どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

厚みのある柔らかな唇をマシュマロのようだと最初に揶揄した人物には感心する。触れた傍から伝わる熱を流すようにローは薄ら目を開けた。近すぎてぼやける視界でも鮮明に見える赤。ああ、おれは今、この男とキスしているんだ。そう思うと途端に好きだという気持ちが溢れ返って胸が苦しくなった。そっと目を閉じてファーストキスを思い出す。キスをしたのはこれが初めてではなかった。しかし初めてのキスの相手はこの男だったことをよく覚えている。
親愛の情を示す頬へのキスがいつの間にか唇へと移り、ローの感情もまた別の物へと変わっていく。キッドが何を考えているかなんてローには分からなかったし、キッドもまた教えようとはしなかった。自分の掌で思ったようにくるくる廻るローが面白くて遊んでいただけかもしれない。ただキッドの言った「お前の姉さんにはナイショな、」という言葉が、このゲームが家族の線を越えた行為だと示していた。

「ユー、スタス、屋」

離れていく唇にローが男の名前をそっと紡ぐ。そんな変な呼び名を付けないで、と両親に言われたのは昔のことだ。どうしてかローにはこの呼び名がしっくりきていて、義兄さんともキッドとも呼ぶことはなかった。
ユースタス屋と呼べば目の前の男はしっかりと反応する。イカれ帽子屋と呼ばれているこの男は、自分がユースタス屋と呼ばれても否定しなかった。他の住民はみな否定していたはずなのに。「きみはそう呼ぶけどね、アリス」、そう肩を竦めてこの世界での呼び名を教えてくれていた。この男はそうはしないのか。そもそもローのことをアリスと呼ばない。きみはアリス、アリスなんだと連呼されるこの世界で、この男だけが唯一、ローと呼んだ。

「この世界は、なんなんだ」

まるで宙にかかった見えない橋を渡っているかのような、不安定なこの世界。誰も答えを教えてくれない、ただロー自らが創り上げた世界だという。まだ温もりの残る唇に手を当てる。おれは、やっぱり頭がおかしくなったのか。どう考えてもこの世界は普通じゃない。あまりにも現実味を帯びていて、それでも起こる出来事は現実的でないことばかりだから、自分の頭がおかしくなったと考えればこれほどまでに辻褄が合うことはない。目の前の男の出現が、ローに強く、そう実感させた。この男こそ、そうだ。なにせこの男こそ、自分の願望の塊ではないか!

「…お前は疲れてるんだよ、ロー。難しいことはまた明日考えればいい」

今日はもうお休み、そう呟いた男は穏やかな笑みを浮かべ、この世界について何も語らない。聞けば誰もが決められた答えのように返していた「ここはきみが創り出した世界だ、アリス」などということはしなかった。それがローには不思議で、でも頭の片隅にある抑えつけていた賢い部分がその返答を当然と考えた。もしもこの世界が自分の創り上げた妄言だとして(いや、実際にそうなのだろう)、この男は自分にとって都合のいい存在でなくてはならない。だから自分のことを「ロー」と呼ぶし、ユースタス屋と呼ばれることを当たり前のように受け入れる。ワンダーランドについて、核心に触れるような質問には言葉を濁すのだろう、何の疑心も持たせず幸せな夢を見続けさせるために。
この男に、嘲るような、憐れむような笑みはない。ここの住民なきっとみんな分かっているのだ、ローがこうして気づくよりもずっと前から分かっているのだ。自分たちがちっぽけな男の子の妄想から生まれたということに、くしゃくしゃに丸めた恋慕を中心に据えたこの世界は、不条理で不可解で、決して自分たちのご主人様を傷つけないし悲しませない。そうして自分自身に与えられた役割をこなし、道化として振る舞い、空想に浸る創造主に憐れみを浮かべる。みなが自分を「アリス」と呼ぶのは「ロー」から逃れたかったからだろうか。「ロー」から逃れて、誰もが愛する「アリス」へ。けれどやっぱりキッドには自分のことを認めてほしくて、「ロー」を愛してほしくて、彼にだけは名前で呼ばせたのだろうか。この世界の住民が端々に漏らした憐れみの浮かんだ笑みが頭の中を駆け巡る。途端にローは笑いだしたくも泣き出したくもなった。確かにこんな自分は憐れまれて当然だった。そうして額に触れた唇をぼんやりと受け止めながら、この世界はやはり自分の妄想なのだと実感する。ローの知っているキッドはキスはすれど決して「すきだ」などと囁くことはしなかった。

「…ユースタス屋、もっかい言って」
「好きだよ、ロー、愛してる」

ワンダーランドでイカれ帽子屋と役を与えられたこの男は、顔も、声も、姿形全部、ローの知るユースタス・キッドと同じだ。違うのは愛を囁くその唇と甘ったるい声の調子。抱きとめる腕も、熱の篭った瞳も本来は自分に向けられるはずのないものである。悪戯なキスに気持ちを高ぶらせても自分は彼にとってただの義弟だ。草原に寝転ぶ彼は自分を見つめてこう言ったではないか、「いい弟をもった」と。

「ユースタス屋、すき」

男の腕に抱き締められ、その胸元に顔を摺り寄せる。底のないぬかるみに片足を入れてしまったような気分だった。甘い毒に犯されて死ぬのも悪くない。一生この世界にいて、この男と暮らしてたっていい。どうしてあんなに元いた世界に戻りたいと思ったのかもう分からない、と。そこまで、自分を見失えたらどんなに楽だったろう。
俺も好きだよ、と優しく髪を撫でる男に目を閉じる。帰らなきゃ、とローは思った。次に目を開けたその時は現実を見つめる時だ。だからどうかそれまではこの甘い嘘に身を委ねて。




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