーの隣にいる。一歩も先へ進めないまま。



何十回何百回とこなしたルーティンワークは、それを嫌がっても決して俺を逃がしてはくれない。アラームは必ず鳴るし俺はそれを止めないと。
待ってましたとばかりに鳴り響くアラームを止めて精神疲労たっぷりの体を起こす。俺の体はいたって健康そのもののはずだが、顔色は悪いし目の下にはトラファルガーばりの隈がある。どう足掻いてもとれないそれは仕方がない、少しでも体力を回復しようと着替えてリビングに降りると朝食をとろうとしたがそれでさえも上手く喉を通らない時があるから困りものだ。しかし考えてもみてほしい。かれこれ百回以上同じ朝食を食わされる身にもなってみろ。たとえ体は空腹を訴えていたとしても、それを見るだけで結構だと言いたくなる気分にもなってしまう。幸い今日は少しばかり食べれたから倒れることもないだろう。疲労でぶっ倒れてる間にトラファルガーが死んだときには本当に自分が情けなかった。もう二度とあんなミスは犯したくない。
朝食を下げると歯を磨き、玄関で靴を履く。母親が聞いてくる言葉は決まって同じものだから(「あんまり遅くならないように」とか)、家の中で俺はもう「おー」としか言わなくなっていた。もういってきますと言うのすら面倒で、鞄を携えると家を出る。これからまた同じ「今日」が始まると思うと憂鬱で仕方がなかった。だけど俺にはこの日を繰り返す以外手立てがなくて、それは死んだって同じだ。死んでも死にきれない俺は、トラファルガーを救えない限りただこの世界がぐるぐる回って行く様を見つめるしかない。

しかし考えてみれば俺はこのループの中で今までにないようなことをトラファルガーにしてしまったし、してもらった。決していい出来事ではないが普通に生きていたらまず確実に出来ないことだ。普通に、友達としてあいつの隣を歩む限り、絶対に出来ないこと。ただそれが出来たからと言って何がどうということもないが。トラファルガーをレイプした俺は最低だし、その手を無理に汚させたのも俺の身勝手さが生み出した我儘ゆえだ。今や後悔よりも罪悪感の方が大きく、何度繰り返してもトラファルガーを救えないという事実がさらに俺の気を重くさせた。もはや俺ではトラファルガーを助けることは出来ないんじゃないか、とそのことを真剣に考えてしまう。俺の役目は自分がトラファルガーを救うこと、ではなくて、この世界においてこいつを助け出せる人物を見つけることなんじゃないか、と……。

「ユースタス屋?」
「っ、ぁあ…トラファルガー」
「どうしたんだよボケーッと突っ立って」

突然間近で顔を覗き込まれてびくりと肩が震える。トラファルガーの家に迎えに行き、家の前で待つその行為があまりにも無意識化で行われ過ぎていて、すでに出てきていた姿に全く気がつかなかった。不思議そうに首を傾げるその姿に弱弱しく笑うとおはようと告げる。トラファルガーはそんな俺の顔をじっと見つめた後、そっと手を伸ばして目の下を撫でた。

「寝不足か?」
「…まーな。昨日ゲームし過ぎちまって」
「そのわりには顔色も悪いぞ」
「そうか?色白なのはいつものことだってお前が言ってるだろ」
「それになんか…やつれて見える」
「気のせいだろ。俺は昨日と同じだって」

流れるように口を吐いて出る軽口は今まで散々こいつに向けて言ったものだ。同じようなことはもう何度も聞かれたし言われたから、言葉の出だし文句だけで次に何が言いたいのか分かってしまう。「ならいいけど、無茶するなよ?」そう言ったトラファルガーの言葉は、これまた何度も聞いたもの。いつもなら俺もそれに「分かってる、そんなに心配すんなって」なんて返してこの会話は終わり、そして何事もなく学校に向かう。「今日」もまたそのはずだった、のに。前を向いて歩きだそうとしたトラファルガーの腕を、いつの間にか掴んでいた。

「あ、悪ぃ、」
「どうかしたのか?」
「いや…」

掴んだ後に無意識の自分の行動にハッとして慌てて腕を離す。そんな俺をトラファルガーはじっと見ていて、自分のさっきの行動を何と説明したらいいか分からなくてその目から逃れるように視線をそらした。追及されても、意味はない、とっさの出来事でしかない、としか言いようがないのだけれど。そんな俺の心配をよそにトラファルガーは別段何も尋ねることはなく、その代わりがしっと俺の腕を掴んだ。

「ト、トラファルガー?」
「行くぞユースタス屋」
「ちょ、行くってどこに、」
「さぁ?」
「は?学校はどーすんだよ!」
「サボりだサボりー」

一日くらいこんな日があってもいいだろ、なんて笑ったトラファルガーのその態度は何度も繰り返したこの「今日」の中で今までに一度だって見たことがない、新しいもので。その突然の行動に驚きつつも、存外強い力で握られた手に引かれるがままに足を進める。ただ本当に行先は特に決まっていなかったようで、サボれればよかっただけだと学校の真反対にある駅周辺まで来るとその歩みはゆっくりなものになったし腕も離された。離れていく腕に名残惜しいと感じたが、だからと言って手を繋げるはずもなくポケットに手を突っ込む。「なにするユースタス屋?」と聞いてきたトラファルガーに、周囲を警戒するようにあちこち視線を彷徨わせていた俺は「なんでもいい」と。そう答えるとそこからすぐ先にあるゲーセンへと連れて行かれた。

「実は昨日仕入れた情報でな…今日また新しい種類のベポが追加されたらしい!」
「…へー」
「んだよユースタス屋、取るのはお前なんだぞ?」

毎回思うが一体どこでその情報とやらを仕入れてくるのか。トラファルガーはベポという白熊のぬいぐるみにお熱でその関連商品をむやみやたらと集めているのだが、ここの寂れたゲーセンはそのベポグッズをUFOキャッチャーに限定盤として仕入れているらしい。そしてその新作がいつリリースされるのか、情報をいち早くキャッチしたトラファルガーに連れてこられて金を渡され、やれあれを取れだのこれを取れだの命令されるのは毎月のお馴染みとなっていた。どうやら今月も早くもその日が来たようだ。よりによって今日か…と思ったが、トラファルガーがきらきらした目で俺を見つめてくるから断るなんてことも出来ず。寂れてるくせに早朝から深夜まで開いているこのゲーセンだが、平日の朝早くということもあってか店内に客は俺たち以外誰もいない。ゲーセンの中で死ぬ状況とは一体どんなものだろうと考えながら、なるべくトラファルガーを近くに寄らせて黙ってアームを操作した。

「で、今日はどれがほしんだ?」
「あの左奥にあるハチマキ巻いてるやつ!」
「りょーかい」

俺にはこの白熊のどこがいいのかさっぱり分からない。だがそれをトラファルガーに言うとノンストップで魅力について語りだすのでこいつの前でその疑問はタブーだ。わくわくと言いたげにアームを見つめるトラファルガーに苦笑しながら慣れた手付きで操作する。音を立てて降りたアームはうまいこと首に引っ掛かり、そのぬいぐるみを持ち上げると揺れながらもしっかりと掴まれたままでぽとりと景品口で落とされた。

「きた!ユースタス屋最っ高!」
「どーも。他は?」

取り出して渡してやると瞳を輝かせて受け取るトラファルガーに頬が緩む。こんなに穏やかな「今日」は今日が初めてだ。まだ始まって数時間も経っていないがそう思えるほどトラファルガーの笑顔の破壊力がやばい。そもそもこんな嬉しそうな顔を見るのすら久しぶりのような気がして、何気ない日常がどれほど素晴らしいものか如実に思い知らされる。願わくばこのまま一日が終わりますように。悲しいことに、そういった俺の願いが聞き入れられたことはないのだけれど。
暫くトラファルガーは吟味するようにガラスケースの中を眺めていたが、もういいと言って腕の中の白熊を抱きしめた。いつもは最低でも二つは取ってやっていたから、それが珍しくて「本当にもういいのか?」とつい尋ねてしまう。

「ん、今日はこれだけ…。続きはまた明日に」

ぬいぐるみを抱えたトラファルガーが笑う。それはトラファルガーとっての何気ない一言、だけど俺にとってはとてつもなく重いもので。頷きもせず肯定もしなければ、その言葉から逃れるように「できたらな」とだけ言った。

いつ何が起こるかわからないからあまりあちこち動き回りたくなかったが、事情を知らないトラファルガーはそうもいかない。ぶらぶらと適当にゲーセンで時間を潰したあと「次はどこ行く?」と聞いてきた。もちろん俺の答えは「なんでもいい」しか用意されていない。トラファルガーは暫くどこに行くか迷ったようなそぶりを見せた後で、映画を見に行こうと言った。この提案は俺にとってもありがたかった。映画館で殺人事件などそうそう起こらない、だろうし、うまくいけば二時間ほど穏やかに休めるはずだ。二つ返事で了承すると今度は映画館へと向かう。
移動中が一番危険で、今日に限ってなぜか出現するイカれた通り魔や暴走して突っ込んでくるトラックがいないか細心の注意を払いながら進む。駅を越えた向こう側にある映画館はここから10分ほど離れたところにあって、トラファルガーの話も漫ろに周囲へと警戒の視線を投げたが驚くほどあっさりと着いてしまった。拍子抜けしながらも連れられるまま映画館に入ると、平日のしかも昼前とあってか客の入りは少ないように思えた。俺は別に見たいのもなかったからトラファルガーの好きに任せたらどうやらSFホラーに決定したらしい。上映時間までタイミングのいいことに二十分ほどしかなく、飲み物と二人で分ける分のポップコーンを買って始まるまでの少しの間他愛もない話をして時間を潰した。そうして暫くすると入場可能の放送がなり、案内されたスクリーンホールへ入るとお互い黙ってスクリーンを見つめた。



「んーなかなか面白かったな」
「ユースタス屋寝てたじゃん」
「さ、最初だけだから」

スクリーンホールから出てゴミを捨てると伸びをする。見たままの感想を伝えれば、呆れようにつっこまれて誤魔化すように笑った。確かに最初の20分…いや30分ほど寝てしまったが、寝ている自分に気づいて飛び起きるとすっかり目が覚めてしまってあとは映画をちゃんと見ていた。目を離したり意識がなくなったりするともれなくトラファルガーは死神にさらわれるので、今回飛び起きた時にはまだ怪訝そうな顔したトラファルガーが隣にいてくれてひどく安心したものだ。

「俺はあれイマイチだったな。なんつーかありきたり」
「お決まりの展開が求められてるってことだろ」

少しとはいえ質のいい睡眠を取れたようで、朝起きた時よりも体調が幾分マシなように思える。映画の展開に納得がいかないのか、剥れるトラファルガーの頬を突つくとぷしゅりと空気が抜けた。それが面白くて何度も頬を押していれば鬱陶しそうに手を振り払われる。こんな穏やかな時を送っているのが未だ信じられないが、信じようが信じまいが死神の姿どころか足音さえ見えないのは事実だ。浮かれそうになる気持ちを引き締めて映画館から出る。無事「今日」を過ごせたらもちろんそれに越したことはないが、いつもと同じ展開になった場合もう上手くやっていける気がしない。百二十も超えた辺りで漸くこんな平穏を得られたんだ。これが台無しになってまたループに戻ったら待つところ俺の発狂しかないだろ。こんな上げて落とすようなことされたら廃人になっちまう。まあそう考えられるうちはまだ平気だってことは自分が一番よく知っているが。

「もう昼だけど、昼飯どーする?」
「これ食べる」

携帯で時刻を確認すればもう少しで十二時になるところだった。昼食をどうするか聞けばトラファルガーは自分の鞄を軽く叩く。トラファルガーと高校生活を共にしてきて、俺はこいつが弁当を残している姿を未だ嘗て見たことがなかった。自分の嫌いなアスパラガスのベーコン巻やミニトマトが入ってる時はうへぇと嫌そうな顔して「また入れやがった」と悪態を吐くがそれでも決して残すことはない。前に一度そのことを指摘したら「弁当箱は空にして返すのが礼儀だ」と言っていた。チョコやプレゼントを「いらない」と平然と断るくせに弁当はきちんと受け取って空にして返す。そのせいで一時期、女子によって三つも四つも手作り弁当を押し付けられいていた。そのたびトラファルガーがふざけんなと言いたげな顔で食べていたのを思い出す。

「いいけどどこで食べるんだ?」
「んー公園とか?」
「警官とかになんか言われねェかなぁ…」

あまつさえ制服でうろちょろしているのだ。平日の昼間に公園で弁当を食う男子高校生とか、どっからどう見てもおかしいだろ。そう言えばトラファルガーはまた暫くうーんと唸り、何かひらめいたのか俺を見ると「じゃああそこにしよう」と言った。

「図書館の裏。なんか土手みたいになってなかったっけ?」
「ああ、あそこな。いんじゃねェの」

トラファルガーの提案でそう言えばそうだとあの草原の様子を思い出す。それじゃあ決まりな、と笑ったトラファルガーが図書館へ向かうのを追いかけながら素早く左右に視線を巡らせた。いつもと同じ日常、変わらない光景。ここから人が一人死ぬような事態は到底起こり得ないように思えて、でもその油断が殺すことを知っているから一秒たりとも気は抜けない。トラファルガーの話に相槌を打ちながらも聞いていないこともしばしばだ。一応気を付けているんだけどな、と思っていたら不意に左腕を殴られた。どうやらまた何か聞き逃したらしい。

「聞いてんのかよユースタス屋」
「悪ぃ、ぼーっとしてた」
「ったく…なんだよ、そんなに周りが気になるのか?」

どうやら視線を彷徨わせていたことに気が付いていたらしい。「んなことねェよ」と否定したが「うそつけ、あっちこっちチラチラしやがって」と言われて肩を竦める。

「お前に危険が振りかからないよう見張ってるんだよ」
「はぁ?」

下手に否定するよりも冗談にしてしまった方がいいだろう。そう思って軽口を言うようにそう告げれば案の定トラファルガーは何言ってんだこいつと言いたげな顔をした。これで変に勘ぐられることもないはずだ、トラファルガーがなんて軽口を叩き返してくれるか待っていれば不意にずぼっとこいつの右手がポケットに入れていた俺の左手を掴んだ。

「そんなに不安なら俺から手を離すなよ」

へへ、と悪戯っぽく笑ったトラファルガーに瞬きを一つ。次いで左手から燃えるように全身が熱くなり、思わず右手で口元を覆った。まさかそんな返しをされるとは思わず、本気で照れてしまってそれに対して反応が遅れてしまう。これじゃトラファルガーに不審がられるじゃないか、と思ったが「あったけーなユースタス屋」と笑うだけで何も言ってこなかった。それがまたどうしようもなく可愛くて「そーだな」と返しになっていない返しをするのが精一杯。図書館までのそう長くない道のりに、この時ばかりはもっと図書館が遠くにあればよかったのにと現金なことを思った。

別に手を繋いでいるわけじゃない。トラファルガーの右手が俺のポケットに突っ込まれていて俺の左手とぶつかっているだけだ。そうだ、そうなのだ、そうなのだが時折トラファルガーは手を動かして俺の人差し指やら中指やらをいたずらに握ったりするから堪らない。指を絡めて繋ぎたいと悶える俺をよそに図書館につくとその手はあっさりと離された。それに激しく名残惜しく思いながらも何でもないふりをした。
裏手に回ると適当な場所を見つけて草むらの上に座った。下には川が流れていて、その手前は遊歩道ではなく川の流れに沿ったランニングコースとなっている。今もひとり、この寒い中誰かがかけていく。だがこの土手に座っているのはもちろん俺とトラファルガー二人だけだ。日が照っているとはいえ風も冷たい冬に外でピクニックの真似事をするやつはいないだろう。

「あーまじかよ、ウィンナー入ってる」
「お前の好き嫌いが多すぎるんだよ」
「嫌いなんじゃなくて食べなくていいなら無理に食べないだけ」

弁当箱をあけて顔を顰めたトラファルガーはすぐに箸でウィンナーを掴むと口の中に放り込んだ。嫌いなものを先に食べて好きなものを後に残しておくタイプらしい。俺は全く逆だけど。

弁当を食べ終わった後も暫くそこにいた。というのも別にすることもないし行くところもないからだ。確かに外なので寒いことには寒いが耐えられないほどという訳でもない。それに俺としてもここにいられるのはわりと嬉しい。ここで肩を並べてじっと座っている分には危険なことは何もなさそうだからだ。いきなり殺人犯が現れでもしたら別だが。
だがトラファルガーがくしゃみをしたので気になった。寒いか?と聞けば寒くないと答えるが鼻を啜る音が聞こえる。いっそ図書館の中に入ることも出来たがそれを伝えたら「つまらないから嫌だ」と拒否された。

「でもこのままここにいても体冷えるだけだろ」
「別に平気だって」

ここにいられるならそれに越したことはないと言ったがそれでトラファルガーが風邪をひいてしまうようなら話は別だ。じゃあどこか店に入るかと聞いても見たいような店もないと言う。適当にジュースを買って暖を取れるファーストフード店にも行きたくないと。暫く押し問答を続けていたがトラファルガーが頑なに首を振るのでどうしようかとそう思っていた時。ハァ、と白い息を吐いて俺を見つめたトラファルガーはこう言った。
「そこまで言うなら海に行きたい」と。



冬の海なんて寒いだけだろうと思ったがトラファルガーがそう言ってきかないので仕方なく駅に向かうことにした。海に近い最寄駅まではここから小一時間ほど離れている。切符を買うと二人でホームへと上がった。こんな時間にその方面へ行くやつは少ないのか、ホームはがらんとしていたし、来た電車にも乗っている人数は数えられるほどしかいない。ドアの近くに座ると二人で黙って電車に揺られていた。時折二、三言葉を交わしたが静かな電車内に自分たちの声はよく響いて、次第にお互いただ寄り添うだけになった。
降りる駅のアナウンスが鳴り、立ち上がると電車から降りる。ただ駅の目の前が海という訳でもないのでここから少し歩かなければならない。この駅で降りたのは俺達だけで、海に向かって歩くのも俺達だけだ。時折反対側から自転車をこいでいる人や犬を散歩させている主婦を見たが、それ以外は人気も少ない。黙って歩いていればトラファルガーの右腕が当たる。その手を掴めたらどんなにいいだろうと思う俺は、臆病にもそれが出来なくてただ左手をポケットに突っ込むだけ。それ以上のこともしたくせに、あの時は拒絶されても別にかまわないと自暴自棄になっていたからできたんだ、でも今は違う、拒絶されたくない、なんて虫のいいことを考えて、ただトラファルガーがさっきのように手を入れてくれないかと他人任せに期待している。そうしているうちは自分の思うようにことは進まないと分かっているけど。
暫く無言で歩いていたが、波の音が聞こえる近さまで来ると「もうすぐだ」とトラファルガーが呟く。何をもってして海に行きたいと言い出したのかは不明だがその横顔は別段喜びや楽しさといったような色を浮かべてはいない。それはやっと海についたときもそうで、「海だ」と言ったトラファルガーはぐにゃぐにゃと足場の悪い砂浜をただ下りて行った。

「海が見たかったのか?」

それ以外来る意味もないだろうと分かっているが、来たがっていた場所とは思えない態度についそう聞いてしまう。トラファルガーは「んー」と言っただけで答えない。いや、もしかしたらそれがイエスという意味だったのかもしれないが、どうにもそうではない気がした。
冬の日暮れは早い。まだ十六時過ぎだというのに辺りは徐々に暗くなりだしていた。十七時を過ぎれば夜のようになってしまうだろう。このあとどうするかなぁなんて考えながらトラファルガーを習ってぼうっと海を見つめる。すると鞄を放り投げる音が聞こえ、隣を見ればトラファルガーは靴下もローファーを脱ぎ捨てていたもんだからぎょっとした。俺が何かを言う間もなく、スラックスの裾を捲るとバシャバシャと海に入って行く。

「うっわ冷ぇ!」
「当たり前だろ、何してんだよバカ」
「見てたら入りたくなった」
「アホか…冬だぞ」

脛あたりまで海水に浸したトラファルガーはそう言って笑った。その姿に呆れていればバシャリと海水をかけられる。主に顔周辺に直撃したそれにこめかみをひくつかせるとローファーと靴下を脱ぎ捨てた。

「やめろユースタス屋!べたべたになるだろ!」
「さっきの仕返しだっての!」
「俺はそんなにかけてねーよ!」

真冬の海でバシャバシャと海水を掛け合う男二人なんざどんな目で見られるか。しかしそんな冬の海にわざわざ訪れるような物好きもいないようで、残念ながら俺たちを止めてくれる人は誰もいない。何してんだか、と自分でも思ったが止められない。ブレザー脱いでくればよかった、と思う程度にはあちこち水を吸っていて重いし纏わりつく感触が気持ち悪い。それなのに腹を抱えて笑って、やめられなくて、そうこうしているうちにトラファルガーが足を縺れさせたのか勢い良く海面に尻餅をついたから余計に笑った。これじゃあ全身ずぶ濡れだ。「げぇ、最悪!」ぽたぽたと水滴を滴らせながら悪態をつくトラファルガーに笑うと手を差し伸べた。

「ほら、いつまでもそんな格好してると風邪…っ!?」
「ははっ、ざまーみろユースタス屋!」

親切に差し伸べた手は思いもよらず裏切られた。自業自得だというのにそう言って笑ったトラファルガーは俺の手を掴んで立ち上がらず、引っ張り込んで巻き添えにしたのだ。おかげで俺も同じくびしょ濡れになってしまい悪態をつく。だがそれよりも。ふと顔を上げた先にトラファルガーがいて、その体の上にのしかかるような体勢になっていることに気がついて一気に体が熱くなった。
勝手に動きそうになる手を慌てて引っ込める。そのくせトラファルガーは俺の苦労を何にも知らないもんだから、まじまじと瞳の中を覗き込んできたりするのだ。睫毛長い、赤い、きれい、そんなことを言われたような気がする。内容は全く頭の中に入ってこなくて、俺はただトラファルガーの瞳を見つめ返して、どうせ死ぬなら今ここで一緒に死にたいとそんな身も蓋もないことを思った。

「なあ、ここで死んだらどうなるかな」
「誰が?お前が?」
「俺とトラファルガーが」
「なに、こんだけ一緒にいて死ぬ時まで俺と一緒がいいの?」

トラファルガーは俺の言葉に冗談めかしてくすくす笑ったが俺は笑わなかった。表情に気づいたのか、笑うのをやめた瞳が俺を見つめる。海水が唇に滴って渇いた喉が余計に渇く。どこか遠くを見つめるようにトラファルガーを見ていれば、急にパンッと音が響いて驚いた。ついで頬に感じるじんわりとした痛み。両手で俺の頬をおもいっきり挟んだこいつはいたずらっぽく笑った。

「俺もユースタス屋も死なねーよ」
「…でもお前は何回も死んだ。何百回も」
「はぁ?なんだそれ夢の話か?俺は今ここにいるだろうが。死んでねぇよ」
「でも」
「それとも俺に置いてかれたのがそんなに悲しかったのか?」

ふふんとどこか得意にげに笑うトラファルガーにそういう問題じゃねェんだよ、と思ったがそれよりも先にその質問がすとんと心の中に落ちてきた。悲しかったか、なんてそんなの悲しかったに決まってる。涙はもうとうに枯れ果てていたけれど心の奥底ではいつだって叫んでいた。
気がつくと俺は目の前のその細い体を抱きしめていた。トラファルガーがあんまり大人しく腕の中で抱かれているもんだから、自分がしていることに現実味がなかった。やめろよユースタス屋、なんて言う代わりにトラファルガーは俺の頬に手を添えるとそっと視線を合わせた。

「はは、ひでぇ顔」
「うるせェ…」

ぐす、と鼻を啜るとそんな俺の顔を覗き込んだトラファルガーが笑う。涙なのか海水なのか良くわからないそれを拭われて、こつんと額が合わさった。

「あのな、俺お前のこと好きだよ、ユースタス屋」

まるで小さな子供が秘め事を紡ぐようにして囁かれたその言葉は、言わずもがな理解の範疇を超えていた。ぱしん、と瞬きを一つ。口元には冗談めいた笑みを浮かべているくせに、その蜂蜜色の瞳はどこまでも柔らかな色を讃えていて、ああそんな言葉、一体誰が想像したか。は、と掠れた息のようなものが口をついて出て、それ以外はガンガン鳴り響く脳内の言葉を声に出してくれなかった。何か言おうとして喉に詰まったような音が転び出た。すき、その言葉が理解できなくて全く知らない、地球の言葉ではないような何かに思えた。そのくせその二文字がトラファルガーの形のいい唇を突いて出た瞬間、燃えるように体が熱くなった。
トラファルガーが、おれを、すき?意味がわからなくて目も口も見開いていれば、そんな俺を見て面白そうに笑った。

「なんだよその顔」
「いや、だって、え、」
「好きだよユースタス屋、あと誕生日おめでとう」
「ええ?あ、ありがと、う?」
「はは、すっげー混乱してる」

トラファルガーは笑ってそう言ったが、そんな、だって混乱もするだろう。こっちは何年片思い続けてきたと思ってんだ。それなのにこんなに呆気なく告げられて、しかもトラファルガーはそう告げられた俺の顔が間抜けだと笑ってるし。何なんだよ、死にまくったと思ったらここにきて告白とか、ああもう。何なんだよ、神様、あんたは俺に不幸と幸福の一体どっちを与えたいんだ。

どう答えたらいいか分からなくて暫く黙った。俺も好きだ、そう答えてしまえば終わることをどうしてか上手く切り出せなかった。どうしてだろう、こんなに待ち望んだ瞬間なのに、素直に喜べないのは伝えられた日が「今日」だからか。何があってもリセットされ、永遠に繰り返される「今日」に、目の前に掲げられた幸福さえ手に取るのが躊躇われた。それをまた粉々に壊されるのが怖くて、口の中でもごもご舌を動かしてもそれはなかなか外に出てこなかった。
トラファルガーはそんな俺に何を言うでもなく、相変わらず冗談めかして笑っているけどその瞳は柔らかい色に包まれていた。きれいに揺れる蜂蜜色。そのまま吸い込まれてしまいたい。そうしたら何も考えなくて済むのに。口で伝えることができなくせに俺の体はいつだって欲望に正直で、震える指先で目尻に触れるとトラファルガーはその手を掴んだ。

「お前は忘れてるかもしれないけど、俺はずっと覚えてるよユースタス屋。生まれ変わった世界がなんでも、一緒に生きようって約束したろ?」

正直言ってトラファルガーが何を言ってるのか理解出来なかった。たぶん顔にも出てたんだと思う。俺の表情を見て笑ったトラファルガーはやっぱり忘れてるんだなと事もなげにいったけど、その瞳は何処か寂しげに揺れていて胸が強く締め付けられると同時に誰かに脳みそを蹴られるような衝撃を受けた。真冬の海に二人で座り込んで、俺がトラファルガーの頬に手を当てて、その手をトラファルガーが握り締めて。その光景が脳みその中に直接ぶち込まれたかのように急速に入り込んできて、なんだかこの景色に既視感を覚えていることに気づいた。こんなことをしたのは初めてなのに、どうしてか俺の頭はこの光景を知っている。意識は今ここにあるのに、まるで両眼だけがくり抜かれてその場所へと持って行かれたかのようにその光景は目の前に見えた。そこでは俺もトラファルガーもいくらか成長していて、まるで時代錯誤な服を来ていて、そして、そしてトラファルガーは今にも死にそうだった。その胸はどす黒い血で滲んでいて、俺はなす術もなくそれを見つめていた。そのくせトラファルガーは笑っていた。今にも死そうなくせに笑っていた。俺のせいで、死んでしまうのに。

「俺のために死ぬなんて許さない」

自分の唇から洩れでた言葉のくせに理解するのに時間がかかった。ハッと瞬きして目の前の光景が元に戻っていることに気づく。制服を着た、高校生のトラファルガーがいて、生きていて、その胸は血ではなく海水でぐっしょりと濡れている。さっきの光景が一体なんだっていうのか、知らないが気分が悪いものであるのは確かで俺は知らず知らずトラファルガーから視線を外して俯いた。どうしてか目の前の存在は非情なまでに罪悪感と後悔を掻き立てるし、なぜか俺は自分にひどく苛立っていた。なんとも言えない感情が内側から沸き起こり、トラファルガーが見れない。黙って俯いていれば、優しい手が俺の両手を掴んだ。

「もう自分を責めるのはやめろよ、ユースタス屋。俺は紛れもなく俺の意思で死んだんだ、お前のためじゃない。こんなことを繰り返しても時は戻せないし、あの時の俺は救えない。それでいいんだ。
それともお前は過去の俺の方が大事か。お前の無意識の罪悪感で、後悔で、今の俺を何度も殺して、自分を追い詰めて、終いにはお前が死にそうになって、そんなにこの平和な世界で何もかも忘れて幸せになるのが怖いのか。そんなにお前は自分が俺を殺したと思い込みたいのか」

掴まれた両手に痛いほど力が入る。諭すような穏やかな口調が次第に冷たく鋭いものに変わっていく。トラファルガーの言っていることは何が何だか分からないはずなのに俺の頭は全てきっちりと処理していた。その言葉をわかりたいと思ったしわかりたくないとも思った。そんなに簡単に許されていいのかと俺はやっぱり黙って俯いていた。トラファルガーはそんな俺に苛立ったように頬を掴んで無理矢理顔を合わせた。

「いつの間にそんなウジ虫になったんだよユースタス屋」
「…俺はただ、」
「ああもういい、そんなのどうだっていいんだよ。俺はお前が好きで、この世界でお前と一緒に生きたい。それじゃ不満か?」

強い意志を持った瞳が、言葉が、真っ直ぐに俺を射抜いて、反射的に思った言葉は「勝てない」だった。俺はいつだってこの瞳の前では無力になるし、強くもなる。この瞳が俺を引っ張り出して包み込んで、そうして最後にはうまく丸め込んでしまうんだ。足掻くことは出来ても結局逆らうことは出来なくて、気がつけば俺は緩く首を横に振っていた。そんな俺を見てトラファルガーは満足げに笑う。その笑顔だけで俺の心はひどく満たされて、どう頑張っても勝てないことを知るんだ。

体はすっかり冷え切っているはずなのにその感覚がなかった。冷え切っているからこそ余計に感じないのか。ただトラファルガーの触れた唇はとても温かくて、俺その熱を奪うように何度もキスをした。何度も、ただ戯れるように優しく触れて。唇の触れそうな距離で瞬いたトラファルガーの睫毛が長い影を作っていてとても綺麗だと思った。

「俺が好きなら、早く、起きて、一緒に生きて、ユースタス屋。
俺のために死ぬなんて、そんなの絶対許さない」







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