「君は、本当の愛の名前を知っている?」


女はさも不快そうに顔をしかめた。そんな場合ではないだろう、という感情をこれでもかと顕にして、実際に言葉にも出した。「もう少し真剣に私に取り合って欲しいのだけど」「これは大事なことだ。君が知っているかどうか、で、君に頼むかどうかが決まる」ぶ厚い防弾ガラス越しに、女の反対側に座る男の骸骨のようにこけた頬と窪んだ隈は無愛想に歪む。「あなたはまったく自分の立場を理解できていない」苛々と女はついに指で机をとんとんと叩き始め―まったくどうして私がこんなイカレたマーダーの価値観を清聴してやらなきゃならないんだ―と密やかに胸の内でひとりごちた。女は国に選ばれたそれなりに実力のある弁護士で、男はざっと洗っただけで5件もの死体をあげた完全な連続殺人犯だった。彼の自宅から押収された証拠は彼の犯行を如実に表していたし、彼もその行為自体を否定することはなかった―その行為自体は。


男はむっつりと唇を結んだまま、言う。「さっきから、うるさいな。大方僕を国のシステムさえ理解してない学の無いクズみたいな殺人犯だと思っているんだろう?申し訳ないが僕は一般的な人間だ。星条旗の星の数とその意味を知っている程度の」女は長い睫毛を伏せて眼を閉じ、繋げる。「ごめんなさいね。それでも人を殺してはいけません、という小学校に通う子供だって知っていることが理解できてないひどく非常識な人間だって念頭に置いて話さなきゃいけないの。オゥケィ?あなたに選択の余地なんて無い。有罪どころか死刑までほぼ確定してるようなもの。少しでも余生が欲しいなら協力して」


男は大袈裟に首を振る。「ああ…まったく嫌になる。どうしてみんな邪魔ばかりするんだ。裁判なんてどうでもいい。君なんていなくたって僕は無罪さ。なにも悪いことなんてしてない。こんな暇があったらアンナに手紙を書かなくちゃ―僕がいなくて彼女はきっと泣いている。不安なんだ。僕がいなければ彼女は壊れてしまう」女はもうこの幾許か一般的な枠からは人の意見や主張に耳を傾けるといった点において外れている男とまともに言葉を交わすことを諦め、彼の独白を書きとめ分析するほうが建設的なのではないか、と思い立って行動をそちらに移していた。「………。なぜ悪いことなんてしていない、と思うの?」


「当然だろ。アンナは薄幸な子だった。小さい頃から、不幸な目にばかりあって…どうして私ばかりこんな目に、幸せになりたいって、よく泣いていて…だから彼女はそういう弱さに付け入ろうとする馬鹿な男に引っかかった。可哀相に――だから僕はそういった卑怯で矮小な人間を排除した。醜い顔を潰し、碌なことを考えない脳漿を弾丸で引き裂き、汚い息を吹きかける喉を塞いで。どいつも豚みたいな顔で豚のように鳴いた。最初から人間ではなかったのかもしれない」


「その頃にはあなたはアンナと恋人同士ではなかったのでは?」女は言った。しかし男は当然だとでも言うように、「そんな称号に何の意味があるんだい、先生?―世の中は愛で溢れてるじゃないか。君は夫かボーイフレンドとしか愛を育めないのか?」続けた。女は淡々と単語を並べ、それを線で結んでいく。ブレインマップの中央のレイモンドという男の名はアンナもしくは愛、に書き変えざるを得なかった。「一理あるわね。続けて」「そうだろう?…そんなものなくたって僕達は繋がっていた。常に、そして永遠に。僕はアンナの気持ちが手に取るように理解できた。アンナが何をしたら喜ぶか、何を望んでいるか、何が恐ろしいか、何を求めているか、何を愛しているか…残念だけど僕は人殺しをしてはいけないことくらい小学校の頃から知っていた。だが、アンナがそれを望んでいれば別だ」



「―つまり?」


「アンナと、彼女の幸せの為に、僕は全てを捧げたんだ」



男の声は震えていた。それは恐怖や後悔などとは程遠い―陶酔と快感の吐息だった。まるでそうすることで、白く透けて浮かぶことしか出来ない自分に色をつけ地に降り立つことができるかのように。女はようやく、顔を上げ男の顔を見た。男の冷たく青く細い頬は膨らむように赤らんでいた。勃起しているのかもしれない、とわけもなく女は思った。「当然、僕はアンナを愛しているんだ―アンナも僕を愛していた。何故なら僕は、アンナが幸せになるただ一つの手段だったから。僕しか彼女を幸せにできない。ああ、一人ぼっちのアンナ…胸が裂けそうだ。先生、はやく僕をここから出してくれないか。僕はどうだっていいんだ、アンナが僕を失ってひとりで泣いているのが耐えられない」


男の表情はひどく悲痛なものだが、紅潮は納まることなくむしろさらに色づいてるようにも見えた。「…アンナは、裁判であなたの有罪を立証する証言をすることになると思う」女はそう言うことで自分の中の一抹の希望をひらめかせ、相手の色を土に還したいと思ったがその期待は簡単に裏切られた。「そうか―アンナは、そんなに孤独を強要した僕が憎いのか。まったく、本当に…本当に、僕がいなければ、そうでもしないと心が保てないんだ。いつもそうなのさ。自分が壊れてしまいそうになると僕を拒んで傷つける。そうやってようやく落ち着く」男は澱んで決して女と合わそうとはせず伏せるだけの瞳を潤ませた。


「かの天才、ヴォルフガング・モーツァルトは言っている。天才の本質は愛だって―この世の至高を築くのは愛なんだ。そう、愛の名前は本質さ。先生、あなたにもわかるはずだ、僕達の―無償の、ギブアンドテイクを必要としない関係の尊さが」女は溜息をついた。この手のありふれた文句と価値観を小説にでもしてみせたら―大層彼は世間を頷かせ時にはうら若き思春期の少女達を涙させたかもしれない。しかし彼の作品は愚かにも最悪の形で世に表現されることとなり、法廷でそういった芝居を売っても感銘を受けるのは感受性豊かな傍聴席の一般市民だけだろう。私達には何の効力もなく、彼は踊る舞台を間違えたとしか言いようがない。女は、「わかりました。話を聞かせてくれて、ありがとう」と当初の苛立ちを完璧に元鞘に納め、立ち上がった。彼女にとってそれは陳腐で見飽きた憐れな殺人犯の一幕でしかない。しかし屈強なガラス越しのまま男は満足そうに、唇を歪める。



「―アンナ。しあわせだ。僕達は、こんなにも妬まれているよ」

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