男はその日、普段通る細い裏道に目を向けて、その涼しそうな空気を横目に珍しく踵を返した。
夏目前の生ぬるい風に、容赦なくアスファルトに照りつける太陽光線。その下を歩く男の出で立ちはおおよそこの気候にふさわしくなく、大柄のシャツとスーツとで異質な空気を身にまとう。
少し丸めた背中に杖をつくその人物に、道行く人間は無言で道を譲り密やかに言葉を交わした。

その中で男の視界に入ったのは、目の前で涼しげに真っ直ぐ伸びた細い背中だった。

その感情をどう形容したものか、男の目前を悠々と行くその背中はこれまで目にしたことがないほど美しい。
ベージュのシャツワンピース、裾から覗く膝裏も地を蹴る度に真っ直ぐ伸びて、その足には黒いピンヒールのサンダル。
ウエストのベルトがその細さを強調している後ろ姿に、男は一人口元を緩ませた。


「…お姉さん、これから時間ある?」


背後からつかつかと近寄り、その後ろ姿の主の横から軽々しい誘いを放つ。今度、驚いた表情を浮かべたのは女の方であった。


「さすが、後ろ姿があんまりにも綺麗だったからねえ…真正面から見てもなかなか綺麗じゃねえかい」


女は唇に指を添え、男の顔を見つめながら足を止めた。漆黒の瞳が濡れたように向けられるその扇状的な所作に、男は思わず姿勢を正す。


「…赤林、さん?」

「……ん?」


女の顔をにやけた視線で見つめていた男が間抜けな声を出したその瞬間、フラッシュバックするように脳裏に浮かんだのは黒いワンピース姿の背中だった。


「ふふ、背中がきれいだって、私をナンパしたのは2回目よ」

「…お姉さん、NAMEさんか」


そう、この日から一ヶ月ほど前のある日。その日も男は今日この日と同じく、特に理由もなく普段使う路地裏を使わなかった。そして出会ったその美しい背中に声を掛けたのだった。


「赤林さん、普段はあまり表を通らないって言っていたから」

「そう、なんだけどねえ…今日はなんとなく、通る気にならなくて」


珍しく言いよどむ男であったが、女は勿論この男の普段を知らない。知らないが故に、特にそれに違和感を感じることはなく肩に掛けたバッグのハンドルに手を添えた。


「でもまさか、顔を忘れられてるなんて思わなかったけど」


その悪戯な言葉に男は大げさなほど狼狽してみせた。心中に浮かぶのは言い訳ばかり、まさか十代の青年じゃあるまいし、と男の心臓が緩やかにその鼓動を速めていくのを、女は手のひらで額の前にひさしを作って眩しそうに瞳を細めて見つめる。


「あんな綺麗な背中、そう何度もお目にかかるとは思わなくってねえ、年かなあ」

「赤林さんが、結構気軽に女性に声を掛ける男性だとわかっただけでも、私にとっては収穫ね」

「……あんまりいじめないでちょうだいよ」


前回、男は自らの連絡先を殴り書きしたメモを強引に女に押し付け、そして名前を聞き出すことに成功した。
予感や運命なんて陳腐な言葉では到底表現しえない、本能的な衝動で。しかし女から連絡がくることはなく、男は今日までもあまり使わない携帯電話を気にする生活を続けていた。
もしかしたら今日こそは、と、青臭い期待は萎むどころか段々と膨らみ、そして今日、男は女からの連絡より早く、偶然にも直接出会うこととなったのだ。


「また会ったら、次はメールをしてみようかと思っていたのよ」

「…どうせなら電話にして欲しいねえ」

「話す話題があるとも思わないけど」

「そんなこと言われたら、おいちゃん泣いちゃうよ」


サングラス越しに涙を拭うジェスチャーをする男に、女が「じゃあ、」と微笑んでみせた。凛とした姿に、時折吹く風が髪の毛をさらって白いうなじがちらりと露わになる。


「NAMEさん、…一目惚れって、信じるかい?」


女の横顔に放り投げた男の声が、生ぬるい風に溶ける。女が唇を少し尖らせて考える素振りをする中で、男は矢継ぎ早に続ける。


「NAMEさんに会いたかったんだよ、綺麗な背中を見るとNAMEさんを思い出す。だから声を掛けた」

「仕方ないですね。…信じてあげましょう」


仕方無さそうに眉を下げて、そして破顔一笑。その笑顔に再び男が胸を高鳴らせたことは、恐らく男をよく知る人間であっても想像は難しいだろう。


「…メール、楽しみにしてるよ」


踵を鳴らして足を踏み出した女が、「電話します」と口にして男に背を向けたその瞬間、男は恥ずかしげも小さく拳を作って笑った。



サマー オン タイム


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澪槻さま
赤林に一目惚れをする話だったか赤林が一目惚れをする話だったかわからなくなり、結局赤林が一目惚れをしました。
赤林は女性の背中に欲情するんじゃないか、という勝手なイメージです。笑
リクエストありがとうございました。



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