「暑苦しいわ」
夏の盛りも近づき、黙って立っているだけでも汗がつうと背筋を伝う不快感に眉をしかめ、高いヒールを乱暴に打ち鳴らしながら事務所へ入ってきた女が、その一室へ足を踏み入れ開口一番に、心底うんざりといった表情で目の前の男を罵倒した。
「いい加減にしてちょうだい。何故こうも暑いのにここの男共は揃いも揃って暑苦しい格好してるのよ」
額の汗を手の甲で拭う女のいでだちは、おおよそヤクザの事務所にふさわしくなく、シンプルなブルーのシフォンブラウスに太ももまでスリットの入った白いスカート、そしてベージュのハイヒールという一般のオフィスカジュアルである。
「まあまあ、んなこと言ったってねえ、ヤクザがクールビズだなんちゃらってえできねえだろう?」
ソファに深く腰掛け、赤をベースとした柄物のシャツに上下の暑苦しいスーツを着込むサングラスの男が手元に広げた経済雑誌を放り投げて仕方なさそうにごちた。
「それに事務所ん中なら冷房効いてるしさあ」
「あら、あんた夏の間は外回りに行かないつもり?そんなわけないわよねえ」
少々型の古い、若干黄ばんだエアコンを見上げて笑う男に、女もまたにっこりと笑ってみせる。組まれた腕がその胸を強調するようで、男は思わずそこに目をやった。
「外回りくらい、ねえ。しますよっと、俺だって」
「人の胸見つめる元気があるんだから、それくらいなんてことないわよねえ」
女の笑顔と普段と変わらない声。男にとってそれは良く知るものだがバツが悪くなり、放り投げた経済雑誌を再び取り上げ、適当なページを開く。よくわからない専門用語が並ぶその一ページに眉をしかめて男はため息を吐く。
「子供の頃から見知った女の胸にだって反応するなんて、男って随分愚かよね」
「いやあ、そりゃ…相手にもよるでしょ」
「あんたが私をそういう目で見てるってこと?やめてちょうだい。気分が悪いわ」
事務の女の子がアイスコーヒーをグラスに入れて、それをどこに置くべきか逡巡する。以前にもこうして男と女とがやり取りをしている際に、彼女は男と向かい合わせのソファの前にグラスを置き、女から不興のため息を買ってしまったのだった。曰く、「この男の目の前で悠々とコーヒーなんて飲みたくないわ」。
「置かなくていいわ。寄越してちょうだい」
「は、はい」
小さな、か細いかよわい高い声が返事をして、汗をかいたグラスを女に手渡す。女は受け取るなり一気に飲み干し、氷だけになったグラスを事務に手渡した。
「ごちそうさま」
すごすごと部屋を後にする事務。恐らく彼女の口から事務仲間には「今日はどうやら機嫌がよくないようだ」と語られるのだろう。女は汗をかいた身体にダイレクトに直撃する冷房の冷気に身震い一つ、肩にかけていた大き目のバッグから薄手のカーディガンを取り出した。
「だってねえ、まさかお隣のNAMEちゃんが、こんな世界でこんな風になるとは思ってなかったんだよ」
「お褒めの言葉をどうもありがとう。私もお隣のハナタレ小僧がこんな風貌になるとは思ってなかったわ」
女は自分のデスクの上にバッグを放り、取り出したカーディガンを肩からかけた。袖を通さないのは彼女なりの考えがあってのものだ。つまり外に出る頻度が決して低いとは言えない中、カーディガンを着て脱いでとそう何度も繰り返すのは合理的ではない、と。ちなみに以前男が「なんで袖通さねえんだい?」と聞いた時には「あんたには関係ないわ」と一蹴された。
「…NAMEちゃんは変わんないよね」
「あんたは変わったわよねえ。上級生にいじめられたって泣きながら私に助けを求めてきたのは何年生の時だったかしら」
「……やりづれえなあ。忘れてほしいもんだけどねえ、そんなのは」
「こんなに面白いこと忘れるなんてできるわけないわねえ」
「…忘れさせてやろうか」
「土手から落ちたときの怪我の痕、お尻だったかしら」
一度は鋭い眼光で女を捉え、そして主導権を握ったかと思った男は降参とばかりに両手を小さく挙げた。女はデスクに寄りかかり腕を組んだまま、男を冷たく見下ろし、その口元は弧を描いている。女は、男の言う「忘れさせる手段」が何なのか、アタリをつけてそう返したまでのこと。そして男が降参した為にそれが真実、それを示したのだと知った。それまで一応にっこりと笑っていた瞳が冷たいそれに変わったのは、そういう理由からである。
「…最低ね」
「…こんなイイ女になるってえ知ってたら、もう少しマトモなとこ見せとくべきだったねえ」
「面倒な男」
「男なんざ、みんなこんなもんさね」
「四木さんなんて、随分とスマートじゃない」
「……今、他の男の話題なんて出すもんじゃあないよ」
頭に全く入らない小難しい経済雑誌は女の私物である。つまりそれを全て理解できるだけのキャパシティがある。女は今この部屋にいる男とコンビを組まされているが、実質四木という上司の知識面での右腕と言っても過言ではない。
「仕事のできない男より、できる男の方がいいっていうだけの話だわ」
「…わかりましたよ。さあて、じゃあ俺は大人しく外回りでもしましょうかねえ」
「賢明ね」
パラパラとめくる雑誌はどのページも不可解な言葉や数字が並ぶ。論文が掲載されているが、こんなの見て誰が喜ぶんだと男は口の中で悪態をついた。けれど現実その雑誌をくまなく読む人間が自分と同じ空間にいるのだから、男はため息の大バーゲンでも開きたい気分になった。
「本当に、あんなに優しくて強かったお隣のNAMEちゃんがこんなになるなんてねえ」
「今も優しくて強いわよ、あんたよりはね」
「男と女じゃ、違うだろ」
「体格や筋力だけでしか強さを計れないから、あんたはダメだって言うのよ」
さらりと、なんでもないことのように言い放たれた女の言葉。男がいくら凄んで見せても、結局は女に敵わない。それは勿論女に論破されるからだけれど、それ以外にも理由がある。
「外回り、NAMEも行こうか」
「…二人も必要ないわよ」
「ついでに昼メシおごってやるよ」
男は、女に勝てなくともかまわないと思っている。力ずくなら女を篭絡することもあるいは可能かもしれない。しかし男自身がそれを望んでいないのだ。
「…仕方ないわね」
しばし考え込んだ女がカーディガンを丁寧に畳んでバッグに入れる。バッグを肩にかけたところで、男は雑誌をソファに放り投げて立ち上がった。事務がご丁寧にも閉めてくれた扉を開き、恭しくレディファーストの格好を取ったのを見て、女は小さく噴出して笑う。
「ああ、やっぱりNAMEは笑う方がいいねえ」
扉を通る女の背中に手のひらを添えて優しく押し出す男は、杖をつきながら扉をそっと閉じた。男をゆっくりと振り向いた女が、「やっぱりジャケット脱いだら?」と柔らかく笑う。
RE:new
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弌弌さま
幼なじみ赤林、こんな感じでどうでしょうか。
このリクエストを見た瞬間、「その手があったかああ」と大層悔しがりました。笑
それだけときめく設定だったということです。
赤林さんの幼なじみの女性、強い子にしようか弱い子にしようか悩みました。
楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
リクエストありがとうございました。