錆びた城の地下はその異様な広さだけが際立つが、収納しておくはずだった物はほとんど残ってはいない。地上部分は観光地と化し、丁寧に順路に従って簡単な柵も設けられている。かつてここで歴史を紡いでいた紡ぎ手はとうの昔に没し、糸車は朽ち果て、ついには生まれた作品までも埃を被って表舞台から消失しつつある。今は只そこにかつて紡ぎ手と糸車とその二つによって生み出された作品が存在していた―という事実しか、残っていない。その事実も分厚く重い、誰もが手に取る気を失うような古臭い本となり探そうと思えば気が遠くなるほど広大かつ膨大な蔵書数を誇る世界の何処ともわからない図書館の奥深くにしまいこまれてしまうだろう。そういう国の、そういう城だった。かつての栄華は見る陰もない。しかし一つの影は夜間によってしっかりと警備員によって施錠されたその城にやすやすと入り込み、月明かりさえ遮られた暗い廊下を亡霊のように通り抜けていく。いや、それは確かに亡霊だったかもしれない。黒い目深なフードの下の表情は見えないが、皮膚は青いほど白く唇だけは赤く際立っていた。固く表情を覆い隠しているのに肩から胸にかけて露出された肌はその青さを一種の光源にできるのではないか―というくらい、ぼんやりと薄く明るんでいる。



最初に覗き見た地下へと視点は移動する。フードを被った影は足音だけをわざと存在を誇示するように響かせながら降りていく。城内の地上部分を見回っていた警備員はその音を遠くに聞き、手に持っていた懐中電灯を左右に動かす。何も無い。音だけが遠くに響いている。沈黙する甲冑と石の床に警備員は身震いした。もとより幽霊が出るとまことしやかに囁かれていた―城だ。しかし、この世に科学的根拠に裏づけされないものは全てがばかばかしい怪奇にすぎない。警備員は胸を撫で下ろし、夜勤の後の穏やかな睡眠と朝の光に代わり映えのない記事ばかりの新聞、コーヒーの匂いとローストビーフのサンドイッチのことを想う。ぽた、と自分の足先に一つ、ミルクを零したような透明の雫が滴るまで。


振り返り悲鳴をあげる間もなく、警備員は頭から腰までをばっくりと一口で喰われた。喰った―という表現は―適当ではないかもしれない。口の位置さえはっきりしない。瞳孔も黒目も無い赤く光る瞳を顔の側面に五つか六つずつ持つ生き物は、大きすぎる牙を持て余しているせいで満足に口とは到底呼びがたい裂け目も閉じられず、涎を垂らしていた。高さ4メートルはある大きくなりすぎた狼のようなそれは腐りかけの後ろ足を引きずり、骨まで肉の抉れた前足を屈めて脊椎が飛び出し腸をもらした哀れな警備員の下半身をかぷりと咥えた。ごり、ぼり、ぶちゅっ、と色も光も消え失せた古城の廊下に振動だけが木霊する。フードの影は地下への階段を降りながら、小さく微笑むように音を出した。鈴の転がるような、頭上の惨劇におよそ似つかわしくない不気味なほどに静まり返った嘲笑だった。



やがて足音は地下の何も無い広いだけの空間にたどり着き、どこからともなく松明に炎が灯る。フードの影は薄明かりの中でゆっくりそのフードを取った。その形相は肌の尋常ではない白さを除けば背格好含め人間の少女そのものだったが、瞳孔はくっきりと開ききっているにも関わらず本来そこから発されるであろう感情の昂ぶりはゼロどころかマイナスだった。その無機質さは人を模した人形やかつて人であった死体によく似ていた。しかし彼女の唇は死体にはない赤さを保ち、身体は人形にはない滑らかな動きを持っていた。不自然の塊だった。自然の理に存在そのものが反しているような矛盾に満ちた生き物だった。


少女が手をかざすと、天井に向けられた掌に青白い光が火を放たれたように湧き上がる。固く結ばれていた唇は緩められ、どの国の言語とも形容しがたい奇妙な響きをもった言葉が次々に流れ出していく。流れるにつれて彼女の纏っていたマントははためき、冷たく沈黙していた床にも青い光が流れ出す。彼女の瞳はわずかに感嘆するように見開かれ、溢れる言葉は留まらない。流れ出した青色光は床に渦を巻き、広すぎる地下空間を照らし出すほどに輝きだし、そうしてついに松明の暖かな橙の炎は青い高温に塗り替えられる。冷たい冥界を模したようなその空間には渦をもって中心のようなものが作り出され―中心には白く煙が立ち込め始めた。少女の唇は歓喜に触れたように綻び、煙の中には――おそらく一つの人らしき影が、その場に生じたかのように現れる。



青い光は消えていく。松明の炎は元通り、柔らかい光で照らし始めた。煙が薄れて霧散する頃にはその人の影はすっと背が高く骨格のしっかりした、軍服を着た男だということがわかる。少女はかざしていた手をそこで下げ、男に近づいていく。男は俯いていた顔を上げ、少女にはっきりと視線を向ける。男の短髪は白に見まごう程の見事なプラチナ・ブロンドで、開かれた瞳はくりぬかれた眼窩のように赤く、畏怖を与える強い力を持っていた。少女はそのまま臆することなく近づき、品良く微笑みかける。「おはよう、プロイセン。久しぶりの生の味はどう?」


プロイセン、と呼ばれた男は尖った犬歯を剥き出しにして吠えた。「俺様に何しやがった」少女は薄ら笑いを浮かべたまま小首を傾げる。「あなたがかつて渇望したものを与えただけだけど?」男は黒の手袋に包まれた手をするりと伸ばし、少女の胸倉を掴み上げた。「ふざけんじゃねえ!何しやがった、何を…俺に、この俺の身体に何をした!」「命を与えたの。もうわかっているくせに、ねえ」「そんなことができるわけあるか、オカルト女が!ふざけた魔術だったら承知しねえぞ、この場でてめえをぶち殺してやる」「そんなことをしてしまっていいの?あなたの身体は私の召喚によってもっている。殺したりしたらまた墓の下よ」男はぎりぎりと歯を鳴らし、少女は歯にもかけないといった表情で値踏みするように無遠慮に男の野蛮に整えられた顔を眺めている。



「―死霊術か」


「そう。これでも私、かなり実力のある方でね。あなたに与えた生命はとても濃く力のあるものだし、生前とさして体調は変わらないはずだけど。むしろ死への恐怖から解放されて気分がいいんじゃない?」



「感謝しろ、ってか?生前そのままで叩き起していただいたことに」



「別に理性や自立機能を与えなくたってよかったのよ。綺麗な男の身体をしたお人形にしなかったことにまずは感謝してほしいものね」男は乱暴に、突き飛ばすように少女を下ろした。瞳には反抗的な炎が燻ることなく煌々と燃え続けている。「何が望みだ。セックスの相手ってわけじゃなさそうだな」「まあ、それも悪くないけど、それよりずっと愉しいしトばしてくれることがしたくてあなたを喚んだの。重なる悲劇と不運の中で窒息してしまった亡国をね」少女はゆっくりと唇を結んだ。「もうあなたは私が生きている限り死の恐怖に怯えることはない。何度あなたが朽ちても私が喚び戻してあげる―つまり私はあなたの魂ね。そして、あなたには魂を守ってもらう。文字通り命を賭けて」


男は静かに牙を唇の内側に隠し、瞳には炎を凍てつかせるような冷気が満ちる。「報酬は?」少女は静かに笑い、小さくもはっきりとした声で言った。「あなたのかつての望みも共に、蘇らせる」男の唇が静かに上がり、合わされた牙が喜悦の色を反射させる。「…ハッ」その笑いには確かに欲望の色が滲んでいた。滅びない禁断の魂は時を止めた体に染み渡っていく。少女は目を細めた。遥か城の上に浮かぶ月には霞みのような雲がかかり、黒い森に落ちる光を狭めていく。夜の始まりの月光は、地上の廊下に残る血だまりの色さえ照らせない。
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テーマ「人外ファンタジー」
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