生者が一切の罪を重ねず生きていくなんて、私は不可能だと思います。


あの方と向かっていると、首を絞められているような気分になる。ちくちくと、後ろ暗いところを責め立てられているような気持ちになる。生きていることさえ。罪のような気がしてくる。それが閻魔様の仕事で、存在だということがわかっていてもだ。苦手だった。全ての生物に一線引いた波長を持つあの迷いなき声が。幻想郷から外の世界にかけての全てを見ながらにして一切の虚偽を見抜ける、澄み切って辛辣な瞳が。私よりも僅かに背が低い程度の、幼き頭身。少女と呼んでも差し支えないのに。頂く冠と、纏う衣は聖者のそれで。あの方の裁判を記録する書記官になれるなんて光栄なことだと三途の船頭だった頃の先輩に言われたけれど、私にはどうしてもそうは思えなかった。だってあのお方は、誰も必要としていない。ヤマはそういうもの?違う。あの人はヤマである前に、他者を隔絶している。冷たい声。瞳。暖かさの欠片も無い。慈悲に満ちた無慈悲。おそろしい。罰より裁きがおそろしい。見抜かれて、責められて、そして、そして



「…罪状は以上。では、四季映姫・ヤマザナドゥの名において裁きを下す―汝は黒。行く先は地獄である」



淡々とした事務作業である。地獄の裁判は、外の世界のそれのようにあやふやで、沢山のものに阻害されていない。裁判長が全権を担い、絶対不可侵の能力を使って決して覆らない判決を下す。そもそも真実を討論、検証する場ではなくただ今まで辿ってきた本人しか知り得ない真実更には本人でさえわからなかった罪そのものをもう一度ここで読み上げられ、心に刻む場でしかない。法の化身は惑わない。自分は全てを知っていて、更に絶対の力がある―傲慢だ。なんと言おうと、私はそれは傲慢以外に他ならないと思う。ヤマの苦悩なんて知らない。霊の痛みはよく知っている。私は霊の肩を持つ。死神は妖怪だけど、閻魔は神だ。神なんて碌なものじゃない。大きすぎる力を持つと生きるものは等しく、傲慢になるもので、ああ、もやもやする、そうだ、正直に告白すると私は閻魔様が苦手な上に嫌いだ。でも先輩は…小町さんは閻魔様を愛していた。深く深く。上司としても、きっと、個人としても愛していたんだと思う。閻魔様も、小町さんの前ではその絶対零度に僅かな綻びが生じるのが外から見ていればよくわかった。お互いが信頼し合っていた。私はそれが気に入らなかった。小町さんは誰にでも優しいし、誰だって愛してくれる。嫌だった。小町さんの特別が、たった一人だっていることが。そしてそれが、傲慢な閻魔だということが。



「では、本日はこれにて閉廷。皆、お疲れ様。明日も一層業務に励むように」



毎日同じことを言っている。言葉だけの労い。伸びをしたり肩を回しながらみんな今夜の予定についてざわめく中一人閻魔様はきびきび闊歩し、法廷の重い戸を開けて出て行った。私はその背を見つめていた。遠い、小さい、背中だった。側には誰も寄せようとしていない。きっと隣りに立てるのは小町さんだけだ。あの厳格なる歩みについていけるのは、小町さんだけなのだ。私はその背をなんとなく追った。小走りで。そうしたら閻魔様がくるりとあまりに唐突に振り向いたもので、面食らってしまった。「浮かない顔をしていますね」氷柱で胸を刺されたよう。「えっ」「来なさい。貴女に話すことがあります」訳が分からない。凛とした声でそう告げられ、あっという間に執務室まで連れて行かれる。いや、なんと言って断ることもできたのだけど。身体は言うことを聞いてくれない。自分の後ろで執務室の扉が重く閉じた音でようやく我に返る。私は、何を


「此処に来ることが決まった時にはもう、小町からあなたのことは聞いていました」呼称さえ、ああ、遠い。私はずっと後輩で。「霊の身になって物事を見ることができる、心根が優しい子だと」死神に優しさなど不要という説教だろうか。くだらない。絶対に間違っていないことなんて聞きたくない。「その優しさ故、私が憎く、認めることができないことはよくわかっています」違う。私が貴女が憎いのはそんな理由じゃない。厭味だけなら逃げてしまいたい。汚い心だ。貴女のような清廉潔白ではない。「でも貴女は今まで本当によくやってきた。己の私情を仕事に挟まず、努力を重ね黙々と憎い私の言葉を記録した。…簡単なことのように見えてこれはとても難しいことです。私もここ数年ほど、貴女の仕事振りを見ていて思ったことがある」



「あなたは、船頭に戻るべきよ。あなたもそれを望んでいることでしょう」



閻魔様は穏やかな瞳で私にそう告げた。いつもの昏い瞳でも冷たい声でもなく、柔らかに包み込むようにそう言った。私の口内は乾いて唾さえ通らず、部屋の窓は黄昏のまま静止しているよう、で



天地我人、愛知らず


(歯車は音を立てて)