どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

どのくらい歩いたのか知らないが、この短時間でひくひくと引き攣る頬に筋肉痛にでもなったのではないかと思う。いちいちハートのジャックを泣き喚かさないために必要なことだったのだから仕方ないが、如何せん頬が痛い。ぎこちない笑みを浮かべ、何とかぺらぺら煩い話を聞き流しながら、ローは努めて冷静になるよう努力した。その甲斐あってか、ハートのジャックはへらへらと笑いながらも着実に足を進めていた。

「あっ、アリス!見えたよ、女王様の城!」
「やっとか…!」
「いやぁ、疲れたー」
「誰のせいだと思って…」

不意に広くなった視界にハートのジャックが声をあげて騒ぐ。どうやら一日を薔薇園の中で過ごすという最悪の事態は免れたようだ。
薔薇園から一歩足を踏み出して分かったが、おそらくここは女王の庭なのだろう。目の前には白く汚れ一つない噴水が、きらきらと水を放っている。あの広大な薔薇園もきっと庭の一部だ。
そして目の前に突如現れ出た大きな城。白と赤で統一されたその城は見上げるほど大きく、なぜ今まで見えなかったのだろうかと疑問に思うほど。このぐらいの大きさなら、いくら遠くに至って薔薇園の中からでも見えたはずだろうに。
「で、その女王陛下ってのはどこに…」

まあ、そんなことはどうでもいい。さっさとその陛下とやらに会って帰りたい。この世界に来てからというのも考えるのに疲れてしまったローは、心底そう思いハートのジャックに女王陛下の居場所を聞こうとしたが、それよりも早く高い声が耳をついた。

「アリス!その姿はアリスか!?」

今にも飛び跳ねてしまいそうなその声色は少女のようで、嬉しさを湛えたその声にローはきょろきょろと辺りを見回して声の出どころを探す。上を見上げたハートのジャックが、はっとしたように慌てて跪いた。つられてローも上を見れば、庭に面したバルコニーに立つ人影。桃色の長い髪を翻し、にこりと笑ったその姿に纏うハートが散りばめられた赤いドレス。ああ、嫌な予感がする。

「ジュエリー屋…お前もなのかよ…」
「おう!久しぶりだなアリス!」

だからおれは、という弁解は最早心の内に留めることにした。いくら言っても聞かないここの住民に何度も繰り返す方が馬鹿らしい。それにしてもまさかジュエリー屋が女王陛下とは…とローは思った。お転婆で手のかかる、男勝りの性格で、召使たちもほとほと手を焼くと聞く、ローの従妹だ。見慣れた人物が登場するのはもう慣れた、これしきの事では驚かない。しかし随分勇ましい女王だなと苦笑した。

「女王様、今からアリスをそちらへ、」
「いんや、ウチが行く!」
「え、女王様!?」

ハートのジャックの言葉を遮ると、欄干に手をかけ足をかけた女王にローもハートのジャックも目を見開いた。それなりに高さのあるバルコニーから勢いよく飛び降りたその姿には最早驚く他ない。ハートのジャックが悲鳴ともとれるような声を上げて慌てて近寄ったが、当の女王は甚く平気そうに笑っていた。

「何してるんですか、まったくあなたって人は本当に!」
「うるさいっトランプのくせに!首切るぞ!」
「それはやめてください!!」

悲痛そうな声を聞き、からからと楽しそうに笑う女王にローは溜息を吐いた。向う見ずなジュエリー・ボニーの強引な性格と好奇心はローにも手に負えないところがあった。彼女のことは嫌いではないが、相手をするのはあまり得意ではない。

「元気にしてたかアリス?しっかし相変わらずほそっこいなーお前!もっと食えよ!」
「余計なお世話だっ」
「あ、そうだ!そんなほそっこいアリスのために今からお茶会しようぜ!」
「おい、ちょ、」
「おーいお前ら、アリスのためにお茶会開くから準備しろー!」
「はぁ!?だからおれはっ…」
「いーからあっちに座って待ってよーぜ!」

にこりと笑われ腕を引かれ、やはり変わらないその強引さにローは溜息を吐きながらもずるずると引き摺られていく。辿り着いた先はこれもまた庭の一部なのだろうが、先程のように全面芝生ではなく半分ほど白いタイルに覆われており、その上に白いテーブルと赤い椅子が並べられていた。どこからともなく現れたトランプ兵たちが、その上にティーセットを準備している。

「さ、座った座った!何か食いたいもんとかあったら遠慮なく言ってな!」

もちろんここにあるのも好きに食っていいぞ、と向い合せに座った女王は笑う。紅茶を飲み干しクッキーにかぶりつく姿に、ローはここに来てからまだ一口も何も食べていないことを思い出した。忘れていた空腹が襲い、ローは皿に並べられたクッキーを一口齧る。ふんわりと甘い味が口の中に広がって、この世界で一番まともなのはクッキーかもな、と独り言ちた。

「アリスが来てるってのは聞いてさ、さっき抜け出そうとしてたんだ」
「この城を?」
「そ、そしたらちょうどよくお前が来てくれてラッキーだった」
「…ふーん」
「な、何して遊ぶ?」
「は?」
「また前みたいにチェシャ猫も呼ぶか?あいつにみんな呼んでもらって、かくれんぼとかおにごっことか!」
「ちょ、ちょっと待て!おれは遊びに来たんじゃねぇ!」

楽しそうに話を進める女王を遮ると、ローはとんでもないと言いたげに手を振った。かくれんぼ?おにごっこ?まるで子供の遊びじゃないか!
馬鹿らしい、とローは思ったが実際ローは子供だ。しかし今年で齢十五。そう考えると提案された遊びはどれも子供っぽくて、やりたいとは思えないのかもしれない。そもそもそんな遊びをしにここへ来たのではないのだ。じゃあ何をしにここへ来たのだと言いたげな女王の瞳はくるりと丸く幼い。ローの記憶が正しければ、確か彼女は今年で十二になるはず。

「なあ、違うんだ。おれは元の世界に帰りたくてここに来たんだ」
「え、帰るって…帰ってどうすんだよ!」
「どうするって言われても…」
「あっちはアリスにつらいことしかない!そんなとこに帰ってもつまらないだけだろ!」
「でもおれは、」
「ここにいろよアリス!…みんなお前のことが好きだし、ここは楽しい。だれもアリスを泣かしたりしないから…」
「ジュエリー屋…」

俯いた瞳がゆらゆら揺らぐ。ローは何だか申し訳ない気持ちになったが、それ以上に彼女の言っている意味が分からなかった。
つらいことしかない、とはどういうことだろう。確かに毎日同じ日々が繰り返されるのはつまらないと言ってしまえばそうだし、でも決してそれだけではない。つらいことだって確かにあるけれど、つらいと嘆くようなものだろうか?この世界の住民から見たら、元いた世界はルールや規則に縛られた退屈でつまらない、嘆かわしい世界なのかもしれないが…。しかしチェシャ猫もそんなようなことを言っていた。つらいことがあるたびに、よくここへ来た?やはり意味が分からない。
そもそもこの世界自体意味が分からないものなのだ。やはり夢でも見ているのか?たぶんそれが一番答えに近いのだろうけど、夢にしては現実味を帯びすぎている。前にも来たことがある、作り出したのは他でもないアリス、君自身だ、チェシャ猫と三月ウサギの声が木霊する。みんなおれを知っている。久しぶりという、帰るなという。だけどおれはこの世界を知らない。知らないのだ。

「…アリス?」

だからアリスって誰なんだよ。

「帰る」
「え、」
「帰る。どうやったら元に戻れるんだ?」
「で、も…だから、あっちは、」
「どうやったら帰れるか聞いてんだよ!」
「っ、いやだ!絶対に帰さない!!」
「は、ぁ?おまっ、」
「帰さないかえさない!あっちに帰ったってアリスは、アリスは、っ、」
「っ、ちょ、なに泣いて…」
「う、ああああん」
「な、泣くほどのことじゃないだろ?!泣くなよ、おれが悪いみたいだろ!」
「だって、アリスが、っ、あ!」

袖口で乱暴に目をこすり、キッと睨みつけるその目にローはたじろぐ。何とも居心地が悪い。そもそもおれは悪くない、勝手に話を盛り上げるこいつらが悪いのだ…とは思ってもやはり目の前で泣かれるとどうしていいか分からない。

「ごめんよ、アリス。女王様はちょっとワガママなんだ」
「シャチ…」

許してあげて、と笑って女王を抱き上げるとあやすように背中を撫でるハートのジャックを見やる。

「うわ…おれ、いま初めてお前が頼もしいと思った」
「ひどっ」

率直な感想を言えばハートのジャックはがくりと肩を落とす。女王は相変わらず泣いていたが、それでもひくひくと小さな嗚咽が聞こえる程度だった。

「どうしても帰りたいなら、時計ウサギの所へ行くといい」
「なっ、ここに来たら帰れるんじゃ…!」
「この女王様が帰り方を知ってると思う?知ってても教えないよ」
「…っ、はぁ、分かったよ!」

ハートのジャックから告げられた言葉に目を見開いたが、そう諭されてしまえば仕方がない。思えばこんなことの繰り返しだ。本当に帰れるのかと一抹の不安を抱きだしたところで、まるで見知ったように、大丈夫とハートのジャックが呟いた。そう言われたら何も言えない。ローは詰まった息を大きく吐くと椅子から立ち上がる。そこでくるりとこちらを振り向いた女王が涙でぐちゃぐちゃの顔でローを見た。

「いやだ、アリス!ここにいろ!」
「悪いけど…帰らなきゃ」
「いやだ、アリス!アリス!」
「女王様、だめですよ。アリスは絶対です」
「でもっ…」
「大丈夫、また会えますよ」

にこりと笑ったその顔が気に食わなかった。チェシャ猫も同じようなことを言っていた。また後でね、と。もう二度と会う気はないし、戻ってくるつもりもない。あやすためだけの言葉ならまだしも、そこにはどこか確信めいた響きがあった。

「…戻ってくる気はない」
「知ってるよ。でもこのままだとどうだろうね」
「どういう意味だよ」
「そのままだ」

チェシャ猫のように気に食わない笑みを浮かべるハートのジャックに、ローは苛立った顔を見せたが、もうそれ以上は何も言わなかった。その代り時計ウサギの居場所を聞けば、その家の場所を教えられる。

「じゃあまたね、アリス」

手を振るハートのジャックには応えない。何か言いたげにこちらを見つめる女王には何も言葉をかけなかった。




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