「あ、止まってる」
それに気づいたのは朝食を食べているときだった。
真正面に座る彼はこちらが胸焼けしそうなくらい、ホットケーキにシロップをたっぷりとかけておいしそうに口に運んでいる。
「それ、俺がやった時計か?」
「そう、…今日はこの時計していきたかったのに」
「ふーん…ちょい貸して」
広げられた手のひらに、手首からはずした華奢なデザインの腕時計を置いた。
付き合い始めて最初のイベントは私の誕生日だった。
そして誕生日を教えた記憶もないのに、「気に入るかわかんねーけど」とそっぽを向いて私に突きつけられた小さな箱。
中にはこの腕時計が鎮座していた。
「ドライバーあるか?」
「うん、ちょっと待って」
静雄が腕時計を裏返して、裏面の表示を読みながら言う。
どうやら直してくれるらしい。
ちっぽけな工具箱から小さなドライバーを取り出して差し出したら、こっちを見ずに「ん」とだけ言ってそれを受け取った。
「直る?」
「電池がなくなっただけなら」
大きな体に大きな手、普段は怪力だと騒がれているけれど、彼は意外に繊細な作業も好きだったりする。
もっとも、そうでなければ日常生活すら送れないだろうけど。
「ボタン電池、あったかな」
「ある。俺の腕時計も先週電池なくなったから、取り替えたんだ」
ようやく顔を上げた静雄が、自分の左手首を指差した。
そこで時を刻むのは、静雄の誕生日に私がプレゼントした腕時計。
私がもらった後にプレゼントしたものだけど、電池の減りは彼の方が早かったらしい。
最初は試験用電池が入っていますって、そういえばどこかに書いてあったっけ。
「どこにあるの?」
「ベッドんとこ」
彼が丁度カチリと腕時計のふたを取り外して電池を取り出したのを見て、椅子をたつ。
ベッドのとこってどこだろう。
ベッドサイドに立ってきょろきょろと見回しているうちに視界に入ったボタン電池のパッケージを見つけて手を伸ばす。
2つのうち1つがなくなっているそれが避妊具の小さな箱の横にあって、なんとなく照れてしまった。
「…はい」
「おー…どうした?」
「変なとこに置かないでよ…」
「どこにあった?」
「…ゴムの、よこ」
「…別に変なとこじゃねーじゃん」
小さな電池を受け取って、太くて長い指が腕時計にはめ込んだ。
それと同時に小さく聞こえてきたのは秒針が動く音。
「あ、動いた」
「良かったな。今日使いたかったんだろ?」
「うん、ありがとう」
細いドライバーを回してふたを元通りに取り付け、すっかり元通りに動くようになった腕時計の時間を合わせてくれる。
「あと、さっきの話」
「なに?」
「ゴム、いらねえんなら捨てようぜ」
「そういう話じゃなくてね、」
「違くて」
「…なんの話?」
カチッと小さな音がして、私に手渡される腕時計。
秒を刻む針に埋め込まれた石が電気に照らされて輝く。
「俺はもう、いらねーと思ってる」
「え、でも、必要じゃない」
「子供、作ろうぜ」
朝の平和なワンシーンを揺るがす発言。
思わず受け取った腕時計を握り締めたら、それが手の中で確実な鼓動を打ち続けている。
「…意味、わかってる?」
「わかってる」
静雄の顔は背けられて、代わりに見えるのは赤くなった耳だけ。
2年間変わらない照れ隠しの仕草。
「ほんき?」
「…泣くなよ」
静雄の指先でドライバーがくるくると踊る。
いつからそんなこと考えてたのかな、とか、なんでこのタイミングで?とか、なんかいろいろ聞きたいことがあって、それでも手の中の時計はいつもどおりで、目の前の静雄もいつもどおりで、なんかそれだけで泣けてしまった。
「だって、いきなり」
「お前となら、特別じゃなくてもいいと思ったんだよ」
…そっか、うん、そうだね。
特別な日とか、特別な時間とか、そんなのじゃなくて、それでもいいんだよね。
そうやって二人でやってきたんだもんね。
静雄の指先が恐る恐る、私の目尻を拭ってくれた。
「…返事、」
「…帰ってきてからでいい」
静雄がすっかり冷めてしまったであろうホットケーキをばくばくと乱暴に口に放り込んで、ミルクで流し込んだ。
私の仕事は普通の会社員で、直してもらったばかりの腕時計を見下ろしたら既に時間が迫っている。
「じゃあ、行ってきます」
「おう、いってらっしゃい」
"いってきます""いってらっしゃい""ただいま""おかえり"が当たり前になった日から、そしてそれらがもっと身近になるための。
閉めた扉に寄りかかって、腕時計を腕にはめる。
この腕時計のベルトには少しのクセがあって、不器用な私ではなかなか一人でつけられない。
腕時計をくれて、そしてそれを直しながらずっと使っていって。
一度閉めた扉のドアノブに手をかけて回した。
「静雄、」
「…どうした、もう出ないと間に合わねーんじゃねえか」
「腕時計、つけて」
仕方ねーなあって笑って私の腕時計に手を伸ばした静雄の左手首には、私が初めて買ったメンズの腕時計が当然のように居座っている。
「…ほら、できたぜ」
「うん、ねえ、私」
「ん?」
「もう、ほかの腕時計、使えないよ」
有無を言わさずに閉じた扉。
駅までの道を走りながら思う。
そうだね、帰ったらゴムの箱、捨てちゃおうか。
手首では腕時計が小さく音を立てながら、変わらずに時を刻んでいる。
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