「ねえ、小太郎」
「なんだ」
「なんで私の家にいるの?」
いつもどおり定時に仕事を終えて、夕食作るの面倒だなーとか思いながらコンビニで割子蕎麦を買って帰宅。
鍵は閉まっていたのに、何故か家には小太郎がのんきに正座でお茶を啜っていた。
台所になんとなく目をやればそこかしこの戸棚が開けられ、家捜しの痕跡。
もう一度小太郎の足元に視線を戻したら、急須、湯のみとお饅頭があった。
「この饅頭はうまいな」
「茶葉を探したの?お菓子を探したの?」
「NAMEはまだまだだな。急須と湯飲みも探したに決まってるだろう」
「知らないよ」
疲弊して帰宅してきた身にこんな仕打ちってないよね、と脱力。それでなくとも小太郎は何故だか悪びれなく堂々としているものだから、こっちまで毒気を抜かれてしまう。
…たいした男だよ。ほんと。
「ああ、そうだ。お帰り」
「なんで小太郎が私の家を我が物顔なのかは聞かないでおくね。イライラしそう」
「そうだな。イライラしていては体に悪いぞ」
「お前のせいだよ」
たったそれだけのこと。小太郎が私の家で自分で淹れたお茶を飲み、私が買ってきたお饅頭を食べている。ただそれだけのこと。
それなのに何故だか食べるつもりで買ってきた手元のビニール袋の中身がひどく重く感じてしまった。
最近暑い日が続いているから、さっぱりと軽く食べられるものにしよう、と。
今夜はこの蕎麦でもつつきながらビールを飲んで、そしてぐっすり眠ってしまおう、と。
そんな風に疲れきってもう一歩も歩きたくないと駄々をこねる足を叱咤してまでコンビニへ入ったと言うのに。
「何か買ってきたのか?」
「あ、うん…お蕎麦、食べようと思って」
「そうか…俺の分は?」
「あるわけないだろ」
食べようと思って買ってきたことに誤りはない。それでも今食べる気を根こそぎなくしてしまったとは、一体どういう了見だろう。
自分勝手な胃袋が腹立たしい。帰ってくるまで食べる気満々だったくせに。
「そうか…仕方ない。幾松殿のとこでも行くか」
食べかけのお饅頭の残りをばくりと一口に口の中に放り込んで湯飲みをとった指先は、この生ぬるい空気の中だというのに随分と青白い。
「…行ってくれば?」
「せめて嘘にさせてくれ。…何か軽く作ってはもらえんか」
台所に立つのが面倒でコンビニに寄ってきたと言うのに、自分以外の誰かの為に台所へ立てというのか。
納得できないような、それでいて何か安心したような。
…つくづく私は現金な女だ。つまり突然やってきて、人の家に勝手に上がりこむ男にだって私はずっと恋をしているんだろう。
随分長い間姿を見ていなかった目の前の男の存在なんて、ここしばらくすっかり忘れていたというのに。
「うちにお金も入れないような人の為に?」
「金はないが、愛なら入れているだろう」
「この家でそんなもの見たこともないよ」
「何、それは本当か」
「探したこともない」
湯飲みの中のお茶を一息に呷って、急須を傾ける。けれどその急須から湯のみへお茶が注がれることは無く、小太郎は至極残念そうに眉を下げた。
「それはきっと、この家中に俺の愛が溢れていて気付かないだけだ」
「言ってて悲しくならない?」
「じゃあ、その愛をお前が吸い込んでいるから見えないのかも知れん」
家捜しされてぐちゃぐちゃの台所。忙しさにかまけていて掃除をしていない部屋の中。
それでも小太郎が座る畳の、その一角だけは不思議と空気が澄んでいるような気さえしてくる。
腑に落ちないけど、それが小太郎なんだ。
「…そういうことにしておいてあげるよ。仕方ないから」
「それはよかった。じゃあ、饅頭でも食べるか?」
小太郎の手のひらにのったお饅頭。元は私が買ってきたものだけど、買うだけ買って戸棚に入れておいたそのお饅頭の存在なんて、小太郎が食べているのを見るまですっかり忘れていた。
「元は私のお饅頭だと思うよ」
「だから、NAMEが忘れていたものを俺が見つけたんだろう」
「…物は言いようね」
「NAMEが忘れたものは、全部俺のものだ」
じゃあたとえば私が私を忘れてしまったら、私は小太郎のものになるのだろうか。そんなバカなことを考えるくらいには、どうしようもなく私は疲れから回復してきたわけで。
「私が忘れなければ、私のもの」
急須をこっちに示して「湯をくれ」と言うこの男のことだって、私が忘れなければ私のものなのだ。
もう、それでいいか。この際。
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白玉さま
特に桂に対して思い入れがあるわけでなく、桂を書こうとして一番に思ったのは「桂ってなんだっけ」でした。
桂を見るたびに白玉さまを思い出します。なんでしょうね、この等式。
リクエストありがとうございました。