どうかお幸せに、最愛の人。 | ナノ

髪を梳くその優しげな手つきは本物だけれど現実ではないことが残念に思える。そっと顔を上げてイカれ帽子屋の顔を見つめると穏やかな微笑みとぶつかった。愛らしい、と訴えるような眼差し、柔らかに弧を描く唇。これが自分の妄想でなかったらどんなに完璧だったろう。
ローは悲しげに笑うと緩く体を起こす。そうして探り出したポケットの中から懐中時計を取り出した。決してここに来た目的を、忘れたわけではないのだ。

「実はこれを渡しにここに来たんだ。直して欲しいってドレー…時計ウサギから預かってきた」
「何だあいつ、また壊したのか」

懐中時計を差し出すと、イカれ帽子屋は呆れたような手つきでそれを受け取った。その口ぶりからして壊れた懐中時計を預かるのは初めてではないようだ。やれやれと言いたげに肩を竦めると席を立つ。男が再び戻って来た時には、手の中に何やら道具入れのような四角い箱を抱えていた。

「今から直すのか?」
「ああ、簡単だからな。すぐ終わる。それに時が止まったままってのも困りものだしな」

ぐるりと首を回して窓を見るイカレ帽子屋につられてローも視線を送る。明るい陽射しが降り注ぐ、相変わらず外は午後三時から動いていないように思える。時が止まる、とはやはりこの世界においては比喩でもなんでもないらしい。「昼も夜も交互に来ないと」と呟いたイカれ帽子屋のそのまともな感性が、この世界においては何故かおかしなものに思えた。
隣に座り直したイカれ帽子屋は箱をテーブルの上に置くと懐中時計を手に取った。文字盤を背にし包み込むようにして縁を掴み、掌でくるくる右向きに回していけば綺麗にケースが取れて中の細かい歯車がむき出しになる。その手順をじっと追っていたローは、なんだかべっとりとしたオレンジ色のジェル状のものが歯車たちについていることに気がついた。もちろんケースを開けた本人も気づいているだろう。男は眉根を寄せてそのジェルを見つめた後、指先で少し触れて匂いを嗅ぐように鼻先へと近づける。

「くっそあの野郎…今度はマーマレード塗りやがった」
「…どうしたらそんなもの塗りたくるんだよ」
「次会ったら聞いてみろ。パンと間違えたとかほざくからな、あいつ」

顔を顰め、呆れとも憤慨とも取れる口調で呟いたイカれ帽子屋は、この前はイチゴジャムだったと教えてくれた。はぁ、とそれにローは曖昧な相槌を打つ。やっぱりこの世界の住人は頭のネジが一、二本足りないらしい。どの世界に懐中時計とパンを間違える奴がいるのか、しかし自分の妄想で創られているのだからあんまり責められたものでもない。

「それ…直るのか?」
「直るさ、前も直ったしな」

ローの知る世界では精密機器にマーマレードを塗りたくった場合、ほぼほぼの確率で元には戻らない。そもそもそんな非常識なことをする輩はいない、というのが根底にあるが。
どうやって直すのだろうと不思議に思って手つきを見つめていれば、イカれ帽子屋はそっと箱の蓋を開けた。木で出来たその箱の中身は空っぽだ。てっきり工具入れだと思っていたが違うようだ。それどころかイカれ帽子屋はその空っぽの箱の中に懐中時計をそっと入れて、何もせずに蓋を閉めた。

「…それでおしまい?」
「おしまい。暫くすれば直るさ」

トントンと箱を二回叩いてイカれ帽子屋は笑う。非常識な行いで以て壊された時計はどうやら非常識な行いで以て直されるらしい。どうしてそんな行為で直るのか、と聞きたい気持ちをぐっと堪える。深入りするだけ無駄な世界だ、自分の妄想で生まれているわけだし、細部は適当なんだろう。そういうものなのかと黙って受け入れることこそ、このワンダーランドで過ごすために必要な事だとローは思った。思ったがやはり聞かずにはいられない。

「その箱に入れると時計が直るのか?」
「時計だけじゃないな。形あるものなら何でも直る」
「なんでも?」
「そ、この箱の中には時が流れてるんだ。一度叩けば未来に進み、二度叩けば過去に戻る」
「…へえ」

つまり壊れてしまう前に時を戻せばいいわけか。先程箱の蓋を二回叩いていたイカれ帽子屋を思い出す。そうして「再び時を流せるのはイカれ帽子屋だけ」と言っていた時計ウサギの言葉に納得した。どうやら箱の所有者はこの男のようだから、必然的にそうなるのだろう。
便利な箱だ、とローは木箱をぼんやりと見つめる。この時ほど、人間の抱く感情には形がなく、取り出せない、という事実に悔やんだことはない。自分のキッドへの恋慕を取り上げてこの箱の中に入れられたらどんなにかいいだろう。そしてはち切れんばかりに膨れ上がったその想いが爆発する前の過去に戻せたら。何も悩まなくて済む、考えなくて済むのに。

「なあ、この箱は…時が戻せる装置ってこれしかないのか?」
「ああ、これだけだ。この箱だけが唯一時を戻せる」
「ふーん…これって最初からお前のものなの?」
「やけに興味があるんだな」
「いいだろ別に…で、どうなんだよ」
「そうだな、覚えてないか…これはローが俺にくれたんだよ」
「おれが?」

頷いた男にローは木箱から顔を上げて、驚いたようにぱしんと瞬きを打った。どういうことだと言いたげなその顔つきに、イカれ帽子屋は弱弱しく笑う。

「おれがお前にこれを渡したのか?」
「ああ…覚えていないならそれでいい」
「じゃあ教えてよ」

覚えていないなら、その言葉にローはムッとしたように唇を尖らせる。覚えていない、覚えていない、みんなそうだ!ワンダーランドの住民は誰しも、ローに記憶がないことを嘆くくせに誰もその時の記憶を詳しく明かそうとしない。昔はこうだったのに、出てくるのは今と比べる言葉ばかりだ。もっと明確なことを教えてくれてもいいんじゃないか?どうして何も言わないんだ?イカれ帽子屋の言葉がローの頭の中でぐるぐる回り、終いには余計な感情を引き起こす。どうせこの男も、覚えていないのかというくせに何かを伝えることはしないんだ。かくしてローの予想は当たり、イカれ帽子屋は何も言わずただ微笑んだ。そうなることは知っていたからますます気に入らなくて、しかめっ面をしていたら唇にそっと男の指が触れた。

「なんだ?キスでもしてほしいのか?」
「ばっ、違う!!」

にやりと笑って紡がれた言葉に慌てて指を振り払う。イカれ帽子屋は意地が悪そうににやにや笑い、ローは唇を隠して怒ったように照れたように眉根を寄せた。やっぱりこの男はタチが悪い。顔が、と思ってすぐに打ち消す。話を変えるようにローは木箱に視線を戻した。

「…時計はどのくらいで直るんだ?」
「明日には直ってるさ。まあ直るから明日が来るんだけど」
「とりあえず直ったら教えてくれ。返しにいかなきゃ」
「もちろん。用は済んだし…さあ、そろそろ寝る時間だ」
「寝るって…でも、外は」

まだ明るい、と言いかけて時が止まっていたことを思い出す。実際にはもう真夜中なのかもしれない。寝る時間、といわれてみればなんだかそんな気もしてきて、ローは一つ欠伸をした。ひどく長い一日だった。思えば足も歩き疲れて痛む気がする。忘れていた倦怠感と疲労感がローを包み込み、ゆっくりと瞼が重くなっていく。「おやすみ」、微かに囁いた声と額に触れた唇が静かにローを眠りの淵へと誘った。






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