何も分からないふりをして、理由を聞けばよかったんだろうか。そうしたらローは餓鬼らしくわんわん泣きながら何かを話してくれただろうか。
だけど恐らく、何も話さなかったと思う。俺が、何を言っても聞いても、なんでもないからつづけて、と言っただろう。少し、泣きそうな顔で。
何も出来なかったことが無性に悔しくて、その夜ローが寝付いたあとに受話器を取った。呼び出しに出たメイドは俺の声に全く驚きもせず、事務的に用件を尋ねる。俺は三階西口のバルコニーに来いとペンギンに伝えてくれと、それだけ言うと受話器を置いた。
「どうした?いきなりこんなところに…」
「あぁ、急に呼び出して悪かったな」
「いや、別に暇してたからいいんだ」
すぐに現れたペンギンは気にするなと言うように手を振ると、吸うか?と煙草を差し出してきた。礼を言って受け取ると、火を貰って口にくわえた。肺に染み渡っていく煙に少しずつ気持ちが落ち着いていく。
夜風にゆらゆら揺れる煙を見つめながら、俺は確かめるようにゆっくりゆっくり言葉を紡いだ。
「…あのさ、」
「なんだ?逃亡予告か?」
「違ェよ。そりゃ大分先になりそうだ」
眉根を寄せたペンギンに苦笑すると首を振る。ローのことだ、と言えば不思議そうな顔をされた。
「坊っちゃんがどうかしたのか?」
「…あいつのこと、詳しく教えてくんねェ?」
「別に…いいけど、そんなん知ってどうすんだ?つか俺もよく知らないし…」
「知ってることだけでいいんだ」
こんなの聞けるの、お前しかいねェから。そう言って見つめると、ペンギンはそれ以上詮索することはせずにただ肩を竦めた。
「まぁいいけどさ。…で、何を知りたいんだ?」
「…あいつって、本当にあのピンク野郎の子なのか?」
「ピンク野郎って…まぁもちろんそうだ。けど母親がなぁ…」
ペンギンは言いづらそうに言葉を濁すと、誤魔化すように煙草を吸う。そこから、俺の知ってる範囲だけだけど、とぽつりぽつりと教えてくれた。
ローは確かにあのピンク野郎の息子だが、母親がどこの馬の骨とも知れない娼婦であったこと。何を思ったかピンク野郎はローを引き取ったが、本邸にはすでに本妻と嫡子がいて、ローに構う人など誰もいなかったこと。仕方がないからこの屋敷に連れてきて、嫡子にもしものことがあった場合、身代わりにするためにここで監視し、頭の出来はよかったので教養だけはみっちりと仕込んでいること。
「…俺さ、お前が運ばれてきたとき『あぁ、またか』って思った」
「…何が」
「こんなこと、誰にも言わないけど…旦那様ってわざとやってると思うんだよ。借金背負ってボロボロになった男買ってきて、坊っちゃんに渡して…そんな奴らって、実際何するか分かんねーじゃん。相手がガキだと思えば、強くでるだろ。金がほしいなら人質にとればいいし、逃げたきゃ簡単に捻り殺せる」
「………」
「何て言ったらいいかよく分かんねーけど…ゲームみたいのを感じるんだ。実の息子が死ぬか生きるかで遊んでるっていうか…。それ、知ってんのか知らないのか分かんねーけど、坊っちゃんはずっとそいつらをいらないって跳ね退けてきたし…だから今回お前をって言ったときには正直終わったと思ったね」
「…蓋を開けてみたら体のいいベビーシッターだったがな」
「はは、全く」
ペンギンは静かに笑うと夜空に向かって煙を吐き出す。大分小さくなった煙草を、俺はぐしゃりと手摺の上に押し潰した。
「よく分かった」
「何が?」
「お前らがあいつに無関心な理由」
「…自分の身に火の粉が降ってきて喜ぶ奴なんて誰もいないからな」
「俺以外はな」
自嘲する俺をペンギンはじっと見つめる。今度は笑っていなかった。
「なぁ、何でそんなに坊っちゃんに構うんだ?」
「…んなの、俺が知りてェよ」
生憎とまだ答えは見つかっていないのだ。どうして、なんてそんなこと、俺が知りたい。
ペンギンは俺の答えにふぅんと考えたように返事をした。暫くお互いに黙っていたが、もう戻ると背を向ければ不意にペンギンに呼び止められる。
「気をつけろよ」
「…何をだよ」
「何でもだよ!」
そう言って笑ったペンギンにひらひら手を振る。話ありがとな、とそれだけ伝えるとその場をあとにした。
一気にいろんな話を聞いたせいで重い頭を抱えて部屋に戻る。ガチャリと扉を開ければいきなり腰辺りに重みを感じて少しよろめいた。
「ロー、寝てなかったのか?」
下を見れば藍色の頭。少し驚いて声をかけたが、顔をあげないローに不審に思う。ロー、と再度名前を呼べば、やっとこちらを見上げた顔が涙でぐしゃぐしゃになっていて、思わず目を見開いた。
「ふっ、ぅ、…え、くっ…」
「どうした?怖い夢でも見たか?」
ローを抱き締め、あやすように背中を撫でながらベッドルームへと向かう。ベッドに下ろしても離れないローに、安心させるようにぎゅっと抱き締めた。
「ふっ、ゆ、すた、やぁ…っ!」
「ん、ゆっくりでいいからな?言ってみ」
ぽろぽろ流れ出る涙を拭うも止まらない涙は頬をうつ。赤くなった頬も目尻も痛々しく、俺はしゃくりあげるローの背を撫でながら何度も宥めるような声をかけた。
そうすれば少しずつ、落ち着きを取り戻してきたらしい。涙を流しながらも何とか言葉を紡ごうとするローを抱き締めながら、言葉を待った。
「ひっ、く…おきたら、ゆ、すた…いな、て…」
「…うん」
「いな、なっちゃ、た…って、っ」
「ロー…」
どうやらふと目を覚ましたけれど俺が隣にいなくてびっくりしたようだ。部屋中どこにもいなくて、とうとう出て行ってしまったのだと一人で泣いていたらしい。
俺は唇を噛み締めるとローを強く強く抱き締める。ずっと不安だった、でも嫌われたくないからずっとここにいてって言えなかった、涙で声を詰まらせながら俺に抱き着くローに自分を殴りたくなった。
今までこの小さな体に、底知れない不安と孤独を抱えて生きていたのだろう。不意に与えられた優しさを、失うのがどんなに怖かったことだろうか。知らなければそれでいい。ただ一度知ってしまえば、知らなかったときには戻れないのだ。そのことを、分かっていたはずなのに。
垣間見えていても今のいままで気付けなかった自分が許せない。泣きじゃくるローをきつく抱き締めながら何度も囁く。何度も何度も、ローが求めるままに。その孤独と不安を埋めるように。
「ずっとローのそばにいるから」
だからもう泣くな。
長い長い夜が明け、空が明るみ出す。溢れ出る朝日に目を覚ましたローは、俺の頬へと手を伸ばした。まるで最初の朝のように、俺の存在を確かめるように。
「ユー、タス屋…?」
「あぁ、ここにいる」
ローの小さな手に手を覆い被せて、そっと囁く。頭を撫でてやれば、とまっていた涙が、またぽろぽろと流れ落ちた。
「ほら、そんな泣いてると干からびちまうぞ?」
「っ、ん…ぅん…」
静かに流れる涙に苦笑するとローの額にこつんと額を寄せる。もう泣くな。涙を拭えば、やっとローの顔に笑みが洩れた。やっぱりローは笑った顔が一番いい。
ごしごし目を擦る腕を止めさせると、水で濡らしたタオルを目に当ててやる。何もしないよりマシだろう。腫れて熱を持った瞼はすぐ冷気をとっていくのか、何度か氷水に浸して変えてやる。こうしていれば他の奴らがやって来るまでには、腫れも少しはひいているはずだ。
「…ユースタス屋」
「ん?」
「ほんとに、そばにいてくれる…?」
「ローが嫌だって言ってもずっとな」
不安そうにこちらを見つめるローの頬を撫でると、安心させるように囁いた。その言葉にローは安堵の笑みを浮かべ、俺の膝の上に座る。まだ瞼の赤みはとれていないが、それでも腫れは大分ひいたようだ。そっとローの目尻を撫でていたら、不意に頬に柔らかい感触がして、思わず動きをとめた。
「ユースタス屋、だいすき」
ふわりと笑ったローの言葉、擦り寄る体、ユースタス屋は?とくるりと見上げる瞳に、何一つ敵わないことを知る。
「…俺もだよ」
その言葉に嬉しそうに抱き着いてくるローに、ふと気づく。構う理由を、ほっとけない理由を。
他でもない、それはローが愛しいから。愛しいからきっと、こんなにも守ってやりたくなるんだ。こんな単純なことに気づけなかった自分に苦笑すると、ローの頭をそっと撫でる。壊れ物を扱うかのように、けれど強く抱き締め返した。