どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

心地好い日溜まりのような暖かさに身を委ね、何も考えることなく、ただあるがままに任せるようにして眠る。ふわふわと揺らぐ柔らかい綿に囲まれているような感覚。このままずっとこの日溜まりを享受出来たらどれほど幸せだろうか。煩わしいことなど、全て忘れて――……。


『…ス……、リス……アリス!起きるんだ、アリス!』


びくり、とローは飛び起きた。何だかとてもいい夢を見ていた気がするのだが、それを遮るようにけたたましく響いた声のせいで内容も何もすっとんでしまった。あまりよくない寝覚めに顔を顰めながら首を擦る。寝違えたのだろうか、何だか首が痛い。
しかしあの声は一体何だったのか…『アリス』、ローの知り合いにはいなそうな名前だ。聞いたことがない。他人が呼ばれているのを聞いて起きるだなんて変なことだと思いながら、やけに周りが薄暗いことにふと辺りを見回す。そして気付いた。

「…どこだ、ここ」

おかしな話だがローは鬱蒼と草木が生い茂る森のど真ん中にいた。枯れ葉や小枝を下敷きにしている自分の体に、どうりであちこちが痛いものだと納得する。いや、冷静に納得している場合ではないのだが。
「え、どうなってんだよ…」

暗い森に、呟きはよく響く。とりあえず道に迷ったときはその場を動かずじっとしているのがよいと聞く。ただ今の自分にそれは当てはまりそうになかった。なんせつい先程まで屋敷の庭、垣根が張り巡らされ、人目につかない日当たりのいい大木の下――ローはその小さな空間を秘密基地と呼んでいる――で昼寝をしていたのだから。
まさか夢遊病ということはあり得まい。そもそも屋敷の近くにこんな不気味な森は見たことがない。とすると、誘拐、か。確かに自分は名の知れた良家の子息だが、誘拐というならもっと扱いがあるだろう。何だってこんな森の中に放置されなければならないのか。

ローは歳の割に落ち着いたところがあったので、この状況に多少の動揺を誘われても、すぐにあれこれと類推出来るほどにはしっかりしていた。また、これが一番面倒なのだが、ローは好奇心が人一倍強かった。見知らぬ森に置き去りにされ、途方に暮れるなんて状態からは程遠い。むしろそこからローは探検とか冒険といったような言葉を想像した。大人しく、利発そうな子で、と褒められる一方でいかにも子供らしい一面だって持ち合わせているのだ。いつもはローに堅苦しいことばかりを強要する御付きの者達は、今はいない。それだけですっと体が軽くなったような気がして、体についた汚れを払うと起き上がる。白色のシャツと靴下は多少汚れが目立つが仕方が無い。ローは暗い森をただ一人で歩き始めた。



正直言って自分が歩いている方向が正しいのか間違っているのかも分からない。逆方向に進んだ方がよかったか、とあまり変わり映えのしない風景にローは少しばかり後悔した。
相変わらず森は暗く、出口はおろか、変わった様子さえ見せやしない。あるのは大きな木々と雑草。空も覆ってしまうような木々たちに今がどのくらいの時分なのかも分からない。何だか疲れた、とローは変わらない景色にうんざりした。足は疲労を訴えているし、腹も減ってきた。迷路のような森に、このまま抜け出られずに終わるのではないかという嫌な予感が頭を過ぎる。振り切るようにして足を進めるが、それでも先は見えそうにない。
少し、休憩でもするか。焼ききれるような焦燥感を感じながらもローは自身を落ち着けるように深く息をする。すでに冒険どころの話ではないが、あまり深く考えても不安になるだけでいいことなどないものだからローは努めて考えないようした。少し休んだらまた歩こう、そう思い、近くにある大きな切り株に腰を掛けようとしたとき、ザワザワと木々が不自然に揺らめいた。

「風の噂でアリスが帰ってるとは聞いたけど、まさか本当に帰ってるとは」
「なっ、誰…!」

突如聞こえてきた声にローは体を強張らせるとキョロキョロと辺りを窺う。しかし声の主はどこにも見当たらない。気味が悪い、そう思ったときに「こっちだよ」と気の抜けた声が頭上から響いた。

「…ペン、ギン?」

声を辿ってローが見上げた先、大木の太い枝に腰かけてにやにや笑う見知った顔。ペンギン、屋敷に仕える召し使いの一人で、中でも一番若い人物だ。それ故ローと親しい間柄でもある。といっても主人と従者の関係でだが。

「ペンギン、なんでここに?つかおれはどうして…」
「質問は一つずつにしてもらいたいものだね、アリス」
「アリスって…なんだよ、ふざけてんのか?」
「真面目だよ。大真面目さ!それに言っておくけど俺は君の知っている『ペンギン』じゃない」
「は…?」

にぃっと笑った男は枝から下りずにローを見つめる。

「全然意味分かんないんだけど…つまんない冗談やめろよ。しかもなんだよそれ…猫、の耳?」
「耳だね。俺はチェシャ猫だからね、アリス」

ゆらりと揺れる尻尾に頭についている耳もまさに猫そのもの。さらに着ている服はピンクと紫のボーダーニットに白のデニムときた。派手な色味のその服は未だかつて見たことがない、しかし見かけはどう見てもローの知るペンギン本人だ。だが当の男は自分を「ペンギン」ではないといい、「チェシャ猫」だと言う。こんなに頭の痛くなる話があっていいのだろうか。段々とローは苛立ちが増していき、一歩も進まない状況に眉根を寄せる。そもそも、だ。

「さっきからアリス、アリスってなんなんだよ。ふざけるのもいい加減にしろよペンギン」
「やっぱり忘れてるんだ」
「忘れてる?」
「そう。ここはワンダーランド、で君はアリス。君はこの世界では絶対なのさ。なんせ俺たちは君から生まれたからね」
「ペンギン……お前頭大丈夫?いやわりとマジで」
「失礼だね、アリス。だから俺は君の知っている『ペンギン』じゃない。確かに君は俺をペンギンと呼ぶけど、『ペンギン』じゃないんだよ」

ただの猫さ、とにやにや笑う男はやっぱりどう見てもペンギンで、そうじゃないならばこの世にまたとないそっくりな、ドッペルゲンガーだと言ってもいい。いや、生き別れの双子かも。
歩き疲れと進まない会話からの疲労に、ローはげんなりとしながら有り得ないことを考える。少なくとも生き別れの片割れではなさそうだ。イライラとしたローの雰囲気を感じ取ったのか、チェシャ猫はにやっと笑った。

「もっと詳しく教えてあげようか?」
「分かりやすいならな」



その後、チェシャ猫から聞いた話は到底ローには信じ得ないもので、三度ほど聞き返し、引っ張っても取れない耳と尻尾を確認して漸くしぶしぶと自分の現状を認めた。といっても未だ半信半疑なのだが。

「おれ、頭おかしくなったのかな…」
「君もだいぶ大人になってしまったね、アリス」

昔はそんなこと言わなかったのになぁ、なんてチェシャ猫は少し寂しそうに笑う。それに何だか居たたまれない気持ちになり、ローはふいっと視線をそらした。
幼い時分はよく来ていたというこの世界。しかし今の自分にそんな記憶は全くない。感じられる懐かしさだってないのだから、常識的な人間ならばまず自分の精神崩壊を疑うだろう。

「と、とにかく!おれは帰るっ」
「帰る?もう?せっかく久しぶりに来たんだからもうちょっといなよ。みんなもアリスに会いたいだろうし」
「いいって、おれは――…」
「本当に?」

不意ににやにや笑っていたチェシャ猫の笑顔が引っ込み、すっと目が細められる。しかしそれも一瞬、口元には嘲るような笑み。

「なにかあっちの世界ですごくつらーいことがあって、アリスはここに来たんじゃないの?」
「っ、」
「君はいつでもそうさ、アリス。君は泣けない弱い子だったからね…記憶はなくても覚えてるんだよ、君はつらいことがあるとよくここに来た…」

口元には依然として笑みが浮かべられていたが、その瞳はどこか憐れみを含んでいた。その視線に耐えきれず、ローは俯く。

「…帰る」
「そうか、なら止めないよ。ああでもその前に女王様のところへ寄ってお行き。帰りたいのなら何か教えてくれるかもしれない」

チェシャ猫は優しい口調でそれだけ告げると、じゃあまたあとでね、と囁く。その声にローはハッとすると慌てて顔を上げた。

「ちょ、そこへはどうやって行ったら…!」
「森が教えてくれるよ」

顔を上げた先にチェシャ猫の姿はもうなく、ただその声だけが静かな森に響いた。




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