沫になってさよなら | ナノ

キッドはローのことをいたく気に入っているのか、彼の元を離れることはあまりなかった。そもそも気に入らなければ自分の手元に置いたりはしないだろう。必然の結果と言えるその姿だが、初めは城内で波紋を呼んだようだった。今では周りの人間も、ローというこの青年にすっかり慣れてしまったようだが。

帰る場所がないと言ったローに、この国のことをよく知っているかと聞けば彼は首を横に振った。もちろんローは人魚だったから、海の世界しか知らない。人間の世界で知っているのは、本の中にある幻想と、海面から顔を出して見ることの出来る船や青空や太陽だけだった。だがキッドがそれを知るはずもない。彼はただ単に、ローはどこか遠い国から来たのかもしれないな、と思っただけだった。

「なら明日、案内がてら城下に連れてってやろうか?」

キッドがそう聞くと、ローは目を輝かせて大きく頷いた。その大げさとも言える姿に思わず苦笑する。
何がそんなに彼を興奮させるのか、キッドには到底理解でないだろう。しかしローにとって人間界で新鮮でないことなど何もなかった。今だってこうしてキッドに城内を案内されて、それだけなのに目に分かるほどローは楽しそうだ。
――ズキズキと痛む足に、キッドにはバレないようにローは少しだけ眉根を寄せる。それでもキッドの横顔を見ながら、こんなの安いもんだ、とローは思った。






翌朝、キッドに連れられて足を踏み入れた城下町は、ローを感嘆させるには十分過ぎるほどのものだった。はぐれるなよ?と言ったキッドにローはこくこくと頷く。――それほどの人波だった。

城下町は大分賑わっているのか、いたるところを人で溢れさせていた。
気を抜いたらはぐれそうな人波に、ローはしっかりとキッドの後をついて回る。そうしてきょろきょろと所在なさげに視線を動かしては、目を見開いて驚いたり、楽しそうに笑ったりしていた。

「そんなに楽しいか?」

その姿にキッドが苦笑して聞けば、ローは満面の笑みで頷く。
彼にとっては何もかもが真新しく、輝いて見えた。路上で大道芸をする者も、お兄さん買っていきなよと声を張り上げる店の店主も、とにかくその全てにローはわくわくしていた。
そんなローを、キッドは初め面白い奴だな、と眺めていた。だが彼のコロコロと変わる表情に、いつしかそれ以外の感情が芽生え始めていた。男に対してこんな言葉を使うのもどうかと思うが――……可愛い。そう思っていた。もし自分に弟がいたならこんな感じなのかもしれない、と。


「…なぁ、ロー、ちょっと――」

人波にもまれ、幾分か疲労を感じ始めた頃。ここらで休憩でもしないか?と振り返って出したはずの声は、見開いた瞳に飲み込まれた。

――……いない。

先程まで後ろを楽しそうについてきていたローの姿は跡形もなく、そこにはただの人混みが広がっていた。





一方で、ローは目前にある大きな本屋に見とれていた。
ローは取り分け本が大好きだった。今目の前にあるのはそんな彼の大好きな本で、しかも人間界のものである。中に入って、もっとよく見てみたい。そう思うのは自然の道理。ローはキッドにそのことを告げようとして後ろを振り返る。それは勿論、そこにキッドがいると信じての行為だった。

(………あれ?)

永遠と広がる人混みに、ローは首を傾げた。
どこかにいるはずのキッドが、どこにも見つからない。

――……もしかして、はぐれた?

そこまで考えて、ローの顔はさっと青ざめた。
今ではローの全てはキッドだった。実践経験も何もないまま知識だけで人間界に放り出され、しかも喋れない今の自分ではキッドがいなければ何も出来ない。
そんなキッドとはぐれてしまって、どうしていいのか分からない。焦る気持ちを抑えようとすればするほど、漠然とした不安が胸の内に広まっていく。
……とりあえず、だ。こういうときは動かないのが一番だと聞く。それは頭で理解しているのだが。そうは思っていても、足は勝手にキッドを探し求めて歩いてしまっていた。

――……どこにいるんだろう。

焦る気持ちを押し殺し訳も分からず歩くローは、自分が賑やかな大通りから少し離れていることに全く気が付かない。気が付いたときにはもう遅く、どうにもこうにも入り組んだ路地に入り込んでしまっていた。不安そうに辺りを見回すも、足を止めてしまえば一人きりという事実に押しつぶされてしまいそうで。ぎゅっと唇を噛み締め黙々と歩いていたローは、不意に曲がり角でドンッと誰かにぶつかって尻をついた。

「――何だァ?お前、迷子かなんかか?…言っとくがここはお前みてぇのが来るとこじゃねぇぜ」

もしかしたらキッドかもしれないと、一抹の期待を浮かべた瞳が耳慣れぬ声にさっと曇る。目の前にはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる男が三人いて、それにローは顔を顰めた。
何だかよく分からないが、関わらない方がいいことだけは分かる。その場を離れようとすぐに立ち上がるも、男たちに壁に追い詰められ囲まれてしまい、身動きが取れなくなってしまった。

――……一体何がしたいのか。
怪訝そうに顔を上げたローを見て、男たちは顔を見合わせた。思ったよりもずっと上玉だ、と呟いた男に他の二人もニタニタ笑う。

「見てみろよ、こいつ、キレイな顔してやがる」
「きっと物好きに売りゃかなりの値段で買い取ってくれるだろうさ」
「おい、顔にだけは傷付けるなよ。値が下がっちまうからな」
「分かってるって」

一歩一歩、だが確実にとこちらへと近づいてくる男たちが発する言葉にローの顔が引き攣っていく。物騒な言葉を口にする男たちに、ローは城下に来る前キッドに言われていた言葉を思い出した。






「最近城下で人攫いが横行してるらしいんだ」

人、攫い?
首を傾げたローに「人攫い、誘拐みたいなもんだ。知らないのか?」とキッドは尋ねるとローはこくりと頷いた。それにキッドは少しだけ呆れたような顔をする。

「とにかく俺から離れるなよ。お前、顔整ってるし、ひ弱そうだからカモにされるとすぐ捕まって売り飛ばされちまうぞ」

――それに、何も知らない彼を捕まえることはきっと容易いことだろう。

彼とはまだあまり時を同じくしていないが、その行動のいたるところから純粋さと無知さは見て取れた。それにローは自分の興味のあるものがあるところならどこにだって好き勝手にふらっと行ってしまうのだ。目を離すつもりもないけれど、少しは気を引き締めていてもらわないと。
キッドはローに強く念を押すと、ローは分かった、と軽く頷いた。




そのときキッドは、本当に分かったのか?こいつ、と思っていたが――どうやら分かっていなかったらしい。現に今、こうしてローは人攫いにあおうとしている。

伸びてきた男の腕を払い除けるとその場から逃げ出そうとする。だが腕を掴まれて路地裏に引き摺り込まれそうになり、ローは嫌だと首を振った。
離せ!と唇を動かすが――……声は出ない。今こそあの条件を悔やんだことはなかった。

「おい、もしかしてこいつ喋れないのか?」
「本当かよ。どこまでも都合のいい野郎だな。塞ぐ手間が省けるぜ」
「悪く思うなよ、これも仕事だ。…憎むんならこんなとこをふらついちまった自分の不注意さを憎むんだな」

下世話に笑う力強い男たち。三人がかりで押さえ込んでしまえば、人間に成りたてのローの抵抗など子供の戯れのようで。必死にもがく姿が嘲笑いと暗い路地裏に飲み込まれていく。


――…嫌だ!嫌だ…っ!…キッド!!







「…人の連れに何手ェ出してんだよてめェら…あぁ゛?」




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