頼みがあるんだ、と言って突如現れた青年に魔術師はちらりと視線を投げて寄越した。だがそれも一瞬で、まるで自分には関係ないこととでも言うように手元の書物へと視線をそらす。答えはない。青年は焦れたように唇を噛むと、何も言わない沈黙に一瞬怯んだ体を奮いにかけて魔術師の元へと近寄った。
「なぁ、頼む。こんなこと叶えられるのはあんたしかいないんだ」
そう言った青年は眉根を寄せると顔を伏せた。俯いた瞳が称える色は果たして。
魔術師はもう一度彼を一瞥すると、感情の読み取れない顔色のまま青年をじっと見つめた。
「そうだな……何故だ。理由を聞こう」
考えるよう言葉を選び、口を開いた魔術師に青年は顔を上げる。だがそう聞くと彼は口を開いて――そしてまた閉じてしまった。言葉に詰まったような表情。魔術師はそれを促すこともなく遮ることもなく、ただ値踏みするかのように青年を見つめている。
「――……好きに、なったんだ」
「人間をか?」
戸惑いがちに頷いた彼を見て魔術師は席を立つ。それに青年は焦ったような表情を浮かべた。これ以上お前の話を聞く気はない、と判断されたとでも思ったのだろうか。確かに人魚が人間に恋をするのは禁忌だった。
「バジル屋、」
「――……条件がある」
バジル屋、と呼ばれた魔術師は青年に背を向けたままぼそりと呟いた。その言葉に、一縷の希望を見つけた彼は途端に目を輝かせる。
「人間になれるならなんでもする」
青年は高揚したようにそう告げると、何やら背を向けて作業をしている魔術師を見つめた。ちらりと彼を振り返れば期待に満ちた瞳と視線がぶつかる。
――あのトラファルガー・ローともあろう者が、恋をするとここまで変わるのか。
こっそりと城を抜け出してきては人間になりたいと禁忌を口にする彼を見て魔術師は胸の内でそっと呟く。長いことこの海で生きてきたが、どんな面倒事も恋煩いに勝るものはない。相変わらず表情の読み取れない魔術師は彼に賛同しているのかいないのか、協力する理由も読み取らせないまま。それでも人間になれるならどんな対価でも支払うと、犠牲を厭わない青年に魔術師はかちゃりと棚から薬瓶を取り出した。
「…いいだろう。その代わり俺が出す条件に文句はつけさせない。いいな」
「もちろんだ」
振り返らずとも分かる、突き刺す視線。背を焼くようなそれは強い覚悟を抱いたもの。しかし魔術師は相も変わらず興味のなさそうな顔で口を開く。
「ならいい。……まず一つ目。俺はこれからお前に薬を与えて人間にしてやる、が……もしもその恋しい相手がお前以外の誰かと結ばれたならお前は海の沫となり、消えてしまう。平たく言えば、死、だな」
取り出した薬瓶を鍋に放り込み、ついで得体の知れぬ物体をぽちゃりぽちゃりと鍋の中に落としていく。
「二つ目。お前の尾を人間の足にしてやる。だがその代わりに、その足で歩く度に激痛が走るぞ。まるでナイフを踏むようにな。
――……だがもし、無事に二人が結ばれたなら…その瞬間痛みはなくなり、お前は完全な人間になれる。……二度と人魚には戻れないがな」
ぐるりとかき混ぜ鍋の中を覗き込むと二滴三滴小瓶の内から何か注ぎ、そうしてまたぐるりぐるりとかき混ぜる。
「そして最後だ。お前を人間にする代わりに、お前からそれに見合った対価を貰う」
魔術師はそこまで一息に言うと、青年をじっと見つめた。
「…対価?」
「そう。……お前の、声だ」
――……声、と青年はそっと呟く。
自分の喉元に手をあてると、困ったように眉を下げた。
「だけど声を失くしたら話せなくなる。…どう伝えればいいんだ?」
「問題ない。人間は目と目で会話する、とでも言うくらいだからな。お前には表情がある。身振り手振りで伝えることも出来る。それはお前次第だ。……どうする?」
魔術師はそう言って青年を見据える。不安がない、と言えば嘘になる。声が出せない、まともに歩くことも出来ないかもしれないし、叶わぬ恋の果てに待っているのは死だ。しかし、それでも。
青年は顔を上げると、その視線をしっかりと受け止めた。その瞳に迷いはない。
「…それで人間になれるなら」
「勿論だ」
魔術師は無表情にそう言って、鍋から一掬いした液体を小瓶に注ぎ彼に渡す。青年はそれをしっかり手に持つと、期待に満ちた眼差しで手中の小瓶を見つめた。
「それは陸に上がってから飲むほうが賢いな。ここで飲んでもいいが、溺れ死ぬぞ」
最後の忠告を告げると、もう用はないと言いたげに再度書物を読み始めた魔術師に青年は小さく微笑む。有難う、とそっと呟いて。ぎゅっと小瓶を握り締めると、振り返りもせず上にある人間界を目指していった。
「――……愚かだな」
容易く引き受けてしまった自分も、人間に恋をしたという彼も。
きっと、これからはひどく忙しくなるだろう。何せ彼は事実上の『行方不明』だ。
人魚の王子ともあろうものが、人間に恋をした、だなんて――。
「……っ、は」
大分急いできてしまったせいか、少し息が切れる。しかし一分一秒でも時間が惜しいのだから仕方がない。急がなくったって逃げやしないのにな、と分かっているけれどそれでも焦る気持ちは抑えられないのだ。
青年――ローは海面から顔を出すとそっと周りの様子を窺った。幸運なことに見渡せる範囲には誰もいないようだ。
(これを飲めば、俺は…。)
ごくり、と息を飲む。恋い焦がれた人間に、あの人と同じ姿に。ローは小瓶を見つめると蓋を開ける。これを、飲んでしまったら。
暫くどろりとした中の液体を見つめていたが、ローは小瓶に口付けると中身を一気に飲み干した。魔術師の忠告も聞かずに。
(……っ!!?)
――手から滑り落ちた小瓶が、海に飲み込まれていく。
ローは目を見開くと喉元を押さえた。それは恐ろしく苦く、喉には焼けるような、刺すような痛みが走る。途端に体が熱くなり、味わったこともない痺れに眉根を寄せた、その瞬間。
急に体が重たく感じ、気づけばゴボッ、と口から洩れた空気が綺麗な沫になって海面へと上っていく。
次第に状況を把握した頭から、体から、みるみるうちに血の気が引いていった。
(なんだこれ…泳げない!)
それもそのはず、ローの尾はすっかり人間の足になっていて、彼は人間の泳ぎ方など到底知らない。ましてやもう、人魚ではないのだ。
ザバッ、と海面から急いで顔を出すが、地に足が着かない。――このままでは溺れてしまう。今になって魔術師の言う通りにしておけばよかったと思ったが、今更後悔してももう遅い。何でもいい、どうにかして地に足の着くところへ、そう思い体を動かそうとすればするほど深い水に引き込まれていく。
「……?っ!おい、大丈夫か!?」
不意に聞こえてきた、その声。一瞬見上げた視界に映ったのは鮮明な赤。
(――あの人、だ。)
伸ばした手は空を切り、ゆっくりと海の中へ沈んでいった。
ぱちり、と目を開けると目の前に広がったのは全く身に覚えのない天井だった。
「…起きたか?」
ギシリ、とベッドが揺れて顔を覗きこまれる。
――それに、どくんとローの心臓は大きく跳ね上がった。
彼だ。……彼がいる。
夢じゃない、先程意識が途切れる瞬間見つけた鮮明な赤色が、いま手を伸ばせば届く距離にいる。まさか自分を助けてくれたのが彼だったなんて。深海より恋い焦がれた彼が、禁忌を犯してまで逢いたかった、彼が。
ローは口を開いた。とにかく何でもいいからこの気持ちを伝えたかった。
好きだと言いたい。あの嵐の日にあんたを助けたのは俺だと伝えたい。ずっとあんたに恋焦がれて、そうして人間にまでなった、この想いを。
――……声が、出ない。
「……?どうかしたのか?」
彼は何か言いたそうなローに首を傾げると続きを促した。だがローが再び口を開くことない。眉根を寄せて、黙ったまま。そんなローの表情に、理由も知らない彼は首を捻るだけ。
「…よく分かんねェけど……俺はユースタス・キッドっていうんだ。…お前の名は?」
とりあえず名前をも知らないのは不都合だろうと思ったのか。ローの態度に首を捻りつつも彼が――キッドがそう聞くと、ローはそっと瞳を伏せた。
その悲しげな表情に、キッドは何故か胸を締め付けられるような、奇妙な感覚を感じ取る。はて、とその感覚を不思議に思ったが、考えるよりも先にトントンとローが自分の喉元を叩いた。口を開いてそして首を横に振るその姿に、導き出される答えは一つ。
「もしかして話せないのか?」
キッドがそう聞くと、ローはこくこくと頷いた。
相手の伝えたいことが分からないことに気づいたキッドは「参ったな…、」と言って視線をそらす。その姿にずきりとローの胸が痛んだが、ここで諦めていては何も始まらない。自分から動かなければ、伝えなければ。
ローは意を決してキッドの袖口を掴むと、何だ?とこちらを見た彼に、分かるように伝わるように唇を動かした。
「……な、ま、え…?…ろ、お…?…お前、ローっていうのか?」
キッドがそう聞くと、伝わったことに、名前を呼んでもらえたことにローは嬉しそうに頷いた。その笑顔に、キッドもつられて笑みを浮かべる。
「…なぁ、ロー、字は書けるか?」
ふと思い出したようにキッドが呟く。言葉で伝えられないなら文字を書いて伝えればいい、そう思ったのだろう。勿論、ローが教養を持ち合わせていたらの話として。
何も反応しないローに、やっぱり書けないのかと少し残念に思ったが、予想に反してローは手を差し出してきた。試しに紙とペンを渡すと、ローは『書ける』と渡された紙に簡潔に書いてのけた。
幸い、ローは好奇心が強く、また博識だった。彼は人間の世界にひどく興味を持っていたのだ。だから人間が書く文字は以前嗜んだことがあった。
彼はまたさらさらと紙にペンを走らせる。
『助けてくれてありがとう』
そこにはそう書いてあった。キッドはそれを見ると、礼を言われるほどのことはしてねェよ、と笑った。
「だけどお前、何で溺れてたんだ?」
不思議そうにキッドがそう尋ねると、途端にローの筆が止まる。
まさか人魚から人間になったら泳げなくなって溺れました、などと言える訳がない。だがそうかといって、言いたくない、教えたくない、というのはどこか不自然だろう。こんなことなら何かうまい理由を考えておけばよかったと思ったが、考えてもそんな理由が思い浮かぶ気はしなかった。
「……あー、言いにくいなら別に無理して言わなくていいからな?」
急に俯いてしまったローに、キッドはまずいことを聞いただろうかと慌てたように言葉を濁す。自然と伸びた手はそのまま俯いた頭に乗せられた。そうして優しく頭を撫でる。男相手にするのはどうかと思うが、不思議とそのような感情は湧いてこなかった。それよりもさっきの質問でこの青年を不快にさせてしまったかどうかの方が気になった。
「お前、どこに住んでるんだ?そこまで送ってやるよ」
キッドはわざと明るい声を出すと質問を変える。しかしその問いに、ローは緩く首を振った。
あの小瓶の中身を飲んだ時点で、人間になってしまった時点で、彼に帰るところなどない。ローは自分の持つすべてのもの――元来、地位や名誉には興味なかったが――を投げ捨ててまでもキッドに逢いに来たのだ。
――人間になってまでも、彼に。
今度は隠す必要がない。
ローは正直に『帰る場所はない』と紙の上にペンを滑らせた。それを見たキッドは暫く考えるような素振りをしてみせた。そしてローの頭にぽん、と手を置くと顔を上げたローに、ふっと微笑んだ。
「ならここで暮らせばいい。不自由はさせないぜ?」
そう言って目を丸くするローを尻目にわしゃわしゃと頭を撫でる。
どうして、何で、聞きたいことはたくさんあるけれど、一緒に暮らせるという事実に溢れ出る幸福がそういった疑問を一蹴する。一見乱暴そうに見えてその実優しい手つきに、また大好きな彼と一緒にいられるという突然の幸福に、ローは嬉しそうに笑った。