※なかなかに不快な話です




生きるのが辛い。生きるのが憎い。呼吸をするのも億劫で。心臓が動く感触は肌をミミズが這うように感じて煩わしい。その時の私は明日を呪うのにも疲れていた。どうしようもなく疲弊していた。金輪際自分に幸福など訪れることはなく、また訪れたとしても、不幸を呼び寄せる序曲にしか思えず、きいきいと蝙蝠のように泣き喚いて、男をうんざりさせて、ある時は脳内を廻る断末魔を黙らせようと性交に及び、幸福を呪い、憎み、ただ永遠の平穏と安息だけを望んで、毎日を吐き捨てて生きていた。否、死んでいた。死にたがったところで死なせてくれる存在など、この世にはびっくりするほど僅少にして希少である。命は尊い。生かしてくれるものばかりで、死を許す存在はどこにもない。何を見ても。何処を見ても。



「貴女の絶望は、全く酷い匂いがします」


枕元に立つ存在があった。しょぼいラブホでも、自宅のベッドでも、廊下でも、玄関でも、見知らぬ男、いや女?のベッドでも。それなりに良いホテルでも。ゴミ捨て場でも。私が眠りに落ちた時に私を頭上から見下ろしている存在があることには気がついていた。夢枕に、と言わなかったのには訳があり、それは夢のような存在である割にはあまりに現実の匂いを纏いすぎていた。たとえば轢かれた冷たい猫。道端でかさかさに乾いたイモリ。線路に飛び散る脳漿。絶望的な目をしてすし詰めになる朝の通勤快速などといった物全てに共通するある一定の甘い芳香である。甘美で有意義な、ごみための中の、真実。



「あなたはだれ」


「誰でしょうねえ。貴女の匂いに惹かれて来た者です」


「私も貴方の匂いは好きだよ。お名前は」



声が届くようになったのは、いかれた男に首を絞められながら犯されて吐きそうになりながら絶頂に達して寝てしまった時のこと。私の潰れた首には声帯が通った。声が出た。何が立っているかはさっぱりわからなかったけど、頭の中にはわんわんと静かな音が反響した。「私は死ぬの、ようやく」「いいえ。歓喜なさい、貴女は選ばれたのです」芝居がかった音だった。芝居だったのかもしれない。私が目覚めたとき、私の身体の上で男は跨ったまま首から上を失くしていた。トマトのように潰されて、首からは骨が覗いていた。見事なオブジェのようだった。私がそれを見た瞬間、男の身体はどしゃりと後ろに倒れ込む。ぺこっとへこんだ自分の腹の上には精液がたっぷりと乗っていた。



「青髭です」


「青髭!へえ。歴代奥さんの死体を地下に飾ってたひと?」


「そうですね。似たようなことはしていました」


「どうしてそんなことしてたの」


「祈る為に」



耳が聞こえるようになったのは、がりがりがりがり耳フェチを自称する男に耳たぶを噛まれて、噛まれて、血が出て耳たぶが途切れて食べられてしまうくらい噛まれて、激痛で気が遠くなって寝てしまった時の話だ。「朝も昼も夜も、私は常に祈っていた」優しい声だった。澄んだ聖者の声だった。美しい、祈りを捧げる敬虔な信者の姿が見えた。「私は死ぬの」「死にません」私が目覚めたとき、私の横で自称耳フェチの変態男は耳からどろどろ血やその他様々なものを垂れ流しながら白目をむいてびくびくとうつ伏せのまま痙攣していた。精液は常に、下腹の子宮の位置にたっぷりと乗っていた。



「祈りは届いたの、青髭さん」


「残念ながら届きませんでした。虚しく闇へと消えたのです」


「可哀想に。神様は意地悪だね」


「意地悪!可愛らしいことを仰る」


「そうでしょう?一生懸命願った人ほど嘲笑う」


「意地悪ですねえ」



目が開いたのは、行き過ぎた自傷で左目の視力を失ったとき、つまり、戯れに針で目を突いていたら思いのほか深く入ってしまい、また眼科に行く気も無かったが故にぐちゃっと私の視界の半分は一息にべちゃべちゃの赤で埋まってしまい、なんだかうんざりして眠ってしまった時の話だ。美しい声の人だからさぞかし美しい存在なのだろうと思えばそれは少々安易な予想であった。ぎょろりとむいたハゲタカのような鋭い目や、大きな口や、こけたように落ち窪んだ顔は凶相と表現する以外に無い。それでも不思議と彼(その時には、私達は割と親しくなっていたんだとおもう。たぶん。)は優しくて、大きな身体は悪くなかった。「私は、死ねる?」「さて、どうでしょう」



私は祈っていた。来る日も来る日も。死を乞うた。願った。それは清廉な祈りであった。許容と安息と平穏を、祈っていたのだ。おそらく神様を信じるたくさんの人と同じように。終わりを待っていたのだ。私も、あなたも。そんな生き方をしていてはいけないという―明快な叱咤を、待っていた。「私は生き方を間違えてしまったのだとおもう」「成程」「あなたは何故祈っていたの」「死に方を間違えたある方の為に」


それは白昼夢であった。私が首を吊ろうとして、じょうぶなロープで結った輪に頭を通して足元の椅子を蹴った時、彼は私の目の前に立っていた。私の首を掴んだままぶら下げていた。「邪魔ばかりするんだ。神様みたい」「永く生きていますが、そう言われたのは初めてですね」「じゃあいつもなんて呼ばれるの?」「最近は。旦那、旦那と」「はは、すごーい。慕われてるんだね」「ええ、少なくとも神よりは」「そ。じゃあ、かみさまよりやさしい青髭の旦那さん、」私の首を離してほしい。



「残念ながら」


「なぜ」


「貴女は選ばれた。出来うる限り私が永らえさせます」


「何の権利があって?」


「その絶望の、」



芳香と咆哮と方向が。あまりに美しかったものだから。神の下に送るには惜しすぎる。と言って彼は厳かに笑った。ははあ。まったくわけがわからない。「宜しいですかなまえ。貴女はそのまま生きるに限ります」そうすればいずれ死は訪れる。私ともこうして会えるのです。如何ですか。「抱えて生きなさい。息が詰る程に、唇が裂ける程に、絶望に塗れて。嘆いて喚いて吐き出して目から耳から喉から肺から股から足から血を流して走り続けるのです。許されぬまま、抱かれぬまま、何にも認められぬまま。貴女の死は永劫、私が喰らう」

その救済の代償に。



「あなたがずっとここにいる?」



かみさまさがし


(神よ神よ、何処まで逃げる?底は天でも地でもない)