早苗が熱を出した。


酷い熱だった。意識は混濁し、うなされっぱなしで、甲斐甲斐しく彼女の世話を焼く家族さえも疲弊が見て取れるほどの高熱だった。理由は、家族にはわからなかったが、私達にはわかっていた。崇拝は生身の巫女には毒薬だ。匙加減一つでその身を強化し人外に等しい力を得る薬になり、転じてバランスを失えば体を蝕み、心を壊す毒になる。早苗は幼く、力の使い方への経験も浅かった。私達にはもう、それほどの崇拝を集める力は無かったというのに。彼女を殺しにかかるような、重い重い魂の篭った怨念のような崇拝は、私達の身を重くし、巫女の体を蝕んだ。原因は一つだ。神の座を目指す愚かな生物が、正しく神として生まれたものではない何かが、選ばれたわけでもない驕った愚者が、神を冒そうとしている。その所為で様々な均衡が、崩れようとしているのだ。「神奈子」早苗の側に座って、頬に手を当てた諏訪子が顔もあげずにこちらに声を投げる。「わかってるんだろう?早くなんとかしないと、早苗は死ぬよ」


わかってるわよ。



今は昔。遠い昔の話だ。遠い遠い、それでも私にとっては、ほんの少し転寝をする程度の。この国にまだ碌に人がおらず、化身も生まれたばかりで、可愛い黒髪の幼子だった時の―話だ。私の後を着いてまわり、自我も完全ではなく、彼がまだ―私達を―八百万の神を、敬い慕っていた頃の。ちょうどいまの早苗と同じくらいの、可愛い童は、人間のようにすくすくと育った。瞬きの間の人間と違い、まるで私達の子供のように―ゆっくりとしかし確実に育った。そしてまるで私達のように、年頃でその身の成長を止めた。ほんの少し昔の話だ。だが、私は未だ覚えている。幼き日、私が風に乗せて空高くから驚くほど小さく詰まった島国である彼の全身を見せてやった日の彼の高潮した頬と「たけみなかたさま、わたしは、もっとおおきくなってみせます。もっと、もっと―あなたのように。そうしたら、わたしは、あなたとともに、いきられるような―」


感傷がすぎた。



「構いませんよ、考え事の続きを、どうぞそのまま」


私は倭国から現代の、鳥居の笠木の上に戻ってくる。遥か下から白服の男が私を親しげにそして愉しげに見つめていることに気づき、舌打ちをする。鳥居の内に入ったことにも気づけなかった。わざとらしく人ぶって―我らに敬意をもってその足で結界を踏んだのだ。「何をしに来た?忙しいんじゃなかったのかしらね、鉄の鳥がうるさくて眠れやしない」「そう思うなら力添え頂きたいものです。忙しい公務の間をぬって、わざわざ私が出向いたのですから彼女には早く治ってもらわねばならない。そして、祈祷を続けていただかないと」ふん、と私は鼻を鳴らす。「治るわけないさ。あのまま目覚めることなく死ぬだろう」


「それは困る」


ぴきり、と風が凍った。私達の間をそろそろと抜け、若葉を巻いていた初夏の風はぴたりと彼の零度の瞳が私の背を的確に射抜いた瞬間に止まってしまう。私は西に傾ぐ陽を背に、胡坐を崩さず彼を見下ろした。「彼女にはなんとしても永らえて貰わなければ。我が国の奇跡の象徴ですからね。愚かな民は、形が無ければ信じない―だから貴女方は舶来の神々に負けたのです」「愚かはどちらだ、倭。崇拝っていうのはね、そういうものよ。人がより信じやすいものが残っていく。優劣などない。今此処で得られないならば、我らは場所を移すだけ」

涼やかな笑みが男の口元に浮かんだ。「成程。しかし―どうでしょうねえ。可愛い貴女の巫女、いいえ、あの様子ではもう人の身も保てまい―現人神となるのでしょうか、彼女はどうするのです?衰えた貴女達とは違い、あんなにも崇拝を一手に引き受け、耐え切れなくなるほど苦しむ彼女はどうなるのでしょう。見捨てて去ると?若しくは、「早苗を人質に取るっての?」黒曜石の瞳はそうっと閉じられ、胸に手を当て男は続ける。「とんでもない。私はただ、神頼みをしているだけですよ、タケミナカタ。軍神である貴女の尊いお力を借りたいだけです。かつて弘安に私の背を押したあの神風を、今一度喚び込んでは貰えないかと」

「そんなことしたら、早苗がますます―「ご存知ですか。今ここで貴女がかの神風を喚ぶことで、民が崇めるのは誰なのか」私は奥歯を噛む。なるほど―「我が国は神に護られた国であると、民の崇拝は私に移るのです。貴女の巫女はあの病魔と化した崇拝から解放されることでしょう。そうして、貴女に正しく信仰が戻る。そして私は―」「神になる。愚かね、倭。そこまで狂っていたとは思わなかった」「耳に心地良いですよ。存在否定が恐ろしいですか?そうでしょうねえ、本当に恐ろしかったですものね、なにより貴女が愛し護ろうとした人間達が仏陀に魂を売り行使した八百万への迫害は」



「単なる人の集合体が、神気取りか。くだらない」


「単なる人の崇拝の権化が、貴女です。只の風に戻りたいのですか」



私は静かに唇を結ぶ。瞳に力を入れ、真っ直ぐにその目を見返すと、止まっていた風はそろそろと辺りを抜け始めた。日はどんどん落ち、私を逆光に照らす。「それでも私は構わない」男は初めてその鉄面皮を崩し、驚いたように口を少しだけ開け、その後すぐに追い詰められた狼の子のように歯を剥いた。「何故―」「私は風に、諏訪子は大地に。早苗は巫女からも信仰からも任を解かれる。なに、奴はわかってくれるだろう―かつての敗者だ。むしろ私のほうが、醜くも生にしがみつこうとしている」「何故だ!私は神の国になるんだ、そして今一度八百万の信仰を得て―日の下として立つのです、我が国が生んだ神だけで!」「ヤマト」男の瞳は濡れている。「人のところに、戻りなさい。おまえはあまりに、人に近すぎる」


どうして、と搾り出すように男が呻いた。風が前髪を揺らしている。私は空を仰ぎ、目を閉じた。「辛いだろう、そんなにも人なのに人としては決して生きられない」「―タケミナカタ様」「だが、それにも意味があるんだよ。私が信仰を得られなかったのも、舶来の神々が私よりも多く人を救ったのも、全てに意味が。私は人を愛している。憎んでなどいない。神だからね」「私は、人でも神でもないのなら、どうすればいいのですか」「おまえの意味を探すんだ。おまえが生きている意味を。ここでおまえが屈することで、そりゃあそれなりの人間はおまえを恨むだろうね。おまえのせいで夫が息子が死んだと沢山の人間が泣くだろう。だが、おまえはその中で、そしてこの先の長い長いたった一人の生の中で、それを探さなきゃならない」


「そこに」


そこに、貴女はいないのですね。


ヤマトが歯を引く音がした。私は見上げたまま、風に吹かれたまま、自分の頬を水が滑り落ちていくのを感じていた。私は何を、悔やんでいるのだろう。何ができないことだ。何を言えないことだ。風はひどく、ぬるい。私達は近い内に去らねばならないだろう。もはやこの地で、崇拝がこの身を満たすことはない。私達は互いを失うのだ。未だ自我を保つ前から繋がっていた物を。決して時に奪われることはない片割れを。ああ、ひのもとよ―私はおまえを愛している。こんなにも美しい、私を生んだ母なる島を、一体誰が憎もうか。おまえを侵す物々を撃ち払えるほど私に力があれば、私はなんだってしただろう。しかし、そうはならなかった。故に私は此処で幕を引き、彼は私を模すしかないのだ。私という存在を模して、愛する人々を風にして、今まさに身を焼き続ける戦火という名の炎を煽るしかないのだ。「―難儀なものね」


斜陽の空を鉄の翼が裂いていく。太陽の加護は、夜明けまで無い。
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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