Gift | ナノ

(現パロ)


カタンと目の前に置かれたトレーに、水底まで沈んでいた意識を無理矢理引き上げだされたような気分になる。今までぷっつり途絶えていた無音の世界に誰かがスイッチを押してくれたらしい。自分しかいなかった世界に途端にがやがやとした騒音が耳を突いて雪崩込む。斜め向かいで馬鹿のように笑う男、後ろに座っている女子グループの噂話、耳を澄まさなければ賑やかな話し声に掻き消されて聞こえないラジオの有線。先程まで焦点の合っていなかった視界が急速に一点へと集中し、それと同時に耳に残る周囲の煩わしさにキッドは顔を顰めた。しかし昼の食堂など得てしてこんなものだ。自分の意識を呼び戻した目の前の同級生にちらりと視線を向けると、今まで止めていた箸を動かして唐揚げを頬張った。

「また喧嘩したのか」
「…うるせー」

むすりとした顔で白米をかきこむキッドに、幼馴染のキラーは呆れたような眼つきで以てその顔を見つめた。キッドが眉間に皺を寄せ誰しもが近寄りがたい雰囲気を出しながら、食堂で一人唐揚げ定食を食べている時は決まって恋人であるトラファルガー・ローと喧嘩をした時なのだ。こんなに分かりやすい男はいないとその姿を見るたびキラーは思う。
小学生の頃は家の近くにある公園のブランコに座り、目の前のジャングルジムを睨みつけるように見つめていた。中学生の頃はどんな時でも真面目にやらない宿題を突然持ち出してきて一心不乱に問題を解き続けていた。高校生になって、女と遊ぶことを覚えたらしい。その頃はまだローと付き合っていなかったし、いわゆる腐れ縁だと互いが互いに主張していたが、喧嘩した時に発揮されるキッドの体たらくな女遊びは二人の関係に劇的な変化をもたらしたようだった。いつからかは知らないが、中学生の頃からもう「付き合いましょう」という口約束がないだけで二人の想いは同じ方向に向いていたのだろうとキラーは推測している。結局その女遊びが功を奏して互いに踏み出せなかった一歩を、見るに堪えかねたローが二歩も三歩も踏み込んでお互いの関係に決着はついたようだ、というようなことをキラーはペンギンから聞かされていたが詳しくは知らない。とにかくそんな風にして長い年月を経たのち、高校三年の春にして漸く二人は付き合いだしたのだ。だからといって決して喧嘩をしなくなったという訳でもなく、大学生になった今でも相変わらずキッドはローと喧嘩をした時には必ず同じ行為を繰り返している。それが食堂で唐揚げ定食を黙々と食べるということなのだが、高校の時と比べて随分穏やかな憤りの現し方だ。周りに被害がないだけマシかと思いながら、キラーは定食の焼き魚に箸を入れる。「それで?」と今回の喧嘩の発端を尋ねると、キッドはむすっと眉根を寄せた。

「どーもこーも知らねェよ」
「理由もなく喧嘩したって言うのか?」
「先に吹っかけてきたのはあいつだ」
「トラファルガーに何かされたって?」
「家に帰ったらいきなりグーで殴られた。そんだけ」

はぁ?と口には出さなかったが雰囲気で伝わったのだろう、キッドが「何でかなんて俺が聞きてェよ」とぼやく。意味が分からないと言えば憮然とした顔で事の成り行きを説明された。バイトから帰って来たら部屋にトラファルガーがいて(互いにスペアキーを交換しているそうだ)、連絡もなしに居座っていることは別に珍しいことじゃないから「来てたのか、」ぐらいの気持ちで先にシャワーを浴びようとすれば「言いたいことはないか」と。何の前置きもないそれに意味が分からず「はぁ?」と返したらグーで殴られたらしい。突然殴られて呆然とするキッドをよそに、トラファルガーはそのまま部屋を出て行ったという。一通り説明されてもあまりにも唐突な出来事過ぎて何とも言いようがない。

「それはまた…突然だな」
「だろ?まじで意味わかんねェ腹立つ」
「何か心当たりはないのか」
「ねェから余計苛立ってんだよ」

大げさに溜息を吐いたキッドは最後の一つを頬張ると味噌汁を飲み干した。何だかんだ言って恋人に弱いこの男は、キラー経由でペンギンに怒りの原因の探りを入れてもらうこともある。しかしそれをしない辺り、今回の件に関してはキッドも相当ご立腹のようだ。大なり小なり二人の喧嘩は見てきたが、理由のわからないものは初めてだった。何だか嫌な予感がする、と思うと同時にそれに付き合わされるこっちの身にもなってほしいとキラーはこっそりと溜息を吐いた。


キラーの当たってほしくないと思っていた予感は残念ながら的中した。それから一週間後にまた食堂で唐揚げ定食を頬張るキッドを見つけたからだ。よく飽きないな、とそんなどうでもいいことにも感心する。「まだ喧嘩しているのか」と聞けば、キッドは唐揚げを突き刺しながら低く唸った。

「いい加減仲直りしたらどうだ」
「俺からは絶対に謝らねェ…あいつが悪い」
「連絡は取ってるのか?」
「知らねェよ。…電話かけても通じねェし」

食堂は常に混み合っているが、一週間前よりさらに不機嫌そうな顔をしたキッドの前後左右は誰もいない。連絡がつかないことが、その恐ろしい形相に拍車をかけていることは十二分に予測できた。膠着状態の二人をよそに、キラーもキラーで巻き込まれる側として一応ペンギンに今回のことについて取り合ってみたのだが、珍しくお手上げ状態らしい。ペンギン曰く、喧嘩の理由を尋ねても「ユースタス屋が悪い」としか言わないようで、何が何だかさっぱりだと。
これ以上長引かないうちに仲直りしたほうがいい、とキラーは月並みに言うが、キッドだって何も好き好んでこの状態を維持しているわけではない。あいつが悪いという思いはもう何度も繰り返したものだ、それは変わらない。ただ思う中でもそれなりに考えてみたりもしたのだ。もしかして自分は気づいていないところでトラファルガーを傷つけてしまったんじゃないか、とか。しかし確かめようにも電話はおろかメールにすら返答もないその態度に、真剣に考えている自分が馬鹿らしくなってしまったのだ。お前がそういう態度をとるなら俺も、なんてただの意地の張り合いでしかないことは分かっている。それでもこっちから折れてわざわざ会いに行くのは何だか癪で、そうこうしているうちにもう一週間だ。

「…とりあえず一度会って話し合ってみたらどうだ」
「あいつが会ってほしいって言ったら会ってやる」
「キッド…トラファルガーの性格はお前が一番よく分かってるだろ」
「わぁーってるけどよー……あー!」

惚れた弱みとは何とも厄介なものだ。それに負けていつも折れて謝るのはキッドの方だった。だが今回はどうにも意固地な気分らしい。あいつが悪いという思いはあるものの、キッドが意固地になっている大半の理由はローの殊勝な態度を引き出したいと思っているせいでもあった。たまには立場が逆転したっていいじゃないか、そんな思いがキッドの中にあった。しかし恋人のプライドは非常に高い。相手が悪いと思えば決して自分から謝ることなどしないだろう。ぐしゃりと髪の毛を掻き毟る。最早怒りの矛先は唐突に殴られたということよりも、一切の連絡手段を絶って頑なに自分を拒むその態度へと変えられていた。

「あっちもあっちで大変らしいからな…」
「ペンギンから何か聞いたのか?」
「いや、ただトラファルガーの元気がないとは聞いたが」

キラーの言葉にすかさず食いつくも、その答えに事態が進展するようなものは含まれていない。ただ伝えられた「元気がない」という言葉にキッドの胸がちくりと痛んだ。ローとは同じこの大学に通っているが、学部が違うために予め予定を立てでもしない限り校内で合うことは滅多にない。ただでさえ向こうは医学部で忙しい身だ。これから先もっと忙しくなるだろうし、予定も合わなくなるだろう。それなのに一体自分は何をしているんだと思うと何だが虚しくなった。

「でも俺は悪くねェ…!」
「…お前も強情だな」

相反する気持ちを押し込めるように低く唸ったキッドに、この分だとまだ長引きそうだとキラーは呆れたようにその顔を見つめた。





メニューから適当に選んだ料理はどれもこれも目の前の幼馴染みの腹に収まる気配はない。自分ばかり食べているなと思いながら出し巻き卵を一つ、皿に引き寄せた。

「ロー、もう飲むのやめたら?」
「…飲みたくて飲んでるわけじゃねー」
「じゃあやめろよほら、何杯目だよ。悪酔いするだろ」

半分ほど空になったジョッキを取り上げようとすればその前に飲み干される。それどころかまたビールを追加するローを見てペンギンは怪訝そうな顔をした。
恋人と喧嘩をしたのはもちろん知っている。ローは喧嘩をすると毎回ペンギンを巻き込む癖があった。今度はやれ何が原因だの、あの態度が悪いだのなんだの、愚痴を言うローを宥めるのがペンギンの仕事である。そうして落ち着いた頃合いを見計らってローを諭し、その背中を押して仲直りに貢献するまでがその役目であった。自分でも何でこんな痴話喧嘩に付き合っているんだろうと呆れることもあったが、放っておいて自滅されても何だか後味悪い。それにどっちにせよ被害を被るのは自分なのだ。それなら仲直りしてもらった方がいいに決まっている。
そう思って毎度毎度付き合っているし、今回も例に洩れずペンギンはローに付き合ってやっているのだが。ローはなぜキッドと喧嘩したのか、その理由について一切説明しようとしない。これにはペンギンも訝った。今までそんなことはなかったからだ。聞いていなくてもローがべらべらと文句を言ってくるのが常で、こんな状態は初めて見る。しかし何度聞いても「ユースタス屋が悪い」と、ただそれだけ言って口を割らないので、仕方なしにローが自然に話してくれるまで待とうと。そう思ってもう一週間も経った。さすがにこれにはペンギンも参っていた。最短二時間、かかっても二日で仲直りしていたあの二人が、だ。奇特なこともあるものだと最初は思っていたがそれも三日目で限界を迎えた。こんな自暴自棄なローに付き合っていたら自分まで自暴自棄になりそうだ。早く元に戻ってくれ、と思うが一向にその気配はない。

「…なあ、ローはユースタスのことが嫌いになったのか?」
「すきだ」
「おおい、そんなはっきし言い切れるなら早く仲直りしろよ…とりあえずさ、何があったか言ってみ?仲直りしたくないわけじゃないんだろ?」
「いやだ!おれは悪くない、あいつが、ユースタス屋がわるい!」
「いやそれはもう分かったから……」

一週間前と同じ言葉を繰り返し、何杯目かのビールを勢いよく煽るローは何がそんなに嫌なのか。ペンギンには全く以て検討がつかない。頑なまでに拒まれてしまえば手助けも何もあったもんじゃない。しかしこれ以上は埒が明かないだろう、それは分かった。ちらりと携帯を見て時間を確認する。もうそろそろいい時間であることに気づき、飲むのはやめろと言っても聞かないので、仕方なく会計ボタンを押した。まだ飲む、帰らないなどと騒ぐ幼馴染は無視して無理に立ち上がらせると会計を済ませてそそくさと店を出た。

「ちょっ、ロー!ふらふらすんなって!」
「じぶんで、歩ける…」

腕を掴んではいてもあっちへふらふらこっちへふらふら足取りの覚束ないローに、仕方なくその腕を肩に回す。途端にずりずりと掛けられる体重と間近に感じられる酒臭さに眉根を寄せた。

「あーもう!早く仲直りしろよなー!」
「だって、ゆーすたすやが、わるい」
「…んなこと言ってる間に誰かに取られたらどーすんの?」

はぁ、と吐き出した息は白く、首元に当たる風は冷たい。寒いし、隣の酔っぱらいは煩いし、これまでの一週間の重みでちょっとした苛立ちがペンギンの中を駆け巡る。その思いに任せた悪戯心で口を吐いた言葉に意味はなく、実際にそんなことが起こり得るとは微塵も思っていなかった。どこからどう見てもキッドはローにベタ惚れで、浮気なんて以ての外だ。
ただそのことはローにも言える。口には出さないがローだってキッドには心底惚れているのだ。だからペンギンの意趣返しのようなちょっとしたその言葉も、ローにとってはそれ以上の意味を持ってしまう。

「まーそんなことはないと思うけ…ロー?」
「……っ」
「え、ちょっとまってお前泣いてんの?」
「泣いてねぇ!くそが!」

ごしごしと乱暴に目元を拭うローに、ペンギンは内心やってしまったと思った。こうなったローの気分は地を這うどころか最底辺を突き抜ける。今はまだ酔っぱらっているからいいが、明日のことを考えてぶるりと背筋が震えた。そうなのだ、いつだって巻き込まれるのは第三者の自分、いや自分たちで。ごめんごめんと必死に謝りながらペンギンは携帯を取り出した。

「お詫びにいいところに連れてってやるから」

ぐすぐす鼻を啜るローは恋人どころか世の中のありとあらゆることに文句を言っていてペンギンの言葉も聞いていないようだ。その様子に密かに笑いそうになる。自分の知っている幼馴染は常に冷静で、人を食ったような皮肉を好み、決して自分の弱みを他人に見せない。それなのに今のこの姿ときたら。恋とは何て偉大なものだろうか。しかしその偉大さゆえに引き連れてくるものも厄介だ。酔った所につけこむのは悪いかなとも思いつつも、他人の恋の付属品に振り回されるのもそろそろ終わりにしたい。ペンギンは「ごめん、」と今度は違う意味で謝ると、見知ったアドレスにメールを送った。明日にはローの機嫌がせめて地を這ってますようにと思いながら。

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