どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

握られた手はほんの一瞬で、家の中へと完全に引き込まれたあとは存外素っ気なく離された。自由になった右手が手持ち無沙汰に揺れる。もう縛り付けるものは何もないのに、扉の閉まる音だけがいやに耳についてローは暫く玄関扉から動くことが出来なかった。

「どうしたんだ?そんなところに突っ立って」

小首を傾げたイカれ帽子屋をぼんやりと見つめる。緩く笑う唇に「おいで、」と囁かれて、示されるままにのろのろと真っ白なソファに腰掛けた。優に三人は座れそうなゆったりとしたソファは、柔らかく座り心地がとてもいい。深く沈み身体を包み込むようなそれに反するように浅く腰掛け、そこに座ってじっとしていれば、コトリと。目の前に湯気の立つマグカップが差し出されて、ローはイカれ帽子屋の顔を見上げた。

「好きだろ?」

その言葉と湧き立つ甘い匂いでカップの中身を言わずとも当てられる。ホットチョコレートだ。ココアにマシュマロを幾つも浮かべるのも好きだったけれど、温かい牛乳にチョコを溶かして味わうのも好きだった。十五になる今ではそんな女子供が好きなそうなもの、と大人ぶってあまり飲まないので、ローがホットチョコレートドリンクが好きだと知っている身近な人物と言えばペンギンとシャチくらいしかいない。あとは目の前のこの男、いや、この男のオリジナルの方か。知っているのはそのくらいだ。この男を前にしては「紅茶以外の飲み物も存在するんだな」などという軽口もうまく言えず、ただ勧められるがままにローは両手でマグカップを包み込むように持つと口付ける。こくりと喉を通って流れる温かな液体は蕩けるように甘く。二、三度こくりこくりとマグに口付け、体に染み渡っていく懐かしい甘さにローはそこで漸くほうっと息を吐いた。

「おいしい…」

思わず口をついて出た言葉にイカれ帽子屋が微笑む。目の前の一人掛けソファに腰掛け、自分を見つめるその姿をローはちらりと見た。
入って来た時はそんな余裕もなかったが、今は少し周りを見渡せる余裕もできていた。何の違和感もなく踏み込んだが、少し落ち着いた今ならこの空間が大木の中にあるなどとは到底思えなかった。どう見ても内装は時計ウサギの家と同じように普通の家そのものだ。しかしこのワンダーランドでローの常識が通用しないのは今に始まった事ではない。これもこの世界では普通のことなのだろうといちいち驚くことはなかった。帽子をコート掛けにかけた男の髪色は予想通り燃えるような赤色だったが、この部屋には驚くほど色が少ない。ローの座っている多人数用ソファと男の座っている一人掛け用ソファは真っ白で、その間に置いてあるテーブルは真っ黒だ。ランプは白、本棚は黒、上に続く階段は白、壁も床も白くラグは黒ととにかく黒と白以外の色は玄関扉の緑を除いて何もない。殺風景だ、とローは思った。生活感も暖かみもまるでなかった。
それはこの男のようだ、とすら思った。決して好戦的ではないが始終穏やかでもない。ただの好青年を演じるのが随分得意な男である。父の言葉に向ける顔は上辺の笑顔で、母に向けてすらすらと口をついて出る社交辞令はきっと露ほどにも思ってもいないことだろう。許嫁に向ける微笑みは時折氷のような冷たさをもたらした。するりと周りに溶け込む癖に、本心を誰にも暴くことがないとその男を見て気がついたのはいつだったか。その瞳に浮かぶ色が嘘しかないと気づいたのは。
ローがキッドと出会ったのはまだ今よりも幼い時分だ。子供は嘘をよく見抜く。ローにはキッドが分厚い仮面をつけているように見えた。たくさん遊んでもらったし、いろいろな話もした。自分と7つ歳が離れたキッドに教えてもらうこともあった。ローはそんなキッドが好きだったが嫌いだった。誰にも仮面を外さなかったくせに自分にだけ素顔を明かした男が嫌いだった。本当の笑顔をローにだけ向けた、この男が。自分に親愛以上の感情を抱かせた、男が、キッドが、嫌いで嫌いで、どうしようもなく好きだった。
自覚してからというものローの心は事あるごとに掻き乱され、キッドと会話するたびにじくりじくりと胸が痛んだ。よくある思春期の気の迷いだと思う一方、これが自らの初恋であると自覚した。どこか達観した思考を持つローには、今は辛くともいずれは良き思い出になるだろうということも分かっていた。恋慕と憧憬を履き違えているだけだと宥めた。自分の義兄となる男を好きになるだなんて以ての外だ。これは恋じゃないと言い聞かせるたびにキッドの笑顔が頭をよぎり、甘酸っぱい想いが胸のうちに広がりやはりこれが恋かと堂々巡り。しかし結局ローはその想いを捨て切ることはできなかったし、キッドの傍を離れることも出来なかった。それでいいのだ、この想いは誰にも知られることなくひっそりと胸の内で死ぬ。キッドの隣にいるのはただの義弟だ。胸を焦がすこの感情を誰かに知らせる必要はない。

「ロー?」

囁くように呼ばれた名前にハッと我に返る。長いこともの思いにふけっていたように思えるが、手の中のカップはまだ温かさを保っていた。不思議そうな顔をしたイカれ帽子屋を尻目に、ローは顔を隠すようにカップに口付けた。
この男はローの知るキッドとどれほど同じなのだろう。今までの住民を見た限り、きっちりと反映されているのは見た目、性格はままあるがそれでもオリジナルに近い。ペンギンやシャチなどは身分が対等であったらああいった態度を取るかもしれないと思わせるあたり、性格もやはりオリジナルが反映されているのだろう。
ではこのイカれ帽子屋と名乗る男も?

「また何か難しーいことでも考えてるのか?」

ガキのくせにガキっぽくないんだから、と悪戯な笑みを浮かべた男は不意に立ち上がるとローの隣に腰掛ける。その触れ合う肩と肩に驚いて距離をとろうとすれば、それより先に腰に腕が回りがっちりと押さえつけられた。どんな反応をしたらいいかわからなくてローは俯いた。クリーム色の液体に自分の顔は映らないが、さぞや険しい顔をしているのだろうと思った。
イカれ帽子屋がマグカップをとるとテーブルの上に置く。とられたマグにローが顔をあげれば柔らかい感触が唇に触れた。

「っ、!?」

突然のことに驚きに目を見開き、固まった両手を無理に動かして目の前の男を突き飛ばす。しかしそこは少年と青年の力の差、ローに突き飛ばされたというよりは、イカれ帽子屋がその流れのまま自ら離れたという方が正しい。

「なっ、なにんすんだよいきなり!」
「嫌だったか?」
「い、いやとかっそういうんじゃなくて!おかしいだろ!」
「何が?」
「常識的に!さっき会ったばっかなのに、そんな…」

おかしいだろ、と呟く前にイカれ帽子屋が悲しそうに口元を緩めた。「ああそうだ、ローは忘れているんだよな」、と。

「俺にキスされるのは嫌か?」
「だから、いやっていうか、」
「イエス オア ノー」

顔をあげれば真摯な瞳とぶつかってローは俯く。歯切れの悪い言葉を紡ごうとすればそれより先に遮られた。
ずるい、と思った。そんな、自分の想い人の顔で、声で、そんな言葉を囁くのはずるいと思った。忘れなきゃいけないのに、そんな対象として見てはいけないのに、ローの知る現実とは違うこの世界では、その手に縋ってしまいそうで。退路を塞がれた逃げ道に、すっと伸びてきた指が顔を上げさせる。覗かれる瞳、ロー、と囁かれて、それでもノーと言えるほどローは想いを割り切れてはいなかった。

「いや、じゃ…ない」

満足げに細められた瞳にこんなにも欲を持って見つめられたのは初めてだ。今まで見たこともない情欲に塗れたその顔に、ぶるりとローの背筋が冷たくなる。その顔を許嫁にはもう見せただろうか。途端に薄暗くなる気持ちを追い払おうとするよりも早く男の親指が唇に触れ、そのまま口内へと侵入してくる。「余計なことを考えるな、」根元まで入れられた親指が奥をつき、舌を探り、口内を弄るその感触をローは知らない。目の前の、自分の好きな男と同じ顔の男が、その同じ手で自分の口内を弄んでいると考えるとそれだけで身体中から火が出そうだ。ぐちゃぐちゃに口の中を弄ばれて目尻に涙か浮かぶ。口端からだらしなく唾液が伝い、そこで漸く指が離れた。

「えろい顔」

呟かれ言葉に途端に恥ずかしくなり、ローは慌てて唾液で濡れた唇を服の袖で拭う。男はゴシゴシと拭うその力強い手を止めるとその手を自分の元へと引き寄せる。ぐいっと引かれるままにその胸へし雪崩れる形になったローは慌てて身を起こそうとした。しかしそれよりも早く顔を上げさせられ、その次の行動は言わずとも分かる。もう突き放すことはなかった。




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