どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

ローは暫くぼうっと立ち尽くしていたが、「客人に茶の一つも出さないとは失礼なことをした」とまっさらなテーブルに気が付いた時計ウサギの声に現実に引き戻される。今更そんなことどうでもいいと思ったが、時計ウサギはせかせかとお茶の用意をし出していた。彼がティーポットと揃いのカップ、皿にあけられたクッキーを持って戻ってくるころには、ローは再び椅子に腰かけて黙って暖炉の火を眺めていた。

「さあ、どうぞ」

勧められたそれにちらりと視線を投げれば「EAT ME」と黒のチョコペンで書かれたブラウンのクッキーが鎮座している。この世界にはクッキーと紅茶しかないのだろうか。出されるものはそればかりで辟易していたが、しかし同時にその二つしかこの世界にまともなものは無いようにも思えてローはクッキーをじっと見つめた。幸いクッキーは踊りだすことも歌いだすこともせずただそこに置かれているだけだ。至って普通のクッキーだったが食べる気はしなかった。
クッキーも紅茶にも手をつけないローだったが、時計ウサギは全く意に関していないようで、そんなローを尻目に優雅に紅茶を啜っている。いらないとは言わなかったがピクリとも動かない指が全てを物語っているようで、彼はそれ以上ローに食べることを勧めはしなかった。

ローは黙って暖炉を見つめていた。もう帰りたいとは思わなかった。その代わり、どうしよう、と思った。帰りたいのに帰れない、どうしよう、どうしたらいいのだろう、と。
自分は確かに帰りたいと思っている、確実にだ。だが実際にワンダーランドに留まっている自分を見て、この世界の人間は誰も彼もが「ほら、見たことか」と言いたげな顔をする。「本当は帰りたいと思ってなんかいないくせに」、そして憐れんだような瞳で笑う。「いいんだよ、アリス、ここにいれば」「この世界は楽しい、誰もきみを泣かせたりしない」「みんながきみを愛している」…。

「違う…おれは帰りたい……」

その言葉に時計ウサギが笑う。ほらまた、その目だ。




「どうにもこうにも時計の調子がおかしい」

パチンとシャボン玉が弾けたようだった。右側の頬が焼けるように熱い。暖炉の火に当てられたか、ぼうっとした熱が篭っていて何だが頭が痛い。それでも出口のないぐるぐるとしたような思考は先程よりも幾分クリアで、ともすれば沈んでいきそうな気分を跳ね除ける。忌々しげに懐中時計を見やる時計ウサギにのろのろと視線を投げると、それに気づいた彼は肩を竦めた。

「いつだったかな…忘れたが、気がついたらこの調子でね。うんともすんとも言わない」

そう言ってローに向かって差し出された懐中時計はなるほど三時をさしたまま時が止まっている。時計ウサギはまたコツコツとガラス面を指で叩いたが、もちろん針が動くことはなかった。

「困るんだ、三時で止まられると。永遠にお茶会が終わらないだろう?」

嘆息して呟かれた言葉に、ふとチェシャ猫たちのお茶会を思い出す。あいつらはまだあのイカれたお茶会を続けているのだろうか。しかしすぐにどうでもいいことだと思い直し、ローは少し温くなった紅茶に口付けた。

「イカれ帽子屋には会ったか?」
「…会ってないけど」

懐中時計を見つめたまま投げかけられた言葉にローは眉根を寄せた。どうにもこうにも突拍子のない会話だ。突如呟かれた名前は見知らぬもので、またこの世界の住民のことかと思うとうんざりした。帰る手立てがよく分からなくなってしまった以上、もう新しい人物に出会う気にはなれない。渋面で首を振るローに時計ウサギは「それはよかった、」とうわの空で答える。何が良かったのか、ローには皆目検討もつかない。

「止まった時を動かせるのはイカれ帽子屋だけだ」
「…はぁ」
「これを彼の所を持っていけば時は再び流れる」
「…へぇ」
「少しお使いを頼まれてくれないか、アリス」
「ああ…ってなんでおれが!」

投げやりにうっていた相槌で余計なところまで頷いてしまい、慌てて否定する。話の流れからして時計ウサギの言う「お使い」の内容は簡単に想像がついた。この懐中時計をそのイカれ帽子屋とやらの元へ行き、直してもらってきてほしいということだろう。真っ平ごめんだ、とローは思った。自分が彼の願いを叶えてやる義理はないし、そもそもこれ以上この世界の人間と関わり合いになりたくない。ただでさえ、まともな人間がいないこの世界だ。そんな世界において「イカれ」帽子屋と呼ばれている奴に誰が会いたいと思うだろうか。

「自分で行けばいいだろ。家もそう遠くないみたいだし」

たしかあの看板には「この先、左側、イカれ帽子屋の家」と書いてあった。この家からもさして距離はないはずだ。

「そうしたいのは山々なんだが…生憎やらなければならないことが沢山あってね」

行く暇がないんだ、と時計ウサギは自分の部屋をぐるりと見渡す。視線は絨毯の上で散らばるガラス片の上で暫く止まり、それからローに視線を向けると押し出すようにして懐中時計を差し出した。それにローはあからさまに嫌そうな顔をしたが、その手が引っ込められることはない。仕方なく、大仰に溜息を吐いてそれを受け取ると、時計ウサギは嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとうアリス、優しい子だ」

裏もなくそう言われて、逆に居心地が悪くなる。ローはその懐中時計をズボンのポケットに乱雑に押し込むと、面倒なことはすぐにも終わらせようと立ち上がって玄関へと向かった。

「ああ、そうだ、アリス」
「…なんだよ」
「気を付けるんだぞ」

当たり障りのない言葉だ。にこやかな微笑みが崩れることもない。そのくせどことなく尖ったその声色が何故だか気になった。





時計ウサギの家を出ると来た道を戻っていく。外は薄暗くなっているだろうかと思ったが、意外にもまだ明るかった。というよりも何も変わっていないように思える。来たときと変わらない空の色にローは眉根を寄せた。もしかしたら時が止まっているというのは、比喩でもなんでもないのかもしれない。
看板のあるところまで戻ると、ローはそこで少し足を止めた。「この先、左側、イカれ帽子屋の家」、そこには先程と寸分違わぬ文字が並んでいる。ローはその文字にどことなく見覚えがあった。ついっと文字をなぞる。ざらりとした木の感覚が指に付いただけで、何かを思い出すことはなかった。はて、と首を傾げる。覚えているようで思い出せないそれに暫く足を止めたが、まあいいかと看板の指し示す方向に向かって歩を進めた。

時計ウサギの家と同じようにそれほど歩かないうちにその家は見える、とローは思っていたが、予想に反してそのような家はどこにも見当たらなかった。その代わり、大きな大きな大木が、それこそ直径何十メートルもありそうなほどの大木が見えてきてもしやと思う。これがその家だったりしないよな、と思いながら辿り着いた大木には何とも不自然なことに緑色の扉がついていた。扉の左上には小さな玄関ランプ、そしてその前には二つ三つ石段が設けられている。石段の右側には傘立てが置いてあり、黒と白の傘が無造作に差し込まれていた。何より扉から少し離れたところにぽつんと立てられた赤い郵便受けが、この大木が紛れもなく住居であることを物語っていた。
ポケットの上から懐中時計を握り締め、どうして了承してしまったのだろうと今更ながら後悔した。どうしたってこんな家に住んでいる人間がまともであるはずがない。玄関扉にはご丁寧に金色のノッカーがついていたが、それを持ち上げて叩くことすら嫌だった。

石段を上り、扉の前に立つ。帰りたい、と思った。帰りたいと思って目を強く瞑ったが、目を開けても緑色の扉が消えることはなかった。溜息を吐いてノッカーに手を伸ばす。幸せなんてとっくに底を尽きてるんじゃないだろうかと思いながら、控え目に二度ノックをした。

「…無視かよ」

カラッポの木の中を叩くように音はよく響いたが扉が開かれることはなかった。何でおれがこんなことをしなければならないんだと思うままにもう一度叩く。留守かもしれないという簡単な予測はすっかり頭の中から抜け落ちていて、現れない家主に苛立って先程よりも強めに叩くと、不意に視界が影って暗くなった。

「おいおい、俺の家を壊す気か?」

すぐ真後ろから聞こえてきた声にびくりと体が揺れる。ついで後ろを振り向いたローは、その言葉を発した男を視界に捉えて驚きに目を見開いた。
男はローが見上げるほど背が高く、頭には扉と同じ色のシルクハットを被っている。白いシャツはだらりとだらしなく太腿まで垂れ下がり、黒のデニムに同じ色のエンジニアブーツ、その上に帽子と揃いのロングコートを羽織り、シャツの襟元にも同じく揃いの色のリボンが緩く蝶々結びにされている。右手に持ったステッキを鳴らし笑う男を、もちろんローは知っていた。ローはその男が嫌いだった。そしてそれと同じくらい好きだった。

「…ユースタス屋」

そっと呟かれた名前に、イカれ帽子屋は何も言わず口角を吊り上げる。その代わり手を伸ばすとローの頬に触れる。突然のその動きにぴくりとローの口元が引き攣ったが、その手を振り払うことはしなかった。ただ黙って目の前の男を見つめる。その瞳に目を細めると、男は小さく笑って呟いた。

「おかえり、ロー」

呼ばれた名前に息が詰まった。驚きと戸惑いが目の前でぐるぐる踊っている。「アリス」と呼ばないイカれ帽子屋は、そんなローの表情に満足そうな顔をするとギィッと玄関扉を開けた。開けられた扉を背にし、ローに向かって手を差し伸べるその姿に困惑した顔を向ける。男はただローの顔を見て微笑んだ。

「お入り」

そうして差し伸べられた手と顔を交互に見つめて、ローはおそるおそるその手を取る。白い手袋の上に乗せられたのは小さな手だ。それをそっと包み込んで引き寄せると、男はにやりと笑った。赤い唇から覗いた八重歯が獣の牙のようで、一瞬足が止まるもバタンと。無情に閉められた扉の音に逃げ場はなくなったと、どうしてかそう感じた。




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