どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

女王の庭を出て、改めて城の正面へと回る。入り口である荘厳な扉の前に敷かれる赤い絨毯は何メートルあるのだろうか、黙々と歩くその先には大きな鉄の門がある。ローがその前で立ち止まると、外に立っていたトランプ兵がガシャリと門を開けてくれた。敬礼する彼らを尻目に礼もそこそこに城を出る。願わくばこの城に来るのもこれが最後であって欲しいと思いながら。

教えられた時計ウサギの家までの道のりは大雑把といえばそうだった。まず城から出ると目の前には森が広がっているが、その森に入ってすぐ金色に光る道、いわゆる歩道がある。それを辿って行くと途中で看板が見つかるからあとはそれに従って進めばいい。教えられた内容はざっとこんなもの。この国の人間には親切心が足りない、とその道を辿りながらローは心中悪態をついた。

「大体その看板っていつ見つかるんだよ…」

どの程度行けば見つかるか、何処ら辺にあるかなどは一切教えてくれず、聞いても行けば分かるとただそれだけ。頼れるものはこの金色に光る歩道だけで、しかしそれすらも途中で途切れるようなことがあったらどうしてくれようと思うほどこの世界においては信用もなく頼りない。まあ見た感じ、まだまだ道は続いているようだから途切れることはないと思うが……ハァ、とローは何度目かのため息をついた。なんて長い一日だろう。こんなに疲れる一日は初めてだ、と思いながら、ふと今がどのくらいの時間なのか気になった。
鬱蒼と生い茂る森は暗く、この中にいる分には判別はつかない。しかし先程午後三時にはお茶会が開かれなければいけないと三月ウサギが言っていたし、とすると今は夕方くらいだろうか?何にせよ、この世界で一晩過ごすことは避けたい。元いた世界は今何時ごろなのだろう。自分は行方不明という扱いになっているのだろうか。もしこの世界と同じように時が流れているならそろそろ戻らないと本格的にマズイ。使用人たちが自分を探して駆けずり回る様を想像してローは顔を顰めた。どんなに心配したかと嘆かれるだろうか、面倒だ、そうなる前に帰りたい。早歩きだった歩調をさらに速めて歩いていく。
そうしてしばらく道なりに進んで行くと、突然森を抜けてローはぱしんと瞬きした。終わる予兆もなかったものだから、そんなに物思いにふけっていただろうかと疑問に思ったが、すぐ目の前に木の棒に打ち付けられた木の板を見つけてその思いもすぐにどこかへと消えて行く。これがハートのジャックが言っていた看板だろうとその足元まで近づいた。
看板自体は古臭く、汚れていたが字が読めないわけではない。一番上の木の板には「ここから先、右側、時計ウサギの家」と流れるような、きっちりとした字で書いてある。その下にももう一つ板が取り付けられていて、これは上のものよりも若干新しいように思われた。そこには小さな子どもが書いたような覚束ない文字で「ここから先、左側、イカレ帽子屋の家」と書いてあった。
ローはその看板を一瞥すると迷わず右側へと進む。出来ることならこのイカレ帽子屋の家に行かなくてすみますように、と思いながら。

看板に従って歩いて行くと、確かにそれほど歩かないうちに一軒の家を見つけた。ここが時計ウサギの家なのだろう。こじんまりとした、畑付きの一軒家だ。畑に突き刺さったカカシが意味もなくローに笑いかける。やっぱりここで育てているのは人参なのだろうかとどうでもいいことを思いながら、煙突から出る煙に視線を投げる。おそらく時計ウサギは家の中にいるだろう。意を決して玄関扉をノックすると、中から何やらガシャンと物の割れる音がした。
「あのー…すみません」

外から声をかけ、もう一度ノックする。ややあって「どうぞ、」と中から投げ捨てるような大きな声が聞こえた。苛立っているような焦っているようなその声に少し気圧されながらも、言われるままにローは扉を開けて中へと入った。
扉を開けてすぐ目線の先にはもうもうと火を焚く暖炉がある。ぱちぱちと火の粉が爆ぜるそれは暖かそうで、この家の中の秩序を唯一守っている存在に思えた。というのも、この家がまるで荒らされたかのように散らかっていたからだ。暖炉の前に置かれたテーブル、その下にはガラスが散らばっている。先程の音はこれがテーブルから割れて落ちた音だろうと予測できた。テーブルと揃いの椅子の上にはこの家の持ち主のものであろう服が散らかっているし、絨毯の上には投げ出された大きなトランクが中に入った荷物もそこそこにスペースを取っている。ローは家に入り扉を閉め、一通り辺りを眺めたが声の主はどこにも見当たらなかった。仕方なくもう一度「すみません、」とやや大きめに声を上げると「ちょっと待ってくれ!」と上から怒鳴る声が聞こえた。
右側にはシンクや冷蔵庫が置いてありキッチンとなっていたが、その一番奥に白塗りの階段があることにその時ローは気づいた。声の主はどうやら二階にいるようだった。あまり機嫌はよろしくないようだが大丈夫だろうか、と思っているとドスドスと大きな音を立てて階段を降りてくる男が見えた。両手で大きな丸い懐中時計を弄るその男の頭には、お約束のように生えた兎の耳。ローに一瞥もくれぬまま、椅子の上には置いてあった服を掴んで投げ置くとどかりと座った。懐中時計をひっくり返したり裏返したりして、何やら吟味しているようだった。

「あのー…」
「何かね、俺は忙しいんだ、用件は手短に頼む」

はっきりと、しかし義務的に述べられた言葉は硬くしっかりとしていて、それがまたこの部屋の散らかり具合と似つかない。そしてその態度もローにとっては新鮮だった。アリスアリスと騒がない人物に会ったのはこれが初めてだと思ったが、単にローの顔を見ていないからそういった態度をとっているだけなのかもしれない。どちらにせよ、騒がれないままでいるならその方がいい。ローはなるべく時計ウサギの視界に入らないようにしながら言葉を続けた。

「あの、なんでかおれ、この世界に入り込んじゃったみたいで…元いた世界に戻りたいんだけど。帰り方を教えてほしい」
「何を頓狂なことを。ワンダーランドに入れるのはアリスだけだ。……アリス?」

時計ウサギは相変わらず熱心に懐中時計を眺めていたが、自分の放った言葉に疑問を抱いたように顔を上げると言葉を噛み締める。ワンダーランドに侵入者などありえない、入れるのはこの世界を作り出したアリスだけだ、ということは、今ここにいるのは…。動きを止めた時計ウサギが何を考えているか、それが嫌でも分かってローは一歩退いたが、こちらを向いたその驚きと喜びが入り混じった顔に諦める他なかった。

「いやぁ、いやぁ、アリス!アリスじゃないか!!どうしてアリスだと言ってくれなかったんだね?いやぁ、失礼な態度を…さあ、そんなところに突っ立ってないでこっちにおいで、ほら」

招かれるまま強引に時計ウサギの目の前に座らせられて、そこで初めてローは男の顔をまじまじと見つめた。もちろんこの顔も知っている。X・ドレーク、ローの叔父に当たる人物だ。父親と仲が良く、父が狩りに出掛ける時はその隣に専ら彼の姿を見つけたものだ。ローに対しても優しく、見かけるとどこからともなく取り出した菓子をその掌に与えてくれた。嫌いではなかったが特別好きというわけでもなかった。いつまでも子供扱いしたがる人だったから、それが少し気に食わなかった。

「風の噂でアリスが来ているとは聞いていたが、まさかに本当に会えるとは…しかし大きくなったな、アリス。あの頃はまだこんなに小さくて……」

どうやら時計ウサギも根本は自分の叔父と然程変わりないようだ。懐かしむようにうんうんと頷かれてローは居心地悪そうに身じろぎした。自分が覚えていない相手に自分の過去を懐かしまれるとは何とも言えない気持ちだ。本題とだいぶかけ離れてしまっている時計ウサギを連れ戻すようにローは一つ咳払いをした。

「あんたに聞きたいことがあってここにきたんだけど…」
「ああ、そういえばさっき何か言ってたね。元の世界に帰り、たい…と…」

掠れる語尾と突き刺さる視線にローはため息が出そうだった。また何かとうるさく騒がれて引きとめられるのだろうか。半ば諦めていたローだったが時計ウサギは予想に反して騒ぐことはしなかった。ただ黙って懐中時計の縁をなぞった。

「きみは既にいろんな人に会っただろうね、アリス。帰る方法を探して」
「え?ああ…あいつなら知ってる、こいつなら知ってるとか言われて… それで、次はあんたの番だ」
「…帰る方法は誰でも知ってる、みんな知ってる。ただそれをきみに教えたくないだけで」
「は…?」

顔を上げた時計ウサギに微笑まれて優しく言われた言葉は「はいそうですか」で簡単に終わるようなものではなかった。今まで訪ねた人物みんな帰る方法を知っていて、それでいて知らぬふりをされていたというその事実にローは今更ながら腹立たしいと思った。

「だがどっちにしろ…今のきみに帰り方を教えたところで無駄だろうね」
「なんだよそれ…どういう意味だよ!」
「そのままの意味だよ、アリス」
「ふざけんな!いいから早く帰る方法を教えろよ!」

その物言いについカッとなり、勢い余って立ち上がるとテーブルに両手をつく。ガタンと椅子の倒れる音がしたが気に留める人は誰もいない。時計ウサギは暫くローの顔を見つめていたが、ふっと暖炉の方へ視線を向けた。

「きみは帰りたいと思ったか?」
「ああ、そんなのいつだって思ってるよ!いまだって…っ」
「帰りたいと思ったらいつでも帰れる」

ぎゅっと握り拳を握ったままローは時計ウサギの言葉に噛み付くように返したが、彼の声は平然としたものだった。そのなんでもないようにして呟かれた言葉に、一瞬脳みそが考えることを拒否したのではないかと思えた。怒りに打ち勝った困惑がローの瞳の奥で揺れる。意味が分からないと言いたげなその顔を見て、時計ウサギはまた静かに同じ言葉を繰り返した。「帰りたいと思ったらいつでも帰れる」と。

「だから、なんだよ…どういう、」
「そのままの意味だよ、アリス」

穏やかな微笑みを浮かべて呟かれたその言葉に、どうしてか突き放されたような気分になる。先程まで感じていた怒りは嘘のように消えていた。その代わり沈黙と困惑が何度もローの頭を突き刺した。
自分は今、「帰りたい」と願っている。そして「帰りたいと思ったらいつでも帰れる」ならば、とっくに元いた世界に帰れているはずだ、でなければおかしい。しかし実際問題ローは未だこの世界に、ワンダーランドにいる。

ローはぎゅっと強く目を瞑った。心の中で唱える、何度も何度も、元いたあの世界に帰りたいと。そしてゆっくりと、おそるおそる目を開ける。そこには、兎耳を生やした男が再び熱心に懐中時計を弄る光景が広がっていた。
脱力。

「おれは…帰りたいはず、だ。なのになんで…」

ぎゅっと唇を噛み締めたローに、時計ウサギは眉根を寄せたままひっくり返した懐中時計を凝視していた。コツコツと爪先でガラス面を叩きながら「どんなクイズよりも簡単だ、」と言う。

「きみが本当は帰りたくないと思っているからだよ、アリス」

憐れみを含んだその微笑みが、どうにもこうにも腹立たしく思えた。




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