呼ばないで。呼ばないで。
思わず耳を塞いだ夕方の部屋の中。
橙の光が一直線に照らす中で私はソファに座って頭を抱えた。
「………どうしたんです」
やさしく尋ねる声色が頭上から降ってくる。
その柔らかな響きすらも今は聞きたくなくて、耳を塞ぐ手のひらに力をこめる。
紳士は殊更に紳士らしく。
女性には女性らしい扱いを。
女子には女子らしい扱いを。
かつて私の抱いていたヤクザのイメージを一瞬で払拭した男が今目の前で白いジャケットと黒いシャツによく似合うボルドーカラーのタイを結んでいる最中。
「四木さんなんて、きらいよ」
私を特別だと言う。
それなのに彼は私を「お嬢さん」と呼ぶ。
他の女の子を呼ぶように、私を呼ばないで。肺腑の底に暗く澱を作る濁った感情をむき出しにして願う。
そんなこと、我侭になんてならないくらい、ささやかなはずでしょう?
小さく見上げた先の表情には、普段の悠然とした空気がなくなっていた。
見開かれた瞳と、一文字に結ばれた唇。ネクタイを結んでいた指先は止まり、僅かな時間でうつくしく形を整えられるはずのそれが結び途中の無様な形を晒している。
「…何よ」
「…………いえ、少々」
それきり、なんだか微妙な表情のまま黙ってしまった男は私を見ない。
耳を塞いでいた手が自然と膝の上に落ちた。同じ時間を同じだけ過ごして重ねてきたはずなのに、私の気持ちと彼の気持ちとでは絶対的な温度差がある。
彼は私を名前で呼ばない。
名前で呼んでとせがんでみても、いつも曖昧な表情を浮かべてはっきりしない返事を寄越すだけ。それはセックスの最中でも。それがどれだけ私にとって淋しいことかを理解していて呼ばないのか、それとも理解していないのか。
私はいつ諦めたんだろう。
そしていつ、諦めきれなくなったのだろう。
ソファに座った私と、これから出かけようとしている男と。
「…ねえ、名前を呼んでよ」
バッグの中に入ったままの小さなジュエリーボックスに鎮座する、シルバーのリングをおもう。
視線を落として、零れ落ちてしまいそうな涙を堪える。彼にとっては我侭かもしれないことだけど、私にとっては我侭じゃないんだよ、なんて。
「…ねえ、もし名前を呼んでくれないのなら、」
「…なんでしょう」
「私、もらった指輪を返してもいい、と、そう思ってるんだよ」
そして再び沈黙があたりを包み込む。
部下に示しがつかないからと、早い時間に準備を整え出かけようとしていた男の行く手を阻むのは私。今日の全部が彼にとって我侭に映っても、今日の私は引き下がる気が無い。
曖昧な中に美しさがあるのだと日本語を形容したのは誰だっただろうか。
それでも私が欲しいのは、曖昧さの美学や言葉の美しさじゃない。
名前を呼んでくれない男からもらった、はっきりと現実味を帯びたリングなんて欲しくない。シンプルなデザインのそれを取り出したとき、彼は当然のように私の左手の薬指にそのリングを通したけれど。そしてそれはぴったりと私の薬指に合うものだったけれど。
膝の上でぎゅうと結んだ手のひらに爪が食い込んだ。
左手の薬指にリングはない。
「…これだから、女性は怖い」
「四木さん?」
「少し目を離しただけで、どうしてこうも変わるのでしょうね」
オレンジ色に染まっていたはずの室内に影を落としたその声音と、夕闇。
彼は顔をしかめて、私の唇に指を伸ばして、そしてまた曖昧に笑った。
彼が負うものは暗い。それをわかっていて付き合って、そして私がそれを理解していることを理解してリングをくれた彼。そして全部わかった上でリングを受け取った私。
「…一つだけ教えていただけませんか?お嬢さん」
「……何よ」
「貴女はいつ、"女性"に変わったのです」
肌を滑る指先のひんやりとした感触に身震いしながら、見つからない答えの代わりにいちどゆっくり、キスをした。
離れた唇が静かに、ゆっくりと弧を描く。困ったように下がった眉が答えだと思ってもいいのか、それを確信するにはまだ私には自信が足りない。
四木さんがそばにいるなら、怖いことなんかないって、それくらいのことを思わせて。
「困りましたね。…指輪を返されてしまっては、もう貴女を抱きしめられない」
「…名前を呼んでくれたら、教えてあげる」
私の左手を取って、手の甲に唇を落とした四木のその唇が、薄く開いた。
「NAME、指輪を」
薬指の先を唇に挟んだその視線が今日やっと、私の表情を捉えてくれた。
「だめ、もっと呼んで」
「名前を呼ばなければ、いつでも逃げられるはずだっただろう」
「呼ばれなくても逃げられないのに、どうすればいいの…」
抱きしめられた四木の肩からは、苦い煙草のにおいがする。
羽化する心臓
*
咲夜さま
私の言葉が足りなかったようでごめんなさい。
作品名の欄はリクエスト作品のタイトルではなくて、キャラクターが登場する作品(ex.DRRR!)を入力するものだったのです…
甘い話、甘い話ってなんぞやと考えている内に出来上がった話はほんのりビター風味になりました。
ちょっとでも甘いと感じていただければいいのですが。
リクエストありがとうございました。