いつしかその不安が取り除かれればいいと思うのだけれど、ローはまだまだ小さい。ゆっくり時間をかけなければ、やはり難しいのかもしれない。
時刻はちょうど十時を過ぎたぐらいだった。ローは授業中だから、相変わらず俺は暇。暇潰しにまたどこかへ行こうとしたら、コンコンと扉を叩かれる。返事を返すより早く扉は開き、そこに立っていたのはペンギンだった。主人がいなけりゃお前も随分適当だな、と言ってやろうとしたが、存外真面目な顔をしていたことで思わず口を閉ざした。
「ついて来い」
「あ?」
「旦那様がお前と話をしたいらしい」
じっと俺を見つめる瞳にどうやらただ事ではないと知る。やはりきたか、と言えばそれまでだった。ただそういった感情はペンギンの方が強いだろうが。
「肩に力入れすぎだぞ」
「お前は気楽すぎだ、馬鹿」
いつも以上にピリピリしているペンギンに肩を竦めると部屋を出てあとに続く。しかしあのピンク野郎は一体いつの間に帰って来やがったんだ。
聞こうと思ったがどうにも聞ける雰囲気ではないので、仕方なく黙ってあとに続く。少ししてからぴたりとペンギンの足が止まった。
「ここか?」
「あぁ…。いいか、ユースタス」
「何だよ」
「絶ッ対変なこと言うなよ。あの人は変なところでスイッチ入るからな」
「はっ、心配でもしてくれてんのか?」
「誰が!忠告と言え」
柄にもないペンギンの態度に鼻で笑えば、向こうも少しばかり普段の態度を取り戻したらしい。とばっちりを食うのは俺らなんだ、と文句を言うペンギンに軽く笑う。それでいい、てめェに心配されちゃ俺もお終いだからな。
コンコンとペンギンが扉を叩く。その向こうからはあの男の、仰々しく入出を許可する声が聞こえた。
「失礼します。ユースタス・キッドを連れて参りました」
ペンギンがちらりとこちらを見、それを合図に俺は部屋の中に入る。あの男はちょうど正面にある、バカでかいデスクのチェアに腰掛けてこちらを見ていた。相変わらず悪趣味な出で立ちは変わっていなかった。
「フッフッ、ご苦労。お前はもう下がっていいぞ」
「では、失礼します」
男は虫でも追い払うかのような仕草でペンギンを部屋から追い出すと、俺にソファに座るように勧めた。いや、言い方としては指示されたっつう方が正しいな。それでも断って突っ立っていれば、男もそれ以上は催促してこなかった。早く戻りたい。
「さて、ユースタス君…ローの調子はどうだ?」
「生憎だがピンピンしている。餓鬼らしくもなってきてるぞ、残念なことにな」
「フッフッフッ!面白いこと言うな。何が残念なのかさっぱりだ」
男はわざとらしく肩を竦めると笑みを浮かべる。一体どの口が何を言ってんだ。
「しかしなァ…俺はローに期待してたんだ。もちろんお前にも」
「ベビーシッターなら完璧だぞ」
「フッフッ!全くだ。様子を覗きに来たら何でもないような顔しやがって、おまけに随分と仲良くなったみてェだな?」
「抱き締めて眠るくれェにはな」
「口の減らねェ男だ」
そりゃどうも。笑みを浮かべると男も笑った。
「そんなにローが気に入ったか」
「あ?」
「可愛い顔してるだろ?半分は売女の血だ。躾りゃ上玉になるかもなァ」
「…くだらねェ」
「フッフッ、てっきりそっちでも仲良しだと思ったんだがな、違ったか?」
「俺にはそんな趣味も趣向もねェ」
「メリットもねェのに付き合うか…変わった野郎だ」
「俺からしてみればお前の方が十分変わってるぜ」
黙って聞いてりゃ失礼なことを言う。むしろそういった目線でしか人を見ることの出来ないこの男が可哀想だとすら思えてきた。もちろん一番可哀想なのはこのロクでもない男の息子でつい最近までまともな感情すらも根こそぎ奪われていたローだが。やべェ、そう考えると腹が立ってきた。マジで早く戻りたい。
「犬のくせに随分と態度がでかいもんだ」
「生憎だが俺の飼い主はローだ。あんたは関係ないだろ?」
「フッフッ…まァ、お前たちの好きにすればいいさ。いつまでそのごっこ遊びが続くか見物だな」
「好きなだけ見てりゃいい。そのうち飽きて嫌になるだろうけどな」
これ以上くだらないお喋りにただ付き合うのはもう我慢できなかった。他に用がないなら退出させていただく、と苛立ちを隠さず言えば男は何も言わずにただ笑うだけ。それを肯定と見なし、足早にその空間を立ち去る。あの男と共有した時間はもっと他の事で有意義に使えたはず、そう思うと何だが腹がムカムカした。
「不愉快な野郎だ…」
扉に向かってそう吐き捨てると、振り返らずその場をあとにした。
「どうだった?」
「あ?」
「あの人とのお喋り」
「時間の無駄だな」
「…お前って命知らずなタイプだろ」
「本当のことだ」
苛立ちを持て余してふらふら歩いていたら、ペンギンに掴まった。気になるなら気になるとそう言えばいいのに、暇だから話を聞かせろ、だと。
だが別に話すようなこともない。本当に内容のない会話だった。ただの嫌味と不愉快な笑みの連発。同じところにいるだけで肩が凝る。あの男とはもう二度と喋らなくていい。
「まあ…何も起きないといいけどな」
「売られた喧嘩は買うぜ?」
「お前は大人しくしてろよ。てかお前に何かあるってことは、坊ちゃんにも被害が及ぶってことなんだぞ?分かってんのか?」
「ローは俺が守るから心配いらねェ」
「…すっかり騎士だな」
「やめろ恥ずかしい」
ペンギンの言葉に眉根を寄せれば、似合わねーの、なんて笑い声も聞こえてくる。てめェの想像で笑ってんじゃねェよ。誰が騎士だ、誰が。
笑うな、と睨めば到底謝罪とは思えないような言葉をやはり笑いながら伝えられた。
「ははっ、悪い悪い。…まぁでも、お前がそう言うなら心配ないけどさ」
「やっぱ心配してんじゃねェか」
「お前じゃなくてこっちの迷惑の心配だ」
「言ってろ」
わざとらしく付け足すペンギンに笑う。本心ではそう思っていないくせに。
暫くそこで談笑していたが、仕事があるからと言ったペンギンに俺もそこで話を切り上げた。
そのときはまだ、あの男が俺に対して何かをしても、ローに対しては何もしてこないだろうと、そう思っていた。
あの男に呼び出されて以来、また何かしに来るのではないかと警戒していたが、そのわりにはあの男からの接触は皆無だった。ローもいつも通りで、別段何かあった風でもない。それどころか、あの男に会ったとも言わなかった。
あの日、あいつはわざわざ戻ってきて俺にだけ会ったのだろうか。あの男とローが会ったってローに有害なだけだから別に構わないが、改めて最低な親だと認識する。むしろあんな奴は親だと名乗る資格を剥奪すべきじゃないか。
しかし少し考えただけでイライラしてくるような奴も珍しい。それも一種の才能だな。
それ以上何か考える前に頭を軽く振って思考を切り替える。ふと時計を見れば、もうすでに三時を過ぎていた。
いつもなら三時を少し過ぎた頃にローは部屋に戻ってくる。それから三時のおやつがどうしたとか、早く遊ぼうとか強請ってくるわけだ。だが今日は三十分過ぎてもまだ帰って来ていなかった。
不思議に思いつつ暫く待っていると、ローが部屋に戻ってきた。だがいつもなら何度言っても聞かずに飛びついてくるのだが、今日はそれをしない。心なしか少し元気がないようにすら思えた。
そこで脳裏に浮かんだのはまさしく今の今まで考えていたピンク野郎だ。もしや何かローにしたのだろうか。
「ロー、どうかしたか?」
「…あのね、」
隣に座ってきたローを膝の上に乗せるとその頬をそっと撫でる。言葉を紡ぐのをじっと待っていれば、ローはぽすんと俺に抱き着いてきた。
「……先生におこられた」
「あぁ、それでいつもより遅かったのか?」
こくりと頷いたローの頭を慰めるようにそっと撫でる。原因があいつじゃなくてよかった。
黙りを決め込んだローに、それ以上は何も言いたくないのだと判断した俺は、そのことはもう何も聞かずにただ頭を撫でた。
「そういや…今日のおやつはプディングらしいけど、食わねェのか?」
「…食べる!」
暫くそうしていたが、ぐりぐりと額を擦り付けるローに今思い出したというように呟いた。元気のないローをいつまでも見ていたくない。
その言葉に勢いよく顔を上げたローはすでにいつもの調子に戻っていて、その様子に笑みが洩れた。
けれど俺は忘れていたのだ。最近はローもよく感情を表に出すようになったから。ローは感情を表に出すが、それと同じくらい感情を隠し、仕舞い込んでしまうのが上手いことを。
「ユースタス屋、今日いっしょにごはん食べれない」
「何かあるのか?」
「うん…あの人、帰ってきたから」
運ばれてきたプディングをつつきつつ、廊下で会ったときに一緒に食べようと言われたと言ったローは何だか暗い顔をしていて、相当に嫌なことを知る。子供にこんな顔させるとか、マジであいつ、二度とローの前に現れない方がいいんじゃないか。
「夕飯、すぐ食べてこっち戻ってくればいいだろ?」
「…ん」
暗い顔したローを宥めるように呟く。だがこくりと頷いたローがまだ重い空気を纏っていたので、抱き寄せると頬にキスを一つ。そうすれば、少し恥ずかしそうに、だけどやっと笑みを見せた。
ローがこういう気持ちでいることを、あいつは知っているのだろうか。恐らく知っているだろう、あの男はそういう奴だ。
出来ればローに接触させたくない。二度と。だけど今の状況じゃ、それは不可能に等しい。
「…なぁ、ロー」
「ん?」
「あのピンク野郎に何か嫌なことされたら、すぐ言えよ」
実父についてこんな言葉を言うのもおかしな話だと思う。だがそう言ったって何ら問題のない相手だ。
歯痒いが、俺がいまローに言えるのはこれだけ。ローの瞳を覗き込んでそう呟くと、ローは少し微笑んでから小さく頷いた。