沫になってさよなら | ナノ

寝室の扉を開けると、キッドはベッドに倒れ込む。自分が何をして、どうしたいのかがいまいちよく分からなかった。

ローには結婚すると言った。だが実はまだ明確に決まったという訳ではないのだ。正直なところ、話は婚約というところで留まっていた――キッドがあまり乗り気ではなかったためだ。
では何故自分は、ローに『結婚する』などと言ったのか。

答えはすでに出ていた。
そう言ったあと、ローがどんな反応をするのか見てみたかったのだ。


そうして彼の口から飛び出した言葉は――『おめでとう』


笑った顔は少し辛そうだったな、と思う。無理して笑うくらいなら、本当のことを言えばいいのに。そう考えてキッドは自分に対して眉根を寄せた。
一体自分は何を考えているのか、ぐるぐる考えても相変わらず答えは見つからない。ただ一つ言えることは……ローの返答は気に食わなかった――これだけだ。

――……なら、俺はあいつに何て言ってほしかったんだ?
結婚するな?どこにも行かないでほしい?
……何考えてんだ俺は。

キッドは自分の思案と晴れない気持ちに顔を顰めた。どうやら自分はローにこの事実を否定してほしかったらしい。理由は考えたくもない。

だが憶測で話をするなら、ローの全ては自分にある、とキッドは思っていた。
何もない彼に新しい世界を与えたのは紛れもなく自分――そして彼はそれを受け入れた。だから心のどこかで、ローには自分しかいないのだ、とそう思っていたのだ。
それなのに彼は、あっさりと自分の結婚を認めてしまい――キッドはその事実がこの上なく面白くなかった。

もっと自分を求めていることがはっきりと分かるような、そんな否定的な言葉がほしかった――自分の心情を一言で簡潔に言うなら多分こうだろう。


だが、それはまるで自分がローのことを――。

(……ありえねェだろ、んなこと。)

キッドはごろりと寝返りを打つと、見え隠れする想いから逃げるように目を瞑った。






この城に来てから与えられた自室、そのベッドの上でローはシーツを涙で濡らしていた。俯いた顔に涙は頬を伝って流れ落ちていく。
泣いてもどうしようもないことは知っていた。キッドが結婚する事実は変わらない。こんな女々しい自分が嫌だった。

――……だけど涙が止まらない。


「やはり人間の涙は醜いな」

どこからともなく聞こえてきた声に、ローは驚いて顔を上げる。そこにいるのは今ここにいるはずのない魔術師だった。彼の足元には円が描かれ、その下に広がる穏やかな青。彼の力でもってして、どうやらそこは海の世界と繋がっているようだった。
どうしてここにいるのかと、驚いたローの顔はそう物語っていた。それに気づいた魔術師が手中の水晶をじっと見つめる。

「水晶で見ていたのだが――……何だかお前があまりにも哀れでな」

すっと水晶から視線をそらすとローを見つめる。

――本当のことを言ってしまえば、実は、彼は王よりローの捜索願いを受けていた。
遅かれ早かれこうなることはすでに予測済みだった。初めから、ローを人間にしたときから、魔術師は彼のためにどのぐらいの時間を与えられるだろうか、と考えていたのだ。
ローは将来有望な次期王候補。そんなお方が恋愛に身を滅ぼすなんてそんなこと、芳しくない、とこれを知った誰もが思うのだろう。

だが魔術師は少し違った。魔術師は平等だ。対価さえ支払ってもらえば、彼は誰の、どんな願い事でも叶えることが出来る。人間になりたいというローの願いを叶えた彼は、その行く末を見守る義務がある。しかして平等な彼は王の願いも叶えなくてはならない。対価を支払われたからだ。王の願いは、ローを見つけ出すこと――しかし見つけ出して、その後のことは何も言われていない。魔術師は言われた通りにしか動かない。こうしてローの前に現れたのは王の願いを叶えるため。見つけ出したと報告してしまえばそれで終わりだ。だからここから先の行為は、誰の願いにも含まれていないもの。二つの願いに平等なチャンスを与えるための、魔術師なりに考えた結果だった。

「これをやろう」

魔術師は懐から取り出した短剣をそっとローに手渡す。困惑したまま受け取ったローに、彼は何とも言えぬ視線を寄越した。相変わらず表情の読み取れない顔色のまま、すっと剣の刃をなぞる。

「これで王子の心臓を刺し、その流れ出る血を足に塗るといい――そうすればお前はもう一度、人魚に戻ることが出来る」

その言葉に、ローは息を呑んだ。
もう一度人魚に戻れる、その言葉は少なからず自分を惹き付けたが、その代償がキッドの死――。
考えるまでもない。ローはその短剣をつき返そうとして、それに気づいた魔術師が宥めるように言葉を紡いだ。

「確かに最愛の者をこの手で殺すのは気が咎める――だが案ずるな。お前がこれで王子の心臓を刺せば、その瞬間に――……お前の恋心は、沫になってさよならだ。だからお前が罪の意識に苛まれることは何もない。使うかどうかは、お前次第だ。――……ただし、使わなかったその時は……分かっているな。このままだとお前自身が消えることになるぞ」

――選択権を与える。それが魔術師の、彼なりの、ローへの芳情だった。

ゆめゆめ忘れるな、と呟いて、魔術師は現れたときと同様、音もなく静かに消え去る。あとには短剣をじっと見つめるローだけが残った。





ドアノブにそっと手をかけると、音を立てないようゆっくりと押し開く。半分だけ顔を覗かせ中の様子をこっそりと窺うと、キッドはこちらに背を向けた状態で安らかに眠っていた。穏やかな寝息がだけが響くその空間に、ローはそっと足を踏み入れる。
なるべく静かに、気づかれないようにベッドに近づいていく。その途中でキッドが寝返りを打ったので、ローはびくりと肩を震わせて足を止めた。

「―……ロー?」

薄らと目を開いてこちらを見つめてくるキッドに、ローは慌てて持っていた短剣を隠した。

「どうした…眠れないのか?」

そう言われてまさか本当のことを言えるはずもなく、ローはこくりと小さく頷く。しかしこれが言い訳になったとして、だからといって勝手に他人の部屋に入るのはどうだろうか。子供であるまいし。
ローはそう考えて少しおどおどしたような態度を見せたが、キッドは別段気にした風もない。きっとまだ微睡みを引き摺っていて、脳が覚醒してないのだろう。

「……そんなとこに突っ立てると、風邪引くぞ」

そんなことを言われたって、ローにはどうしていいか分からない。困ったような顔でその場に立ちすくんでいれば、キッドが「おいで、」とローを呼び寄せた。
呼ばれるままにベッドに近づくと、伸びてきたキッドの腕がローの腕を掴む。そうしてあっという間にベッドの中に引きずり込まれてしまった。

カッとローの頬が朱をつけたように赤くなった。今まで一番近い距離――そう思ってローは所在なさ気に視線を動かす。どうやら自分がキッドに抱きついたことは、もうすっかり忘れてしまっているらしい。

――落ち着かない。

心臓がドクドクと煩く、それはまるでキッドに聞こえてしまうのではないかと思えるほど。恥ずかしくて、顔は見れない。
なのに当のキッドはやはり気にした風もなく、ローの頭を撫でながら「もう寝ろ、」とそっと呟いただけだった。



――静寂だけが辺りを包み込む。
ローは顔を上げると、キッドの寝顔を盗み見た。ぼうっとその寝顔に思わず見入る。そっと、その白い頬を手で包み込むようにして触れた。

愛しい、とローは思った。

自分が沫になって消えてしまうのは構わない。だが我儘を言ってしまえば――キッドが自分以外の誰かのものになるのは嫌だった。

頬に触れた手を下ろし、彼の心臓に触れる。
短剣はまだ持っていた。それで彼の心臓を突き刺せば、彼は永遠に自分のものだ。

――だが、この短剣で彼の心臓を一突き――その瞬間に自分の彼への想いは沫になって消えてしまう。彼との思い出も、きっと色褪せて消えてしまうのだろう。それだけは、どうしても嫌だった。

ローはキッドを起こさないようにそっと起き上がると、愛しい男の額に、触れるだけのキスをした。

――……結局、自分は彼を殺せない。

ぽたり、と一粒の涙が零れ落ちる。それはキッドの目尻にあたり、こめかみを伝ってゆっくりと流れ落ちた。――まるでキッドが泣いているようだ。

ローは濡れた彼の目尻をそっと拭うと、部屋を後にする。真珠にすらもなれない、人間の涙。今らなら魔術師の言っていた、醜いという意味が分かるような気がした。




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