どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

目の前に置かれた丸い、白い皿には上品な金の縁取りが施されており、鮮やかな群青と金色が絡み合って一つの模様をなしている。幼心に美しいと思ったが、それよりもその中心に置かれているビクトリアスポンジケーキの方がローの気を引いたのは明確だった。フォークで一刺し、切り込みを入れて口に運べば、生クリームとラズベリージャムがスポンジと共に甘やかに蕩けていく。程よい甘さを称えたその簡素なケーキがローは好きだった。一口、一口と味わっていけば横から伸びてきた手がついっと空のティーカップを掴む。「もっと紅茶はいかが?」そう言ったのは左隣に座る三月ウサギ。まだ一滴も紅茶を飲んでいないのにもっとだなんて表現はおかしいと思ったが、思うだけで黙っておいた。言い返したって禄な言葉が返ってこないのは知っていたから好きにさせておけば、はいともいいえとも言わないうちに並々と紅茶を注がれる。そうしているうちに右隣で「もっと砂糖はいかが?」と言われたもんだから、今度はローは慌ててティーカップを持って「いらない」と答えた。チェシャ猫は少し残念そうな顔で手持ち無沙汰な角砂糖を一つ、目の前に積み上げていた角砂糖の塔の前へと加える。こうしてすぐにカップを取り上げてしまわないとこの猫は許可も取らず二つも三つも入れてしまうものだから溜まったものではない。ローは無事守ることのできた紅茶を一口飲んでほうっと息をついた。

「いま何時?」
「午後四時を五十七分過ぎたところ」

ぐらりと倒れた角砂糖が乱雑にテーブルに散らばるのを一瞥したチェシャ猫が聞けば、ちらりと腕時計を見た三月ウサギが答える。ああ、と隣で嘆息したような声が聞こえたもんだからローはティーカップから口を離すと顔を上げた。

「もうそんな時間かぁ」
「そろそろ迎えがくる頃だな」

詰まらなそうに頬杖をついたチェシャ猫に、秒針を見つめる三月ウサギ。ああ、ともう一度呟いたチェシャ猫は後ろを振り返ると「お出ましだ」と呟いた。

「帰るぞ、ロー」

かけられた言葉に振り返れば、そこには黒いステッキを携えた男が一人。それじゃあまた、と三月ウサギに頭を撫でられ、ローの足は椅子から降りるとそれが当たり前であるようにして男の元へと向かって行く。微笑む男の、差し出された手を握るとローは振り返って二人を手を振った。振り返される手を見る暇もなく、男がステッキで二度地面を叩く。

「さあ、もう起きる時間だ」





ぱちりと目を覚ましたローは欠伸をして目を擦り、伸びをしてから周囲の風景がいつもと全く違っていることに気がついて慌ててベッドから飛び起きた。どこだここは、と考えていくうちに眠る前の記憶が蘇る。恐らくここはイカれ帽子屋の寝室、だろう。広い天蓋付きのベッド、薪のくべられていない暖炉はしんとしていて、窓際には朝日を受けたテーブルと椅子が二脚。相変わらず白黒だらけの部屋だ。ローはベッドから起き上がると窓辺に近寄る。カーテンの開けられたそこは日が昇っていて暖かい時分だろうと思えるが、今が何時頃なのかは全く分からない。三時で止まることはやめただろうかと思いながら部屋を見回すと、その視線はついっと本棚の前で止まった。下にもあったがここにもある。あの男は存外読書家なのだろうか。本棚に近寄るとその背表紙たちをじっと眺めた。この空間で唯一モノクロ以外を称えた色たち。ローは適当に一冊掴むと本を開く。赤い背表紙のそれはどうやら詩集らしく、中には一つ二つローの知っているものもあった。

「朝っぱらから勉強か?」

突如かけられた声にびくりと肩を震わせれば、驚かせて悪いと階下から上ってきた男は笑った。テーブルの上にトレーを置いたイカれ帽子屋に手招きされて、ローは本を元あったところへ戻すと向かいの椅子に腰掛けた。

「勝手に読んでごめん…」
「謝る必要なんかないさ。ここではいつでもどこでもなんでも、お前の好きにしていいんだから」

帽子屋は手慣れた手つきでローのカップに紅茶を注ぐ。目前に置かれた三段のケーキ皿は朝日を受けてキラキラと光っていた。一番下には一口ほどの大きさに切り揃えられたサンドウィッチ、真ん中にはスコーンにクリームとジャム、一番上にはレモンタルトとママレードが一つずつ。それを見て途端に腹が減ってきたように感じたローは、男に促されるままサンドウィッチに手を伸ばした。

「よく眠れたか?」
「ん、それなりに」

ハムが挟んであるサンドウィッチを食べながら、そういえば何か夢を見た気がするとローはふと思う。しかし見た気がするだけで内容も一切覚えていないし、今となっては本当に夢を見ていたかどうかさえ怪しい。もぐもぐと黙って口を動かしていたが、そのうちじっとこちらを見つめるだけの男に気がついてローは居心地悪そうに身動ぎした。

「ユー…スタス屋、は食べないのか?」

言いかけてどうしてかこの男をその名で呼んでいいのだろうかと疑問が浮かび上がり、それでも一度吐き出した言葉を打ち消すことも出来ず続ければ、男はそう呼ばれるのが当たり前のような顔をして「先に食べたからいらない」と答えた。
そう、とローが返せば会話はそこで終わってしまい、居た堪れない気持ちになりながらスコーンに手を伸ばす。会話の糸口を必死に探っていれば「詩は好きか」と問われてローは先ほどの詩集を思い出した。

「別に好きでも嫌いでも…」

そういって言葉を詰まらせると肩を竦めた。ただ眺めている分には何とも思わないが、教訓詩の暗唱は好きではない。

「確か…ローは『きらきらお星様』の暗唱が得意じゃなかったか?」

帽子屋の言葉にストロベリージャムに伸ばしかけていた手が止まる。確かにその詩はお茶会で発表しなければならないものだったからひどく練習した覚えがある。しかしいまから何年も前の話だ。どうして知っているのだろうかと目が問うていたのだろう、笑った男が「よく練習と称した発表に付き合わされていたから」と言った。
そう、と今度は意図的に素っ気なく答えると掴み損ねたジャムを取った。またローの与り知らぬ昔話である。自分のことなのに自分では分からない。子供っぽいと思ったが、そのことに苛立つ自分を止められなかった。そんな話は聞きたくない。どうせこの男も口を開ければ他の奴らと同じように嘆くのだ、幼少の時分を想って。忘れているなら仕方がないと。
この世界の住民は元いた世界に帰ったって碌なことはないと言うが、ローはこの世界にいた方がよっぽど碌でもないのではと思う。自分で作り出した世界のくせに、愛されるのは同じ自分であっても「過去」の自分だ。十四歳の今いるローは、常々幼少の自身との比較対象でしかない。理屈と論理に縛られた言葉を手に入れた今、果たして自分は再びこの世界の歓迎を得られる資格があるのかどうか。その答えは周囲を見渡せば一目瞭然、ローが口を開けば住民の歓喜の笑顔は憐憫の微笑に変わる。そしていうんだ、「アリス、きみは随分と大人になってしまったんだね!」それでもこの世界の住民がローを見放すことはない。創造主を愛するのが彼らの役目、その対象を過去に縛り切ってまでも。

この男もそうなのだ。ローの中にゆらりと暗い影が過る。この男も終いには昔の自分と比べて嘆くのだ。きっとそうだ。そうなってしまえばもう、本格的にこの世界の方が「つらくて悲しい世界」になる。愛されるために自分自身で作り出した世界でさえも、この男が愛を向ける対象は手の届かない場所にあるなんて滑稽な話だ。
答えが決まり切らないうちに最悪のエンディングを考えるのは、ローが常々することである。そんな考えをするようになったのは姉の婚約者がキッドだと知らされた時――。

「ロー?」

すぐそばで呼ばれた名前にびくりと肩を揺らす。不思議そうな顔をした帽子屋がローを見つめいた。「どうしたんだ、急に黙って」そう問われてぎこちない笑みを浮かべると「その詩がどんなものだったか思い出してたんだ」と苦し紛れに答えた。
すると今度は帽子屋が黙った。ローは突然だんまりを決め込んだ男にどうしていいか分からず、きまり悪そうにバターナイフの柄を弄る。ふっと息の洩れる音に男を見ると、赤い唇から流れるようなテノールが聞こえた。


 ”Twinkle, twinkle, little kitty,
 How I wonder what you think!
 Up above my mind so easily,
 Like a butterfly in my eyes.
 Twinkle, twinkle, little kitty,
 How I wanna know what you think! ”

(きらきら眩しい仔猫ちゃん
 きみは一体何を考えてる
 僕の考えもつかないところ
 瞳の中に泳ぐ蝶のように
 きらきら眩しい仔猫ちゃん
 君が何を考えてるか知りたいな!)

「確かこんなんだったろ?」

にやりと悪戯っぽく笑った帽子屋に数秒遅れでローの頬が色づく。甘い声色で耳を突いたそれはローの知っているものとは違った、今の自分たちに対して歌われたもので。熱くなる頬を抑えながら、「即興で変な替え歌作んな」と文句を言っても男は笑ったままだった。







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