時に痴情の縺れで尊い命が失われることがある。最近の流行らしい。世も末である。いい加減みんな現世に絶望、来世に期待、そういう儚い願いを叶える為に、次は双子になろうだの同じ蓮の中から生まれようだの鳥の両翼になろうだの、連なる枝になろうだの、そういう祈りを込めてなんてことないどいつもこいつも似たような身体のヌーの群れは崖に向かって爆走する。こぞって自らを死を選ぶ。俺から見たら何も変わらない獲物の逃走にすぎないのに。食われない獲物に何の価値があるというのだろう?糧になることも無く自ら命を絶つ獲物はまったく、実際の動物より動物らしい上に愚か。なんとも人類らしい愚行。全知全能の神のシナリオにも蛇足は存在することを知ったのはそういう世界があることを見てからだろう。





黒い水面に女の指が見えた。この寒さの中それも夜中に川で泳ぐなんてどう好意的に見ても正気ではない。正気ではない女を屠っても大して楽しくない。ちっとも騒がなかったり逆に悪魔みたいな奇声をあげて騒いだりするから、女は正気が一番だと思う。ということで、俺は特に気に留めることなく遊泳するにしては多少浅いような気がする川を橋の下に見ながら通過しようとする。指ではなく手が伸びてきた。もがいている。縋るものを探すように。髪が広がって揺らめいている。がは、って濁った音がして真っ赤な口内が勢い良く開いた。必死に喘いでいる。助けを求める意図を込めた息が漏れる。真冬の夜、川の中で、泳ぐことなくもがきながら助けを求めている。正気の可能性がある。正気の女。俺は、チンしてもらった弁当が冷めない内に帰りたい、とだけ思いながらぽんと橋の縁から軽快に岸まで降りて「お姉さん生きてんの?」と声をかける。



必死である。こんなところで死ぬわけにはいかない。別にそんな大層な使命を授かって生まれた覚えはないが、少なくとも一方的な愛なんかで呆気なく死んでもいいほど価値無く生まれた覚えもない。私の腰に抱きついた男の腕は重く、引きずり込むように深い。心中でどちらかが生き残ってしまって不幸なんて割とよく聞く話だけど、それはきっと男が大して死ぬ気がなかっただけの話だと思う。力の強い方が本気なら、弱い方は意志尊厳に関わらず巻き込まれていくものだ。つまり、今の私。まるで今の私。必死に息を吐きすぎたせいで胃の中の物まで吐きそうだ。水面が遠い。果てしなく遠い。指だけが凍るような寒さを掴んでいる。もう水の中に引きずり込まれる前の景色を忘れそうになる。蹴って、もがいて、手を伸ばす。寒さが貫いてくる。頭からガラスをぶち破る程度の覚悟で口を開けて思い切り水面に突っ込み、刃物を飲むように外気を吸う。気管が裂けるように痛い。そんな場合ではない。「お姉さん生きてんの?」生きてるからこんなに必死なんだと叫ぼうとして、



白い手を掴む。まるで氷だと思った。寒々しいことこの上ない。ぐっと引き上げるとずるずると女の身体は水面に近づき、途中までは二人分くらいの重さだったけれど、近づくにつれて段々軽くなっていった。女は嘔吐するように水を盛大に吐き散らしながら岸に上がる。美もプライドもかなぐり捨てて生にしがみつく様は嫌いではない。俺はにやにやと笑い、いいものを拾ったと多少上機嫌になった。正気の女は勿論好きだが、生にしがみつく女はもっと好きだ。生に固執する女はよく喚くし騒ぐ。泣く。己の価値を、高く見積もりすぎている女はなんとも健気で愛らしい。外見もそこそこ悪くはない。真冬の浅い川で二人で溺れていてもおかしくない程度の魅力はある。「お姉さん生きてんの?」もう一度聞く。女は兎のように真っ赤に染まった目をぎらぎらさせて俺を睨む。「ばかにしてんの」虚勢を張れるほどの活気もある。俺はいよいよ機嫌良く笑い、気まぐれでした拾い物に温められた弁当以上の価値を見出せたことに歓喜する。



女のような指だった。触れられた一瞬は女かと思ったくらいだ。細身であって骨っぽいわけでもなく、ぎりぎり堅さと骨の形をコーティングできるような程よい肉付きでかつ滑らかな肌をしていて、しかし有無を言わさぬ力でその美しさは掻き消された。私一人を引くならともかく、私の腰には未だ男が絡みついている。大の大人二人分を、この美しい手は事も無げに引いている。それも怪力という類ではなく、力の入らない人間を一方的に引き摺り慣れているような動作だった。私は絡む男から身を捩って逃げ、水を蹴り、岸に這い蹲った。身を切るような寒ささえ愛しい。生を噛み締めた瞬間に頭ががつんと殴られたように痛くなり、歪む平衡感覚に耐えられなくて嘔吐した。水しか出なかった。薄汚れた泥水に泡だった胃液と血が混じっていた。私を引いた男はにたにたと不気味に笑いながらしゃがんで私を眺めていた。染髪されたにしては馴染みすぎている明るい派手な色の頭と、無駄を一切省いた端正なパーツのみで構成された美しく誂えられた能面のような顔がひどく不自然で、禍々しい異彩の色気を放っている。



「お姉さん生きてんの?」


「ばかにしてんの」



礼を言おうと思っていたのにその言葉に込められていた小馬鹿にしてるような色がひどく頭にきて、反射的に睨みつけてそう返す。すると男はそれはそれは美しく花開くように笑った。華やかに祝福するような笑顔を見せた。不気味な能面で。獲物を呑む蛇の瞳に魅入られてしまったような危うさを感じた。「馬鹿になんてしてないって。お姉さん生きてたんだよ?もっと喜べばいいのに」男は喜んでいた。見知らぬ女が溺死しなかったことを素直に喜んでいた。こんな奇天烈な色気を持っている男が川から上がって髪を振り乱してゲロ吐く女に下心を抱くとも思えず、その歓喜の出所はまったく気持ち悪いことこの上ない。私は男に生理的嫌悪どころか本能的危険まで感じていて、死から逃れられた気がしなかった。男の瞳は、彼氏がつい数時間前私を真冬の川に引きずり込むのを決めた時の病んだ瞳によく似ていた。違ったのは、この男は病んでいるのではない、正気であるということ。



「幸運なお姉さん、名前は?いかれてないみたいで本当によかった」


「なまえ。不運なお兄さんも、いかれてないみたいで本当に残念」



俺はね、龍之介。りゅーのすけ。男は微笑み手を差し出す。自分の身体は泥臭く、心なしか磯臭さい。男の匂いは私が吐いた血の匂いでさっぱりわからない。私は喉に絡んだ痰交じりの泥を吐き出して美しい指を握る。男の瞳は猫のように細まる。私の瞳はつめたく縮こまる。逝き損ねた私達に次回なんてきっと、こない。



来世に尊厳死


(不運にも幸運にも)